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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第一章 昭和二十年 七月
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昭和二十年 七月二十八日 実方辰顕 清水の双子

「敵性語の本だぁ?」


 夜、軍服姿で戻って来た綜は、周から、紘の本の話を聞かされて、珍しく素っ頓狂な声を出した。


 周は、シー、と言って、右手の人差し指を自分の口に当てた。


 綜は、げんなりした声で言った。

「よくまぁ、色々な事を考え付くものだなぁ」

「でも面白(おもして)よ。兄上も一緒に読もうよ」


 周は、瞳を輝かせながら、そう言った。


 綜は、うーん、と言って、左の(てのひら)を自分の額に押し当てた。


「御前が、そう言うからには、そうなのだろうとは思うが。ちょっと疲れていて、話しが頭に入って来そうにない。悪いが、仮眠室で先に寝るぞ。御前は好きにしろ。俺は誰にも言わんし、口も出さん」


 其れだけ言い残すと、綜は、(きびす)を返し、病室を出て行きがてら、後ろ手に、此方に手を振った。


 周は、詰まらなさそうに、はぁい、と言って、昼までは繁雪が居た寝台に陣取った。


「今日は此処で寝ちゃおうっと。あーあ」


 周は、寂しそうに溜息をついて、黒っぽい浴衣の裾を捲って、寝台の上で胡坐を掻いた。


「軍の仕事から戻って来る日はね、何時(いつ)も、ああやって凄く疲れているの。怖くて聞けないけど、一体どんな疲れる実験をしているのかな。何だか、兄上が変わっていくみたいで、凄く(つら)い時が有るの」


 辰顕と紘は、周の言葉に、顔を見合わせた。

 実験の内容を、ほぼ知ってしまったが、やはり、周に言える気はしなかった。


―…疲れる、で、済めば良いけど。


 もし荻平の話が本当だとしたら、綜も、其れと知らずに、軍紀違反の逃亡兵ではなく、特に罪の無い傷病兵相手に、何かをしなければならない立場の筈で、其の事実を勿論、此の双子に伝えるわけにもいかない。


 何にせよ、綜が喜んで其れに加担していないであろう事は、其の疲弊具合から、傍目にも明らかで、性格の変容くらいなら容易に起こりそうな環境だと辰顕は思う。


―…父さんは、だから俺に、なるべく実験に参加させたくないわけだ。きっと其れは、親心ってやつで…。嗚呼、でも、綜ちゃんは、其れに参加しなければならない…。仕方が無い事だけど、何だか申し訳ない。…綜ちゃんは、軍の正式な仕事と思って遣っているのなら、余計に。


 いいや、と周は言った。

「ね、紘。名前、考えてくれた?」


 周の言葉に、紘は、うん、と言って、手帳を開いた。


 ビッシリと人名が書いてある。

 外出も出来ず、大人しくしている様に言い渡された暇な時間を、人名の和訳と言おうか意訳と言おうか、そんな腹の足しにもならなさそうな事に費やしたのかと思うと、辰顕は少し紘が気の毒に思えたが、紘自身は楽しそうだったので、昨日今日に起きた、あの寒々しい出来事と比較すると、ホッとする気もした。


 辰顕が手帳を覗き込むと、紘の苦心の跡が見えた。


 Minnie May BarryとMinnie Andrewsという、二人のMinnieが居るのを、(やり)(たに)皐月(さつき)(いさみ)智恵子(ちえこ)に分けている。

「おお、良いじゃない。此れ、いけそう」

 周は嬉しそうに言った。


―そうかな?却って覚えにくそうだけど…。


 辰顕は、そう思ったが、二人が楽しそうなので、黙っている事にした。


「よう、混ぜてくれよ」

 急に洋灯(ランプ)の光が二つ増え、声がしたので、三人は飛び上がらんばかりに驚いた。


 見れば、此れまた浴衣姿の、陶冶と薫陶である。


 辰顕は、ドッと冷や汗が出た。


「治ちゃん、薫ちゃん」

 周が、オロオロとした声を出した。


 紘は肩を竦め、身を縮める様な素振りをして、清水の双子を見詰めた。


 しかし相手は、そう怖がるなって、と、明るい声で言った。

「大丈夫、先刻(さっき)通りかかった時、綜の声で気付いただけだよ。敵性語の本、面白いって?聞かせろよ。匿われるって、こんなに退屈なのか。別に誰にも言いやしないよ。な、薫」


