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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第一章 昭和二十年 七月
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昭和二十年 七月二十八日 実方辰顕 荻平

 顕彦達が去ると、紘は、中断していた食事を再開したが、かなり慌てて食べたらしく、喉に(つか)えたと見えて、湯呑の中の、()っくに冷めたであろう白湯を、慌てて飲み干した。


 ゴホゴホと呼応が咳き込むので、辰顕は、背中を擦った。


「こうして見ると、本当に似ているなぁ、お(よし)さんと」

 荻平は、そう言いながら、ツカツカと紘に近付き、顕彦が座っていた椅子に、ドカッと座った。


 やっとの事で食事を終えた紘は、辰顕に渡された手拭いを、礼を言いながら受け取り、口元を拭った。


「そんなに似ていますか?」

 紘は、そう言うと、荻平の顔をジッと見た。


 経年劣化で、ほんの少し飴色に色付いてきた、病室の白い漆喰壁に、陽光が反射し、其の光を受けた紘の瞳が、更に透き通る様に光った。


 其の目に見据えられた荻平は、少し(ひる)んだ様子を見せて、言った。


「目は似ていないな」

「そうですか」

「でも、目以外は、よく似ている」

「よく言われます」


「お(よし)さんは綺麗だったけど、俺には、良さがサッパリ分からなかった」


 荻平は、紘の瞳の奥を覗き込むかの様に、ズイッと紘に顔を近付けた。紘は、あの、美しい目を見開いた。


 荻平は、今度は怯まずに、続けた。


「俺が最後に、お(よし)さんを見たのは、お(よし)さんが十二、三ってところだっただろうか。あまりにも、こんな里には似つかわしくない程美しくて、俺は、あれは山の神か何かだと思っていた。巫女さんだったしな。お(よし)さんと君が似ていると言うより、あんな顔の人を他に知らないから、少しでも似ている君を見ると、ああ、そっくりだ、って思うだけなのかもしれない。もう亡くなられたとか?」


 はい、と紘は答えた。


 そうか、と荻平は言った。

「知らなかったけど、信じられないな。佳人薄命なんて言葉は、俺は好かないが、あれはもう、そう言う他に何とも言えない美しさだった。だから俺は、あの人が嫁に行って子を産むだなんて、俺達と同じ人間の様な事をするとは、頭の何処かで、全く信じていなかった。俺の中では、(ヤマ)神様(ンカンサァ)の化身だったから」


 (ヤマ)神様(ンカンサァ)は女だという話は有るが、其れ程の美、というのを、辰顕は想像しきれなかった。


 辰顕の目に映るのは、其の人に似ているのだという同い年の少年だった。


 紘は黙って荻平の目を見ている。


 荻平は続ける。

「俺には全く縁の無い、一緒になるなんて思いも寄らない様な人だった。俺には、お(よし)さんは、単に、(みさお)という人の娘だというだけの存在だった。単に、お(よし)さんと一緒になる男が、(みさお)殿の後継になる、というだけの認識だった。でも、人によっては、連れて逃げ出したいくらいの存在だったわけだ。俺には其れが分からなかっただけで」


 荻平は、紘の目を見詰めた(まま)しんみりと続ける。

「お(よし)さんは、そういう意味でも特別だった。もう一度会って、キチンと話をしてみたかったな、大人になって、親になった、お(よし)さんと。あの頃、何を考えていたのかって」


 よく分かりません、と、紘は呟いた。

「俺には、ただの母で、ただ、其れだけでしたから。そんなに綺麗だったかなって。でも、皆が母の死を残念がってくれているのは分かります」


 紘の目と、荻平の目は、()だ見詰め合った(まま)動かない。


 荻平の目には、(よし)と紘の姿が重なって見えているのかもしれない、と辰顕は思った。


 紘は続ける。

「此処には俺の知らない、色々な母が()だ居るみたいに時々思えます。そういうのは、悪くないものですね」


 紘の澄んだ瞳を、遂に受け止めきれなくなったのか、荻平はスッと目を伏せて、言った。


「ごめんな。心の何処かで俺は勝手に、お(よし)さんが誠吉さんを(そそのか)して里を出て行ったのかもしれないと思っていた。お(よし)さんが里を出たがったのかもしれないって」


