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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第一章 昭和二十年 七月
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昭和二十年 七月二十六日 坂本紘一 邂逅

 静吉が全く歩を緩めないので、紘一は、休憩しませんか、と言いそびれた。


 ふと、微かだが、クラッとする様な、妙な感覚を覚えて、紘一は慌てて水筒から水を飲んだ。


 気温も湿度も高い。

 水筒の中身も残りが心許無(こころもとな)い。


 ()だ着かないのだろうかと、不安になりながら静吉を追いかけると、やっと静吉が、あれだ、と言った。


 紘一が、静吉に追いついて、其の視線の先を見ると、実に現代的(モダン)な白い洋風の建物が在った。


 紘一が、病院の様な建物だな、と思って、よく見ると、色褪せた看板に『實方醫院(さねかたいいん)別館』とある。


 見た目の通り、やはり病院らしい。


「病院ですか?」

「そうだ。昭和九年に出来たらしいが、立派だな。もう使っていないと聞いたが」


 こんな所に、と、紘一が不思議に思うくらい立派な建物である。


 とは言え、規模は精々(せいぜい)診療所といったところであろうか。

 叔父の栄五は医師だと聞いている。 

 そして、其の細君(さいくん)の実家は病院だとも聞いた。


―此処の事なのかな。隠れ里の病院?というのが良く分からなくて、何時(いつ)も話半分で聞いていたせいか、実際見ると、夢の中の事の様な、不思議な感じがする。


 建物の奥に、また更に、木造の別の建物が見えた。

 此方は江戸の末期か明治の初めに出来た建物といったところであろうか。其の建物も、とても立派で格式を感じた。


 静吉は、其の古い建物を見て、信じられない、と呟いた。


「父さん?」

「此れは。如何(どう)して此処に建っているのだ?」


 静吉と紘一が、建物に近寄っていくと、建物からドヤドヤと、人が三人出てきた。


「おい、(せい)(きち)!帰ったか」

「おお、(とし)(あき)か!あ、(さかえ)!」


 父に俊顕と呼ばれた人は、日本陸軍の軍服を着ていた。


 三十路半ばくらいであろうか、濃い眉が如何(いか)にも強そうだ、と、紘一は思った。

 渋くて、見目好(みめよ)い人である。


 其の後ろから、六尺はあろうかという、役者みたいに整った顔をした、三十路くらいの男性が出てきた。

 此方も、陸軍の軍服である。

 よく見ると、叔父の栄五、もとい、(さかえ)だった。

 こうして見ると、父と叔父は、思ったより似ていた。


(ちぃ)(にい)、御久し振りです。ああ、(こう)、大きくなって」

「こんにちは。御久し振りです、叔父さん」


 栄五は、新三を兄上、静吉を『(ちぃ)兄』と呼ぶのである。小さい兄さん、という様な意味であろうが、紘一は其れを時々、何だか時代がかっている様に感じる。


「栄。そう、(こう)だよ。今、満で十六だ」


 静吉の其の説明を聞いて、俊顕という人が、驚いた声を出した。


「十六か。年を取るわけだよ。俺も四十だからなぁ」


 父は、違いない、と言って、俊顕と笑い合ってから、紘一に声を掛けた。


「覚えていないよな、紘は。生まれたばかりの時に、一度会っているのだが。俺の同級生で、親友の、実方(さねかた)(とし)(あき)だ」

「久し振り、と言いたいところだが、君にとっては、初めまして、だろうな」

「あ、あの、坂元(さかもと)(こう)、です。宜しく御願い致します」


 父とて、年よりは若く見える方なのであるが、目の前の俊顕が、父よりも、五歳は若い様に思えたので、紘一は、少しだけ驚いた。


「御久し振りです、誠吉さん」

「え?御前(おまえ)顕彦(あきひこ)か?」


 栄の後ろからヒョッコリ出てきた着流し姿の人物に対して、父は、怖いな、御前、と言った。


 爽やかな印象の、此れまた美形である。

 栄五より少し年下、といったところであろうか。


 やっと三十路前、という感じである。

 紺色の着流しが実に粋で、こんな田舎に、こんな人が、と、紘一が驚いた程であった。


