昭和二十年 七月二十七日 実方辰顕 月下氷人
「うちの父と何があったのですか?」
綜は、ゆっくり、しかしハッキリとした声で、そう言った。
誠吉は首を振った。
「帰る日に話すよ。そして、其れは今日ではなくなった」
綜は、渋々、といった口調で、分かりました、と言った。
顕彦は深い溜め息をついた。
「俺からで良ければ、荻平さんに話しておきますよ。要は、あれだ、本当のところ、女子供に聞かせたくないわけでしょう?」
顕彦の言葉に、誠吉と荻平は、眼を瞬かせた。
「…え?もしかして。そんな、嘘だ!」
荻平が、そう言うと、誠吉は、少し困った顔をした。
顕彦が、言い難そうに言った。
「えーと、荻平さん、顔貸してくれない?誠吉さん、良いですか?」
「…任せる」
誠吉は、溜息をついて目を閉じた。
顕彦は、手招きして、荻平だけを連れて出て行った。
気不味い空気が流れた。
初すらも、完全に起きていて、酷く困った顔をしている。
何か知っているのだろうか、と辰顕は思った。
安幾は、やはり、よく分からない、という顔をしていた。
稍あって、顕彦の、戻りました、という声がした。
顕彦が、青褪めた、を通り越して最早黒ずんですらいる顔色をした荻平を連れて来た。
荻平は謝罪した。
「あの、誠吉さん。俺、…何て言ったら良いか。生意気言って、すみませんでした」
「いや、俺は隠れ里を出た裏切り者だ。今更如何思われていても構わない」
誠吉は静かに、そう言った。
荻平は、いえ、と言った。
「あの…其れでも俺、言います。里にも長にも、必要だったのは貴方だった。如何して、そんな事になったのかは、俺にも分かりませんが」
荻平の言葉に、誠吉は、また首を振った。
「俺は疎まれた」
「疎まれたのだとしたら、長は苦しんでいたのだと思います。誰も、傍に居た俺すらも、『其れ』に気付かなかった事が、長を追い込んだのかもしれません。…いえ、もう黙ります。事情を知らない俺が、今更何を言っても同じですね」
不意に、話が見えんのだが、と利助が言った。
辰顕も同じ気持ちである。
利助が続ける。
「里を出たのに事情が有ったであろう事は分かっとったよ。普通、理由も無しに隠れ里を、嫁を連れて出やせん。巻物だか何だか、訳の分からない噂が在ったが。そうか、長と何かあったかい。もういい、其処は詮索せん。でもな、儂ぁ坂元衆の事ぁ、悪く思った事、一度も無いぞ。誠吉さん。あんた達を悪く言うのは物を知らん人間だけだ。儂は、今日見た事、聞いた事は誰にも言わんよ。ただ、もう家に戻らせてもらおう。清水の双子の世話係も、もう必要なかろうからな」
利助が、そう言うと、繁雪、陶冶、薫陶の三人は、深々と礼をした。
「誠に有難うございました。何と御礼を申し上げたら良いか」
繁雪が、そう言うと、清水の双子が涙ぐんだ。
「利助さん、俺達」
陶冶が、そう言うと、利助は優しい声で、泣くな、泣くな、と言った。
「儂はな、孫くらいの、二十歳くらいの者達が、何時何時、訳の分からん目に遭うかと思ったら、嫌で、嫌で、離れられなかっただけだ。勝手に世話しとっただけだ。もう食べ物は持って行ってやれんが。何時か嫁でも紹介してやる。兎に角、此処に匿ってもらえ。落ち着いたら、また会おうな」
辰顕は、利助の言葉を聞いて、見合い爺などと心の中で呼んでいた自分を恥じた。
世話好きというだけでなく、本当に心の清い人らしい。
利助は紘の方を見た。
「御母堂は御壮健でいらっしゃるかね」
紘は、躊躇いがちに、あの、と言った。
「母は、昭和十年に」
「おや、何と。佳人薄命かね」