「違う…のでしょうか?俺は結局、両親が里を出た理由を、()だ知らされていないので」


 紘の言葉に、荻平は口を(つぐ)んだ。


 昨日顕彦から何を聞かされたのか、辰顕も気になるところだが、言う気は無いらしい。


 紘は、母は里を出たかったのでしょうか、と言った。

 荻平と紘の視線が再び交わる。


 荻平は、悲しそうな顔をして、口を開いた。

「俺は、そう思う。其れでやっぱり、出て良かったのだろうと思う。もう里は、あの頃みたいではないからな」


 紘は、其れを聞いて、そっと目を伏せると、そうですか、と言った。


「さぁ、俺のしたい話は全部話した。此れで俺は、話しの雲行きが怪しくなったら何時(いつ)でも逃げ出せるってわけだ。其れで繁雪さん、何か御用かな」


 荻平が、そう言うと、()っくに軍服の上着を着直した繁雪が、ゆっくりと衝立(ついたて)を取り払い、荻平と対峙して、言った。


「病院の話を御聞かせ願えませぬか」

 荻平は嫌な顔をして、病院って?と言った。

 繁雪は、キッと(まなじり)を上げて言った。

「実方医院『本館』の話です。此の、別館ではなく」

 荻平は、辰顕と紘の顔を見た。


 紘は淡々と言った。

「実方医院本館は傷病兵収容病院で、其れで、其処で人間を使って実験をしているって」

 荻平は、な、と、大きな声を出して、言った。

「繁雪さん、こんな子供に何を吹き込んだ?」


 繁雪は怯まず、荻平に対峙している。


 事実は逆で、紘こそが繁雪に其れを吹き込んだのであるが、繁雪は、其れを自分が掴んだ話として通すと決めたらしかった。


 キッとした表情を全く変えない。


 紘が口を開く。

「荻平さんの陸軍の所属を教えて頂けますか?階級と所属。軍隊手牒(ぐんたいてちょう)でも良いですけど」


 紘が、そう言うやいなや、荻平は、溜息をついて言った。

「無いよ、そんな物」


―やはりそうなのか。


 そう思うと、辰顕は、また、夏の盛りだというのに寒気がした。


 何処まで知っている、と言って、荻平は舌打ちした。


 紘は、そうですねぇ、と言った。

「本当は、従軍しているのは軍医の二人と顕彦さんくらいで、他の人は何を遣っているでも無い、とか」


 紘の言葉に、荻平は、おい、酷いじゃないか、と言った。

「繁雪さん、有る事無い事子供に吹き込んで」

「ああ、じゃあ、人体実験の方は本当の話ですか」

 紘が、淡々と、そう言うと、荻平は、う、と言った。


 普段は気弱な面も見せる紘だが、意外に意地の悪い追及をするので、辰顕は感心した。


「病院の話を御聞かせ願えませんか」

 繁雪が静かな声で、もう一度そう言うと、荻平は、ふん、と鼻を鳴らした。

「病院の何が知りたい」

 成り立ちですかね、と繁雪は言った。

「其れと、私が従軍しているか否か」


 静かな声で、そう続ける繁雪に対して、荻平は、吐き捨てる様に言った。


「けっ。俺が出来るのは、思い出話と独り言だなぁ」


 後は知らん、と言って、荻平は椅子の上で足を組み、腕組みした。


「其れでも宜しいですよ」

 繁雪は、移動して辰顕の寝台に腰掛けながら、そう言った。


 辰顕も、何と無く繁雪の隣に座った。


 繁雪に間近に座られて、荻平は居心地悪そうに眉を(ひそ)めた。


「此方も、弟二人が、こういう事になってしまいましたから。そろそろ事情を知りたいのです。他言は致しません」

 繁雪は、念を押す様に、そう言った。


「他言ったって、三人もの人間に話せば同じじゃないかねぇ」

 そう言うと、荻平は、目を閉じて、天井を仰いで、続けた。