 目上に対して失礼であるが、紘一の目から見ても、少し何か、愛らしい様な感じする人である。


―でも、何処かで見た記憶が有るな。こんな人、見忘れないと思うけど。


「何ですか誠吉さん、怖いって。久し振りに会ったのに」


 ケラケラ笑いながら、そう言う顕彦に、静吉は、困惑した様子で言った。


「だって御前、最後に見た時と、まるで外見が変わっていないではないか。何処かに(とし)を置き忘れてきたのではなかろうな?」


「大袈裟ですよ。此れでも、そろそろ四十路ですからね。俺も年を取ったものですよ。一人息子も、もう満で九歳ですし」


 紘一は、自分の耳を疑った。


 目の前の人物が四十路前というのは、冗談だとしか思えなかったからである。


「紘、覚えていないかもしれないが。昭和九年に一度だけ会いに来てくれた人だ。ほら、御前の御祖父さんが東京に来ていた頃に(たま)々うちに来てくれて」

「え?…覚えていますけど。え?あの人?あの人ですか?遊んでくれて…御土産に本をくれた?」


 嘘だ、と紘一は思った。


「そうだ、覚えていたか?俊顕の、三歳下の弟で、実方顕彦(さねかたあきひこ)という」


 其れが本当なら、顕彦という人は、三十七歳という事になる。

 実年齢より、十歳は若く見える人である。


 そうすると、紘一が出会った当時も三十路前だったという計算になる。


 紘一は、其の人の事を、二十歳そこそこの、学生さんか何かだと思っていたのだが。

 今も、少なくとも栄五より年下に見える。


 紘一は酷く驚いて、何が何だか分からない、と、思ったが、御久し振りです、と言った。


 顕彦は、実に優しい微笑みを浮かべて、紘一を見た。


「大きくなって。背なんて、俺達と横並びじゃないか」


 静吉が、確かに、と言った。


実方(さねかた)()に混ざっても違和感が無さそうだな、うちの子は」


 俊顕も栄五も、笑いながら其れに同意した。


 実方(さねかた)()、というのは何の事だろう、と紘一は思った。


「目以外は、お(よし)さんそっくりだなぁ」


 顕彦が、懐かしそうに言った。


 実は紘一は、そう言われるのが苦手である。


 そう、父の美しい目を受け継いだ、と、よく言われるが、どうせ似るなら、完全に、父か母の何方(どちら)かに似たかったと思うのである。

 母の(よし)も美しい人だったが、自分は、目だけが父に似てしまったせいで、却って顔の造作(つくり)均衡(バランス)が崩れたという気さえする紘一だった。


 とは言え、母の容貌を受け継いだ子供は、紘一の他には居なかった。

 

 彰二も由里も、完全に父親似である。

 本当は喜ぶべきなのかもしれない、と思う事が、また、紘一を、より複雑な思いにさせる。


 そんな、居心地の悪い気持ちの紘一を他所に、余りにも顕彦の笑顔が優しいので、紘一は、戸惑いながらも、微笑み返した。

 とても直情的(ストレート)な親愛の情を示す人らしい。


「おい、(ひこ)。東京行きって何時(いつ)の話だよ。何で俺を誘わない」

 俊顕が口を尖らせて、そう言った。

「あの時は、吉雄(よしお)さんと一緒に、結婚の報告に来てくれたのだよな」

 静吉が、嬉しそうに、そう言うと、顕彦は、不味い、という顔をした。


 栄五が、え?と言った。

「ちょっと待ってださい。吉雄さんと東京って」

 俊顕が、あー!と言った。

「御前、何が結婚の報告だよ。あの後大変だったであろうが」

 俊顕がニヤニヤしながら顕彦に詰め寄った。


「え?顕彦、吉雄さんの娘さんと結婚しなかったのか?」

「しましたよ。だから、一人息子が居るって言ったでしょう」

おっとりとした声で確認する静吉に、慌てて顕彦が答えている。

 其れを見て、俊顕と栄五が笑っている。


 紘一には全く分からない話で盛り上がる大人達を見て、如何(どう)やら随分仲が良い人達らしい、と紘一は思った。


 十年近く会っていない筈なのに、其の空白を全く感じさせないのである。

 まるで、昨日も会っていたかの様に会話するな、と、紘一は思った。


 静吉の言う『親友』という言葉は本当なのであろう。


 親友、という美しい響きの言葉に、紘一は羨望を抱いた。

 