利助は、富の死を察した様に、そう言って、紘に近寄り、そっと右肩に手を置いた。
「本当に綺麗な子だった。こんな田舎の里には不似合いなくらいだった。怪我が治ったら此処を出なさい。きっと、あんたも此処は窮屈な筈だ」
利助の声は思い遣り深かった。
紘は、はい、と言った。
利助は、初と安幾にも気遣わし気に声を掛けた。
「奥方達も、さようなら。夜分に申し訳ありませんでした。次は息子さん達の祝言の頃御会いしましょう」
安幾が、ワッと泣き出した。
「有難うございます。私が、私が坂元の者だから。仮にも実方家の本家だというのに、うちの息子にも、肩身の狭い思いをさせて…、もう里で御嫁さんを出してくれる様な家も無いだろうと予てから思っておりましたのに。清水衆の方々には本当に良くして頂いて。利助さんも、繁雪さんも、本当に有難うございます。私の実家も買い手が付かなくて、もう荒れてしまうかと思っていましたのに。荻平さんも、有難うございます」
何を仰います、と、繁雪は、少し怒った様に言った。
「そんな下らない事を言う者の方が、御宅の息子さんには相応しくないのです。其れなら、うちの娘の瑛子は如何ですか。貴顕君より幾つか年下ですが、許嫁に」
清水の双子が、声を揃えて、えっ?と言った。
利助が、ほう、と嬉しそうに言った。
綜が、小声で、あれ?と言った。
顕彦が、繁雪の気迫に圧されて、えっ、と言った。
「そりゃ、繁雪さんのところの娘さんなら願っても無い話ですが。本当に、うちの息子で良いのですか?」
「是非」
「はぁ。あの、安幾ちゃん、…そうしようか」
顕彦が、そう言いながら目をパチクリさせていると、安幾も、ポカンとした顔の儘、はい、と言った。
繁雪は嬉しそうに、有難うございます、と言った。
顕彦と安幾は、其れでは宜しく御願いします、と、未だ二人して眼を瞬かせながら、そう言った。
「よし、利助さん、証人ですよ。長生きして御仲人様を遣ってください」
繁雪が、まるで言質を取ったとでも言うかの様に、嬉しそうに利助に、そう言った。
清水の双子が、口を開けて兄の方を見ている。
綜が再び、あれ?と言った。
利助は、よしきた、と言って、ニンマリ笑った。
「良いですなぁ。そうだ、栄さん」
急に声を掛けられたので、呆気に取られて様子を見ていた栄は、ビクッと身を震わせて、はい、と言った。
利助は続ける。
「御宅の息子さんに、うちの孫の夕は如何ですか?」
栄が、は?と言うと、初が嬉しそうに、まぁ、と言った。
「了に御嫁さんですか?」
初が、おっとりと微笑んで、そう言ったので、栄は再び、えっ?と言った。
「あの、利助さん。うちの息子は未だ六歳ですが」
「夕も満で四歳です。良いでしょう、年回りが合って」
「年回りは合っていますが」
栄が、そう言って間誤付いていると、初が、年回りが合うわねぇ、と、嬉しそうに言った。
栄は、初にも、年回りは合っていますが、と言った。
初がウットリとして言った。
「四つですって。可愛いわねぇ」
栄が、其れに対して、四つの女の子は大体皆可愛いですよ、と言ったので、辰顕は思わず吹き出しそうになるのをグッと堪えた。
見れば、俊顕も誠吉も、必死に笑いを堪えている。
利助は、ははは、と笑って言った。
「御薦めするからには、孫の中でも一番の器量良しですよ。今度野菜でも届けさせましょう。二人を会わせてみたら良いですよ」
周が、小さな声で、何此れ、と言った。辰顕も同感だった。
初は、あらぁ、と言って笑った。
「予約だけでもしておいたら如何かしら。年頃になったら、了の御相手、残ってないかもしれないわ」