「昔な、弥五郎(やごろう)っていう、頭の悪い幼馴染が居てさ。頑固で、言い出したら大体聞かないし、性格も別に、そんなに良くない奴だったが、御祭り野郎でね。あいつが居ないと盛り上がらないなって、そんな奴だった。そいつが、大正十五年に死んじまってさ」


 荻平は、懐かしそうに、そう言うと、天井を仰ぐのを止め、目を開けて、窓の外を見た。

「其れからだな、八次が変になったのは。仲良かったのかも知れんな、あいつ等。今考えると」


 荻平の言葉に、紘が、親友ですか?と問うと、荻平はケラケラ笑った。

「何だ、そりゃ。懐かしい表現だねぇ。良いね、其れ。若いな」


 笑うだけ笑うと、荻平は、虚ろな目をして、赤痢って知っているかい、と言った。

「八次の取ってきた川蟹で、あいつの家族が全員…いや、此の話は、しなくて良いか。繁雪さん辺りは知っている話かな」


 辰顕は記憶に無い話だったが、荻平は、詳細を語る気を無くしたらしく、首を振ってから、続けた。


()(かく)、八次は今一人だ。家族を持とうともしない。家族で住んでいた家も今は無い。里に居る時は、勝手に学校の宿直室に寝泊まりしているらしいな。らしい、というのは、俺は現状を見ていないからだ。あいつは(ほとん)ど実験場に居る。あいつと最後に、まともに話したのは、三郎(さぶろう)()の葬式かな」


 荻平は、組んでいた脚を解くと、両膝に両手を置いて俯いて、続けた。


「三郎次っていうのは、もう一人の幼馴染で、優しい奴だったが、虫垂炎で亡くなった。昭和十年の秋に、三人目が生まれたばかりで、無理して働いていたな。暮れから痛かったのを我慢していたそうだ。其れで、昭和十一年の正月に葬式だった。手術も間に合わなかった。病院にも行かずに、温めたり、揉んだりして、逆効果だったらしいな」


―炎症を温めたのか、其れは痛かったろうに。


 辰顕も、三郎次の事は覚えている。

 ()(ばる)()だった。

 優しい人だったと記憶している。

 昭和十年に亡くなった祖母の(はや)と、物々交換の様にして、野菜を与え合っていた気がする。


 三郎次は顕彦とも仲が良かった。

 当時は()だ幼かった辰顕だが、三郎次の死を周囲が嘆いていたのは覚えている。

 三郎次の妻は今、実家で三人の子を育てているという。顕彦が気にして、時々、米や野菜を届けていた。


―そうか、あの御葬式も、もう九年前か。


 思い出して寂しい気持ちになった辰顕を他所(よそ)に、荻平は続ける。


「そんな時、大きな病院が在ると良いな、というのが最初の動機だ。そりゃ、此の建物、実方医院は既に在ったが、もっと、設備の揃った大きな所。里の者が優先的に診てもらえる様な、な。隠れ里に居る人間だって、(やまい)にもなれば、怪我もする。実方本家の人々が、里の為に私財を投げ打って作ってくれた実方医院だったが、当時は()だ出来たばかりでな。看護婦すら居なかった。言っていただろ、受付嬢の安幾さんが包帯巻いてくれていたくらいだって。本当に人手が足りなかったよ。其処に緊急手術って言ったってさ、どれだけ医者の腕が良くても無理だっただろうよ。(そもそも)里の外に病院を作ったのも、里の中にだけ病院が在っても、非常時に里が隠れ里として孤立した(まま)だったら、外からの助けが得られ(にく)いからだ。里の外の患者も来る、でも、優先的に里の者が治療してもらえる病院を作る。なるべく里の近く、しかし里の外に作って、行く行くは設備を整えて、看護婦も外から雇って、と、大きな手術も出来る規模の病院を、と考えていたところだった。しかし幾ら実方の人や栄さんが頑張ってくれても、急には無理だった。八次は躍起になった。其処で、引っ張ってきたわけだ、里の比較的近くに、大きい病院を作ってもらうって話をさ」