 昔読んだ、子供向けの本に頻出していた言葉で、紘一は其の本が好きだった。


 そう、其れは、紘一が興味を持っている、鹿児島在住の作家の作品だった。


 しかし、親友とは、憧れても、そう簡単に出来るものではない。

 事実、紘一は学友、友人、知人は多いが、親友となると、此れがそうだと言える者は居ない。


 紘一は、他人には、おいそれと言えない秘密を幾つか持っていた。


 そして其れ故に、親しい間柄でも、なかなか腹を割って話す事が出来ないでいる。


 紘一の思う親友とは、其の、とある秘密の一つについてジックリと語り合える者なのだった。


―そういう人物と出会う事が出来たなら。


 相手も紘一と、其の事について語らう事を楽しんでくれたなら。

 其れは、親友と呼ぶ事が出来る存在になるのではなかろうか、と、紘一は思っている。


 とは言え、東京は五月の空襲が酷過ぎて、最近は学校にも行けていないので、同世代と会話する機会も(ほとん)ど無い。無事を確かめ合う事が出来た者も数人で、会った時も、空襲の話しかしなかった。


 やれ、川の上なら、水に飛び込めば助かると思って、大勢で木製の橋に上に逃げたら、橋ごと焼け落ちてしまっただの、自分は母親と新しい鉄筋の橋の上に逃げたから焼け落ちなかっただの。

 助かって良かったという喜びと、悲惨な被害報告が主な内容で、紘一の秘密の話どころでは無かった。


 此の御時世、命が有るだけ有難いのだ。


「さ、立ち話も何だから、中に入ろう。其れにしても、誠吉、痩せたなぁ。益々、(ただす)殿そっくりだな」

俊顕が、そう言うと、栄五が、寂しそうに笑って言った。

「本当に。生き返ったかと思いましたよ」


 静吉も、ああ、と答えて、寂しそうに笑った。


 紘一も、祖父を思い出すと寂しいが、何だか、祖父の不在に気持ちがついていけていない感じがする。


 訃報を聞いた時は泣いたが、其処から時間が経過した今、祖父の死を如何(どう)考えて良いか分からない気持ちになっていた。


 祖父が、もう居ない、という事が、何と無く腑に落ちないのである。


「あの、(ちぃ)兄。もう、明日、納骨しますから。連絡出来なかったとはいえ、勝手に御骨にしてしまっていて、申し訳御座いません」


 囁く様に栄五が、そう言うと、気にするな、と、静吉も囁いた。


「此の気温では、早めに荼毘(だび)に付すのが当然だよ。此方こそ、なかなか此処まで辿り着けなくて申し訳なかった」


 紘一が察するに、静吉と紘一が来るまで、納骨は待ってくれていた様である。


 其の遣り取りを聞きながら、やっと紘一は、ああ、御祖父様は本当に亡くなってしまったのだな、と思った。


 祖父の葬儀に間に合わないのは承知の上だったとは言え、死ぬ様な思いをしてまで現地に到着してみれば、既に皆喪服を脱いでいて、こうして笑い合えるくらいの時間が経過してしまっていた。