 口元に小さな黒子の有る、白地に紺の籠目模様の浴衣の方が兄の陶冶(とうや)、白地に麻の葉模様の浴衣の方が弟の薫陶(くんとう)である。


 籠目模様の方の言葉に、麻の葉模様が頷いて、言った。

「君達が嫌でなかったらだけど」


 いいえ、と紘が答えた。

「嫌だなんて、とんでもないですよ。其方(そちら)こそ、敵性語の本が嫌ではありませんか?」


「いやー、暇で、暇で。今日なんて、一ヶ月分寝たかも。面白そうなら何でも良いさ。別に本でなくても良いけど、何でも良いから、何か話してくれよ」

 陶冶は、そう言うと、うーん、と伸びをした。


 良いねぇ、と、周は嬉しそうに言った。

「じゃあ、皆で読もうよ。座って、座って」


 陶冶は周の寝台に腰掛け、薫陶は辰顕の寝台に腰掛けた。

 自然と、四人の人間に囲まれる様な形になって、紘は眼を(しばた)かせたが、周は、紘の戸惑った様子には御構い無しに解説を始めた。


「此れは『緑家(みどりや)の好子』っていう御話だよ」

 陶冶と薫陶は、んっ?と言った。


 陶冶は腕組みをして、言った。

「あれ?敵性語の本だよな?何か、こう、グロリア・スワンソン、とかコリーン・ムーアとかでなくて?好子?」


 意外にもサイレント映画の有名美人女優の名前を言う陶冶に驚きながらも、辰顕は、其の疑問は(もっと)もだ、と思った。


「覚え難いから、紘に、日本人みたいな名前、考えてもらったの。本当は違うよ」


 周の言葉に、薫陶が、そう、と、戸惑った様に言った。


 無理も無い、と辰顕は思った。


 周は、ねぇねぇ、と言って、紘に催促した。

「手違いって言われて、好子は如何(どう)なったの?あ、そうだ、折角(せっかく)だから最初から話して」


 紘は、分かった、と言った。


 もう一回か、と辰顕は思ったが、紘が語り始めると、登場人物の名前が違うせいか、頭の中では、以前とは(やや)違う話になり、割と楽しめた。


 しかし、二回目なのにも関わらず、周が、好子が輝子に手違いだと告げられる場面で、もう一度泣いたのには驚いた。

 やはり、周の顔を見ているのは面白いと思う辰顕である。


 (やや)あって、()(かけ)夫人の手違いだった事が判明し、好子が『錐の様な』と表現する、意地悪な吹上(ふきあげ)夫人の元に遣られそうになる場面では、陶冶も口元を押えて、真剣な顔で聞き入っていたので、辰顕は、周と陶冶は気が合うらしい、と思った。


 好子が、輝子に連れられて、明智兄妹の住む緑家(みどりや)に帰る場面では、遂に、周も陶冶も薫陶も涙した。


 辰顕は、あまりにも自分以外の三人の反応が良いので、却って泣くに泣けず、眼を(しばた)かせながら、三人の顔を見た。


―面白い人達だな。


 紘も、あまりに良過ぎる聴衆の反応に、(やや)戸惑った様子を見せていた。


 陶冶は浴衣の袖で目頭を押さえ、言った。

「良かった。好子、良かったなぁ。(つら)かったろうに」

「兄上、此れ、本当に、本の事は俺達だけの秘密にしよう。誰かに本を取り上げられたら続きが読めない」

 薫陶が、手拭いで目を擦りながら、そう言うと、陶冶も、そうだなぁ、と言った。


 周も、そうだよぉ、と言って、手拭いで顔を擦った。


「…そんなに気に入ってくれて良かった」

 紘は、昨日から何度目かになる台詞を、大きな眼を(しばた)かせながら口にした。


「だってだって、()だ登場人物沢山居る、長い御話だから、続きが気になるじゃない」

 周が、そう言うと、陶冶が、どれどれ、と言って、紘の手帳を覗き込んだ。


「おお、こんなに。え?吉雄?」


 陶冶は、思わず、といった様子で、そう言うと、紘の手帳を二度見した。

 薫陶も陶冶に倣って紘の手帳を覗き込むと、瞠目した。


「そうだよぉ。吉雄は、好子の事が好きなのに、好子を怒らせて、なかなか仲直り出来ないらしいよぉ」


 周が、ニヤニヤしながら、そう言うと、清水の双子はゲラゲラと笑った。


「せめて、此の字にしないでくれよぉ」


 陶冶が、ヒーヒーと苦しそうに笑いながら、そう言うと、違うの、と言って、周もゲラゲラ笑った。


「本当は違う字だったのを、紘に、よしおじちゃんの字に変えてもらったの」

「だって此の字じゃ、俺の中の吉雄、垂れ目の色男だよぉ」

 薫陶が、そう言ってから、笑い過ぎて咳き込んだ。

 辰顕も可笑しくて、つい吹き出した。

 皆同じ事を考えていたらしい。


 清水の双子は、繁雪が吉雄から買い取った家が今は実家なので、吉雄とも親交が有ったのである。そうなると、やはり吉雄は、ギルバートではなく、頭の中で『坂元(さかもと)吉雄(よしお)』の姿になってしまうのであろう。


―思ったより登場人物の名前は重要なのでは?


 込み上げてくる可笑しさを堪えている辰顕を他所に、紘は、淡々と、大体合っていますよ、と言った。


「垂れ目か如何(どう)かは分からないけど、男前らしいです。女の子に人気が有るとか何とか」


―男前なのかよ、吉雄。


 遂に、辰顕も堪らず、大笑いした。

「…いやぁ、そんなに気に入ってくれて良かった」


 紘は、笑う皆を見て、再び、眼を(しばた)かせて、そう言った。


 いやぁ、面白かったぁ、と陶冶は言った。

「有難う。君、紘君だっけ?」

「はい。紘で良いですよ」

「俺も、(はる)で良いよ。えーっと、君は、お(けい)さんのところの長男の、辰顕君だよな?」

「はい。俺も、辰で良いですよ」

「じゃ、此れから宜しく、紘、辰」

「俺も(かおる)で良いよ」

「はい、宜しく」


 紘は、清水の双子に向かって微笑み、そう言った。


(つら)い事は多いけど。ミッドウェー海戦の敗因っていう言葉も気になるし、他にも心配な事も多いけど。こうして、今夜は笑えた。笑って終われる。


 辰顕は、再び、笑い過ぎて出た涙を拭った。


 二十歳の清水の双子と、十七歳の周と、同じ学年の紘と過ごした其の夜は、確かに楽しくて、辰顕も、清水の双子に対して、心から、宜しく、と言った。

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