 辰顕は、ハッとして、言った。

「まさか、其れで?」


「本館は元々、()(ばる)集落の為の病院だった、というわけだ。軍用の病院の一つとして使用しつつ、()(ばる)集落の為の病院としても使える様にする。そして、一定の期間が来たら払い下げてもらう。本来、俊顕さんと栄さんは御礼奉公みたいな形で、軍医の真似事をやる、くらいの話だった。でもまぁ、軍医の資格は取ってくれって、向こうが急に言ってきて。昭和十四年には、俊顕さんと栄さんが軍医予備軍に志願という形を取った。軍医も不足しているから、里の為に軍に病院を建ててもらう以上、仕方ない事だったが。そして五年前に、本館が着工された、という流れだ。しかし、如何(どう)いう話が()されていたのか、蓋を開けてみれば、大事な宗教の秘術を使って、目くらましや洗脳の研究を遣る施設になっていた。其れが、八次の提案した、里全体の徹底的な従軍だ。結局、(おさ)が、八次の尻拭いで軍の条件を飲んだ。病院は既に着工に着手されているのに、今更拒否しても、里を丸ごと消されかねんからな。其れで(ただす)殿が怒った、というのが本当のところだ。病院有りき、という話が、何時(いつ)の間にか、術を使った従軍有りき、という話に変わっていたのだから、本家当主の誰かが怒っても、話としては自然さね。しかも、栄さんは自分の息子だからな。其れを、八次が、裏から手を回して、如何様(いかよう)な手を使ったのか、里の論調を従軍賛成に変えてしまった、というわけだ。坂元家は何も悪くないが、元々の立場が弱かった事も有って、ただ従軍に反対した家、という雰囲気になってしまったのさ」


 雰囲気ですか、と紘は呟いた。

 そうだよ、と荻平は言った。


「雰囲気だよ。そうした方が良いかもって、周りを信じ込ませちまう。根拠は無い。あれだ、敵性語ったって、法的な根拠は無いだろ。敵を知るのも大事だしな。近頃は如何(どう)だか知らんが、予科練なんかでは英語の授業が有ったって話じゃないか。敵と対話出来て損は無い。だから本来、使っても別に罰せられないが、国民が、何と無く敵国の言葉は使わない方が良いって雰囲気を作ったのさ。そんな例、幾らでも有る。()(かく)(ただす)殿の仰っていた通り、苗の神教の術を里の外に漏らすのは、やはり得策では無かった。…今更遅いが。あれは守るべきもので、外に出すものでは無かった。…八次も知らなかったよな、まさか、…人を殺せるなんてさ。否、御前や、御前の親御さんは看破していたのだろうが。誰しもが、そんなに賢くはないのさ。嗚呼、誠吉さんが居てくださったなら…」


 今更だな、と言って、荻平は、また舌打ちした。


 凛と整った顔だが、年々眉間の皺が深くなってきて、険の有る顔になってきている気がする。


 荻平もまた、里と一緒に変わってきているのかもしれなかった。


(おさ)は、やはり、(ただす)殿同様驚いたらしい。しかし、非国民扱いされない為の従軍、という八次の意見を最後は採用しちまった。どうせ俺達、苗の神教を捨てられやしないからな。だが、我が子である双子の実験は、(おさ)も結局飲めなかった。元々、我が子を差し出す様な予定は無かったわけだからな。下男二人の手術だって、(おさ)は一言も指示していない。軍の話を全部飲むなら、誰か犠牲を出さなければ、という雰囲気が、里の中に出来上がってしまっただけだ。其れを、実方本家に忠誠厚い二人が買って出た、という話だ」