 此処に来るまでが、あまりにも大変で、疲れ過ぎて、何だか、涙も出ない紘一である。


 此処に到着出来ない可能性の方が高かったのではないか、とまで思うくらい、道中、酷い経験をした。


 しかし、五月の空襲の酷さを思うに、あの(まま)東京に居ても、此処まで命辛々の旅をしてくるのも、生き残る可能性としては大差が無いかもしれない。


 毎日此の国の何処かで人間が焼け死んでいる様な気がするし、骨壺も何だか、もう見慣れた、と紘一は思う。


 骨壺とは言っても、近頃では形ばかりで、中身が骨ではなかったり、(そもそも)中身が入っていなかったりするらしい。


 骨が拾える分だけ、葬儀が出来る分だけ、祖父の死はマシなのかもしれないとも思う。


「兄上も来たがっていらしたが、来られなくて、申し訳ないと仰っていた。今、東京で、他の二人の子供達を預かっていただいている」


「兄上には、会社が御有りですから。こうして、ちぃ兄がいらしてくださっただけでも」


 ややこしいが、『兄上』と言うのは、二人の兄の(しん)(ぞう)の事である。栄は、新三を『兄上』、静吉を『(ちぃ)兄』と呼に分けているのである。


 古めかしいが、此の上品な容貌の叔父には合っていて、紘一は懐かしく思った。




 紘一に分かる範囲の事だけで説明をすると、先ず、()(ばる)集落という集落が、此の近くに在るらしい。


 そして、紘一の両親は、其の()(ばる)集落の出身なのだという。


 此の昭和の時代に、まさか、と紘一は思うのだが、其の()(ばる)集落というのが所謂(いわゆる)隠れ里らしい。


 しかし、其れは、御伽話の類ではない。桃源郷の様な場所、というよりは、単に、外界との接触を、なるべく絶っている里、というくらいのものらしい。


 其の場所が依然隠れ里である理由は、集落の住民が信仰する宗教にある。


 ()(ばる)集落の住民は皆、『苗の(ナエンカン)(きょう)』という宗教を信仰している。


 そして其の宗教には、不思議な秘術が存在している。


 嘘の様な話だが、相手に幻術を見せるのだ。


 親から多少は教え込まれているので、其の術を使う事は出来る紘一だが、其れを里の関係者以外に口外する事は出来ない。

 其の辺りの事情が、自分と他者との間に隔たりを作っている一因になっていると紘一は思う。


 ただ、苗の神教の実態は、紘一には、よく分からないし、今まで興味を持った事も無かった。


 ()(かく)其の、苗の神教を信仰し、隠し、広めない為に、其の集落は隠れ里となっているのだそうだ。


 仮にも宗教でありながら、信者を増やすべく布教をしない、というのが、紘一には、更に、よく分からない。


 此の昭和の世に、潜伏しなければならない理由は何なのであろう。


 しかし、紘一から見ても、不思議な術を使う、大っぴらに言えない様な如何(いかが)わしい宗教ではあったので、分かる様な気もする、というだけである。


 実のところ、其の宗教を秘匿する理由に関しても其れ程興味が無いので、静吉に、きちんと質問した事もない。


 特に変わっているな、と紘一が思うのは、其の集落は禁煙らしい、という事である。


 狭い、百戸(ひゃっこ)有るか無いかという集落の中で火事を起こすと大惨事になるので、花火、煙草が禁じられているのだそうだ。


 一時期は、集落の外で煙草を吸わぬ者が居たら同胞だ、とまで言われていたくらい徹底されているらしい。

 伯父の新三も、静吉も、煙草を吸わない。二人共、もう故郷に戻る気も無さそうに紘一には思えるのに、長く染み付いた習慣というものは、簡単には抜けぬものなのであろう。

 無論、祖父が煙草を吸っているのを見た事も、遂に一度も無かった。


 より分からない、と紘一が思うのは、そんな隠れ里で、宗教を秘している立場でありながら、()(ばる)集落の主な収入源は祈祷であるらしい。


 里の男は、其の宗教教義に関連した不思議な幻術を利用して、祈祷の謝礼を集め、顧客を集めて各地を回る。

 遣り方を間違うと物乞いの様になりはすまいかと懸念する紘一である。


 しかし、顧客が大物になってくると、謝礼も、政治に影響を及ぼす力も増えてくるのだという。そして、()(ばる)集落の(おさ)ともなると、噂では、国の政治の中枢に食い込み、ある程度の権力を持っていると聞く。


 しかし近頃は如何(どう)も、妙な事になっているらしいのだが。


 其の『妙な事』の確認というのが、実は、もう一つの来訪理由でもある。


 そう、静吉は、(きゅう)(いち)の弔いだけが理由で此処まで来たわけでは無いのだ。


 複雑な事情の上に成り立つ里が、更に、ややこしい事になっている、と聞いて、紘一は大変困惑したものである。


 また、集落の男は祈祷をして各地を回っているとは言っても、集落の女は、基本的には里を出る事は許されないと聞く。


 だが近年は、理由を付けては、男女の別なく、ちらほらと集落の外に移り住む一家もいるとの話だが。


 そして其れは例外なく、坂本、もとい坂元家、つまりは紘一の親戚筋なのだという。


 新三も父も集落を出て生活している。


 坂本という名字は残してもらえているが、新三は、実質入り婿である。とある、会社を興した人物の一人娘と一緒になり、其の会社を継いだのである。そして其の会社の為に、今は東京を離れられない。


 しかし、紘一の両親が()(ばる)集落を出た理由は、紘一には知らされていない。


 母である(よし)は、昭和十年の十二月に亡くなった。


 今更もう、母からは何も聞く事が出来ない。

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