「予約って、此の場合、ほぼ決まりですよ。利助さん、本当に宜しいのですか?」
栄が上擦った声で、そう言うと、利助はニヤッと笑った。
「はい。さ、繁雪さん。あんた、了君と、うちの夕の御仲人様ですよ」
繁雪は、はい、と、いやにハキハキと返事をした。
こういう人だっけ?と辰顕は思った。
もっと渋い、口数の少ない人だと思っていたのである。
綜は、あれ?と、また小声で言った。
初は、まぁ、御嫁さんよ、と嬉しそうに言った。
栄は立ち上がり、一応、真面目な顔をした。
「其れでは、利助さん。御孫さんの夕さんとの御話、宜しく御願い致します」
初も立ち上がり、宜しく御願い致します、と言って、丁寧に一礼した。
「此方こそ。いやぁ、良かった」
利助は、呵々大笑してから、はた、と周の方を見た。
「そうだ、長のとこの次男坊。あんた、生きとったね」
「あ、はい」
「水路に落ちたって、葬式出したと思ったがね」
周は、困った様に、はい、と言った。
「死因は溺死って事になっていますね」
え?今する話?此れ、と辰顕は思った。
此れだけ話がややこしくなっていたら仕方の無い事ではあるが、葬式を出した筈の人間の存在より気になる事が有る空間、というのも凄い話である。
「双子の実験に出さない様に、って、父が俺を死んだ事にして、此処に隠しているのです。あの、治ちゃん、薫ちゃん。ごめんね、俺の代わりに」
周は申し訳なさそうに続けた。
「里の、数少ない双子仲間で、本当に良くしてくれたのに、親が嘘ついて葬式まで出したから、こんな事になって」
陶冶と薫陶は首を振った。
「周は未だ十四だったから。御前の葬式、そりゃあ泣いたけど、生きていてくれて良かった。俺も、自分より年下の者に、あれを遣らせるよりは良かったって思うよ」
陶冶が、そう言うと、薫陶も頷いて、言った。
「うん。周は、あんな所にいたら駄目だ。毎日どんな事をしているか、周には、とても教えられないよ」
周は其れを聞いて涙ぐんだ。
利助は、此方に寄って来ると、周の両肩に、優しく両手を置いた。
「十四でも二十歳でも、儂からしたら子供だ。あんな事をさせると知っていて、むざむざ行かせたくはない。儂は誰も、あの場所に行かせたくは無かったよ。御国の役に立つ方法は、他に幾らでも有るのではないかな。隠れられるだけ隠れておきなさい。さ、本当に今度こそ帰りますよ」
利助は、周から離れると、繁雪さん、と声を掛けた。
「あんたは一日此処に入院だな。御家族には伝えておきますよ。許嫁の件も」
涙ぐんでいた筈の周が、其れを聞いて、あれ?と言った。
辰顕も、今其れを言うの?と思った。
繁雪は、はい、と言った。
利助の去る背中を見て、辰顕は、あれ?やっぱり見合い爺だったのかな?と思ったが、口には出せなかった。
利助が去って、稍あって、残された者達が呆気に取られていると、紘が、えーっと、と言った。
「貴と了の御嫁さん、此れで決まったって事ですかね?」
顕彦は、キョトンとした顔で、其の様だなぁ、と言って、初は嬉しそうに、そうよぉ、と言った。
俊顕が、仕切り直す様に立ち上がって、言った。
「よし、周は、何時も通り、綜と仮眠室に行って寝てもらうとして。清水さんとこの双子は、空いている個室に寝台を二つ入れるとしようか。繁雪さんは、今日は、うちの辰と、紘と三人で此処に泊まってください。明日、傷の様子を見て、良さそうなら帰ってもらいましょう。正直、八次さんより繁雪さんが勝っておりましたけどね。彼方は彼方で、手当ては軽くしてきましたから、八次さんより悪いって事は本当のところ、無いでしょうけど。念の為」