 荻平は、其処まで言うと、少し暑そうにして、軍帽を脱いだ。

 

 日が高くなって、暑くなっていたのだ。


 しかし、辰顕は、全く暑さを感じないくらい、冷え切った気持ちで居た。


「しかも、だよ」

 荻平は、溜息をついて、続けた。

「其処まで徹底して軍に協力しているのに、里の(ほとん)どの者は軍役に就いていない事になっている。俺も八次も。(おさ)すらも」


(おさ)も?」

 繁雪が驚きの声を出した。

 そうだよ、と荻平は言った。


「結局俺達の扱いは、軍医二人のオマケだ。其れと、顕彦さんは経理の資格まで持っていて、病院経営の要だったからな。後は、実方医院事務の()(ばる)(かん)()。其の辺りは軍に組み込んでおけば話し合いがし易いが、他は余分さ。相手にしてみれば、あわよくば術を使って何か、というくらいで、後は、人体と脳と暗示の関係性、人体実験が主な目的なわけさ。正式な採用ではない。従軍させないで、何時(いつ)でも理由付けて切れる様にしてあるのさ。だから(おさ)も、暗殺法を考案したっていう事実のみは相手に報告して、切られない様にズルズル引き延ばしている、という事さ。其れに、下手な博打だが、当たったら儲けは大きいぞ。証拠も無く人を殺せるなんてさ。平時でも、幾らでも使い様は有る」


 完三(かんざ)も、そうなのか、と辰顕は思った。

 完三は、母子で辰顕の家に住み込みで働いている人物である。

 完三の母、テイは、辰顕の母、景に仕えてくれて、炊事を主な仕事としている。


―最初こそ、病院の事務仕事の方が、ついでだった筈だけど。…あ。テイさんは、完三さんの母親。本当は、うちの下働きとして住んでいるわけじゃなくて、書類上は、従軍者の家族が軍事施設に、軍人と一緒に住んでいる、っていう事か?うちの家族みたいに。将校婦人みたいなものなのかな。…自分の家の事なのに、俺、何も知らない。


 あの、と辰顕は口を挟んだ。

「うちの父は、其の事を知っているのでしょうか?」

「俊顕さん?あんな賢い人、騙せるわけ無いだろ?」

 荻平は、大きな溜め息をついて続けた。


「あの人は責任感が強い。従軍云々の事は、長と俺達補佐二人と、俊顕さんくらいしか知らん。俊顕さんは、顕彦さんと栄さんにも隠している事が結構有る筈だ。二人には教えないでおいて、負担にもさせずに、全部自分で被る気なのさ。あの二人は俊顕さんを信頼しているから、言われた事は先ず疑わない。今も、まさか自分達以外は正式に従軍していないとは思っても居ないだろう」


 辰顕は、先程の、顕彦と栄の様子を思い出した。


 あの二人は、俊顕に全幅の信頼を寄せている。

 其の二人に、家族に、何も背負わせない覚悟を、父は決めているのだった。

 俊顕の気持ちを想って、辰顕は涙した。何が悪いの、という、紘の言葉が思い出される。


―悪くても構わない。父さんが悪い事をしていても、構わない。


 其れでも、尊敬する、愛すべき父である。継ごう、と辰顕は思った。


―どんな形でも、例え汚名が付いても、父の職務を継ごう。誠吉さんだって言っていた。名を継ぐ事は、汚名も継ぐ可能性が有る事だって。俺は其れも全部、引き受ける。


 辰顕は、そう決意して、涙を拭いた。


 紘は、辰顕の涙を見て見ぬ振りをしてくれた。

 繁雪は、辰顕が落ち着くのを待ってから、口を開いた。


「まさか本当に従軍が正式ではないとは」


しかし、紘は、気にはなっていたのです、などと言った。


「何故陸軍の実験なのか、と。まぁ、海軍となると、船乗りやら料理人やら、専門性が高い職務が多いですし、急に何の資格も無しに、見せ掛けだけでも従軍となると、相当骨だったでしょうが…。『長の持ってきた話ではなかったから』、という事でしょうか。幾ら(おさ)が裏に顔が利くにしても、地縁から考えると…薩摩なら海軍かな、と単純に考えていたもので。陸軍駐屯地が比較的近い、何ていうのは、単なる偶然でしょうし。ただ、近場だったから、という考えで行くと、陸軍に行き成り近付くというのも(うなず)けますが。其れでは不確実というか、危険性が高い。実際騙されたわけですし。(みさお)という人の立場を継いだというなら、態々、そんな危険を冒してまで(おさ)が其処と話を付けるかな、って」


 そうだな、と荻平は言った。

薩長(さっちょう)という話だと、薩摩といえば海軍出身が多く、陸軍は長州出身が多い。陸軍と海軍は仲が悪い。軍も一枚岩ではないが…。ん?何で、そんな事が察せる?」


 紘が黙ると、何だか嫌になるくらい頭の良い小僧だな、と言って荻平は続けた。


「な、言えないよな、里の人間には。何時(いつ)軍から切られるか分からないが、其れまで切られぬよう、必死で軍に尽くせ、とはな。本当に、何が如何(どう)なって、こうなったのか。幾ら近場に駐屯地が在るからって、八次の奴が一人で、軍に話を持ち掛けよう、なんて発想を起こす器かな、というのは今以て疑問だが」


 荻平は、そう言って軍帽を被り直した。


 紘は、成程、と言った。

「其れは確かに、父が居た方が良かったですね。交渉事は上手いですから。まぁ、もう今更、父にも如何(どう)にも出来はしないとは思いますが」


 そうだろうな、と言って、荻平は苦笑した。

「八次だって、交渉事にかけては、なかなかの手腕だよ。でも、軍なんていう、海千山千の人間相手に交渉するには、ただの田舎の若造だったのかも知れん。(みさお)殿や誠吉さんは特別だった。()しくは、あいつは自分で決めずに、(おさ)に頼るべきだった。あの三人は、人を惹き付ける。そんな魅力を持つから、あの人達に、ただ付いていく、という人も居るだろう。其の点、八次は普通の人間なのさ。八次の意見を採用した、(おさ)の方に皆付いていっている。八次に付いていっている、というわけでは無い。(おさ)の威光を笠に着ているだけだ。器としては其れだけだ。単なる(おさ)の補佐だ。もう、言い出しっぺの八次にすら状況は変えられないだろう。今は、暴走しているのと(ほとん)ど変わらん。そして(おさ)は里の者を解剖するのは本意ではない。清水さんのところの双子の事も、ギリギリまで庇ってくれるだろう。其処は信頼してほしい」


 もう良いかな、と荻平は言ったが、紘は、再び大きな目を見開いて、荻平の目を見た。


「最後に、逃亡兵の話を聞いても良いですか?」


 荻平は、おいおい、と言った。

「ちょっと繁雪さん。幾ら何でも喋り過ぎじゃないのかい。まぁ、此処まで言ったついでだ。独り言を言わせてもらうぞ。口は挟むな。独り言に返事し続ける、変わった人達になるぞ」