全員、はい、と言った。
其れでは、と俊顕は続けた。
「ハナと安幾ちゃんは家に戻ってもらって。誠吉は、二人を母屋まで送り届けてくれ。残りの男衆で寝台を運ぼう。繁雪さんと紘は、其の儘」
「あの、俺、手伝えます」
紘が、そう言うと、俊顕は目を三角にした。
「あのな、御前の額に傷が出来たのは、転んだ所に石が在ったからだが。御前、何分か失神していたぞ。其の後手当てされたの、覚えているか?」
「…朧気に思い出してきました」
「だろ?頭を打っているのだ。かなり水で冷やしたが。思い出したか?」
「…はい」
「今は大丈夫そうだが、其の後暫く眠っていたよな?傷より、そっちが心配なのだ。様子を見ないといけない。ちょっと大人しくしておけ。一週間と言わず、一ヶ月は此処に逗留しろ」
紘は、え、と、驚いた声を出したが、俊顕は、いいか、と念を押す様に言った。
「頭を打った時の記憶が無いとか、打ってから三十分以上の記憶が無いとかな。意識が無くて眠り込むとかいった症状は、かなり強く頭を打っている時の症状なのだ。後から他の症状が出てくる事も有る。其のせいで目眩が起きたら、また倒れて頭を打つかもしれない。そうすると致命的だ。どうせ学校も、本当なら、もう夏休みだろ。親戚の家に一ヶ月居たって悪かないだろ。一週間は土を触らない事。大人しく此処に居ろ。一ヶ月の残りは、様子を見て田圃の手伝いでもしろ。早稲が、そろそろ刈り時だ。人手が要る」
良いだろ誠吉、と俊顕が言うと、誠吉は、初と栄の方を見た。
栄は、勿論、と言った。
「こんな状態で紘を帰すのは不安です。一ヶ月居てくださるなら其の方が良いです。男手は助かりますし。物騒ですから。此処も何時何が起こるか分かりませんが」
誠吉は、栄に頷いて見せた後、紘に、そうさせていただこう、と言った。
紘は、申し訳なさそうに、はい、と言った。
初は、おっとりと笑って、言った。
「一緒に早稲、刈りましょうね。とっても助かるわ」
安幾は、そっと、紘に掛物を掛けながら、言った。
「明日から毎日消毒してあげるわ。一週間なんて直ぐよ。若いから直ぐ治るわ」
俊顕は、辰、と言った。
「紘が動かない様に見張っていろ。危なっかしくてならん」
辰顕は、はい、と言った。
俊顕は、さ、と言った。
「とっとと寝床を作って、今日は、もう寝よう。今夜何かしたところで、何も解決せん。彦、俺達も上座敷に泊めさせて頂かないか。良いか?栄」
「勿論です。荻平さんは如何なさいます?」
荻平は、帰ります、と言った。
「寝台運ぶのを手伝ったら一度帰ります。家も心配だし。明日改めて来ますよ」
「よし、決まり。さぁ、仕事だ、仕事」
俊顕が、そう言うと、三々五々人が散った。
今夜何かしたところで何も解決しない、という点に於いて、辰顕には異論は無かった。
「早稲って?そう言えば、田圃が在るんだっけ?里の皆は農家さん?」
人がドヤドヤと移動する最中、紘が、ポツリと辰顕に尋ねた。
「如何かな、此の辺は半農だからな。何処かに耕作した物を売るって話は聞かないけど」
如何して、そんな事聞くのかな、と辰顕は思ったが、紘が、ふぅん、と言って大人しくなったので、其れ以上気にしなかった。
※月下氷人 媒酌人。仲人。男女の縁を取り持つ人。未来の妻を予言される『月下老人』と結婚の媒酌人になる夢の夢占いの『氷人』、二つの伝説が合わさって出来た言葉。
※奥方 内方、家の中を取り仕切る人の意味か。奥さんを指す方言。