 そう言ってから、荻平は深呼吸を一つしてから、言った。

「ミッドウェー海戦までは良かった。三年前な。此処に坂元本家が移った頃かな。其れくらいまでは本当に、日本は快進撃を続けていた」


 繁雪は狼狽えた。

「待ってください。ミッドウェー海戦『までは』?今も、勝ってはいるのでしょう?新聞では」


「おや、独り言に返事する人が居る様だな。独り言、止めるかな」

 荻平は、顔色一つ変えず、ピシャリと、そう言った。


 繁雪は黙った。


 辰顕は唇を噛んだ。

 やはり、という気はしていたが、こうして戦局が思わしくないと仄めかされると、胃の辺りが冷たくなってくるのを感じた。


 辰顕は、紘の様子を盗み見る。

 紘も震えている。

 辰顕は、紘の傍に寄ると、肩に、そっと手を置いた。


 荻平は、見えない敵を蔑む様に笑ってから言った。


「何にせよ、民間人を巻き込むたぁ愚策だ。相手の(あたま)も大した事無いな。一億火の玉なんて言っているからって、国民全員を民間人ではない、何て思うのなら、そりゃ言い訳ってものだ。でも、本土空襲がミッドウェー海戦の敗因になったのも事実だ。()(かく)、其の頃から、日本の旗色は悪い。そうなると、如何(どう)なるか」


 荻平の言う、敗因、という言葉が、グサリと辰顕の胸に突き刺さる。


―荻平さん、何処から、こういう情報を仕入れているのかな。


 しかし、やはり今、旗色が悪いのかと思うと、辰顕の頭に浮かんだのは納得の二文字だった。此れは確かに他言出来ない内容である。


 荻平は、椅子からスクッと立って、続けた。

「傷病兵っていうのは、そういうわけで、今は基本的に大事にされない。解放すると、彼方(あち)此方(こち)で、実は、あそこで負けていただの何だのと情報を漏らすかもしれないからな。国民の士気が下がる。まぁ、此れも雰囲気の話だよな。其の、士気を下げない為に、僻地の傷病兵収容病院に入れられて。治れば前線送りよ。まぁ、前線に送るか、逃亡兵になるか。本当のところ、逃亡兵を実験に、何て、俺は如何(どう)だか知らん。其の実験に使っているのは、本当は逃亡兵ですら無くて、ただの傷病兵かも知れないな」


 繁雪は、ウッと(うめ)いた。


 辰顕は血の気が引いて、立っていられない様な気分になったので、紘の寝台に、そっと腰掛けた。


 おや、と荻平は言った。

「僻地の傷病兵収容病院か。何処かで聞いたな。隠れ里なんてピッタリだろうね。最初から地図にも載っていない様な、さ」


 荻平は、自嘲気味に、そう言うと、踵を返して病室から出て行った。


 夏だというのに、病室に残された三人は、身体の震えが、なかなか治まらなかった。


「全部君は言い当てたな」

 繁雪が、紘の方を見て、そう言った。


 紘は深呼吸して、何とか、という具合に体の震えを止めて、予想より悪かったですけどね、と言った。


「でも多分、最悪の、里全体が暗殺者集団になるとか、清水さんのところの双子が手術されてしまうとか、そういう事態は避けられると思います。其処は読みが当たりました」


 三人で黙って見詰め合い、荻平の話を聞いた後の後味の悪さを拭いきれないでいると、小さな裸足の足跡が二つ、ペタペタと走って来る音がした。


 病室の扉が開いて、貴顕と了が、ヒョッコリと顔を出した。


 御飯ですよー、と言って、貴顕はニカッと笑った。了は、はにかみながら、貴顕の真似をして、御飯ですよー、と言った。


 繁雪は、其の、如何(いか)にも子供らしい二人の様子を見て、クスッと笑った。

 場の緊張が解けた気がして、辰顕も微笑んだ。

 紘も、貴顕と了に微笑みかけ、有難う、と言った。


 繁雪は、其れでは御暇(おいとま)しようかな、と言った。


「明日、野菜でも持ってくるよ。此の上御昼まで頂いては悪い。傷は、もう良いそうだから、俺は一度家に戻るよ。今後の事は其れから考える。とは言え、結局今の(まま)過ごすのだろうな、俺は。一先ずは、弟二人が無事なら良いとしよう」


 繁雪は、辰顕と紘に向かって、有難う、と言い、貴顕と了の頭を、優しく撫でて、病室を出て行った。


 辰顕は、下膳するという顕彦との約束を思い出し、慌てて盆を手にした。


 気付いてみれば、やはり外は暑く、辰顕は、ベットリと汗をかいていたので、下膳の後、軽く行水した。

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