昭和二十年 七月二十七日 坂本紘一 緊急事態
※魂消た 魂が離れる程驚く、魂消る、という意味の方言。
「いや、すまんな。もう寝ていたか?」
洋灯を手にした顕彦の気遣わしげな声で、紘一は少しホッとして、薄掛けから顔を出した。
「先生、何かあったのですか?」
紘一の寝台から首を伸ばした周二が、キョロキョロと辺りを見渡した。
其れがなぁ、と、軍服姿の顕彦が、帽子を脱いで溜息をついた。
見れば、俊顕も栄五も綜一も戻って来ていた。
其れと、見知らぬ軍服姿の五人の男性が一緒だった。
其のうちの若い男性二人は、双子と見えて、背格好から何から、そっくりだった。
其の男性二人は、怪我をした男性一人の両脇に寄り添って支えている。
其の支えられている男性は少しグッタリしていて、あまり反応しない。
「え?治ちゃんと薫ちゃん?」
周二が、軍服姿の双子の男性達の方を見て、驚きの声を上げると、相手も驚きの声を上げた。
「もしかして、周?」
軍服姿の男性の一人、六十代くらいの男性が、こりゃ魂消たと言った。
「長のところの双子の片割れ。亡くなった筈では」
軍服姿の五人の男性のうち、四〇代くらいの男性が、あちゃー、個室に寝ている筈じゃなかったのかよ、と言った。
五人の男性達の後ろに、寝間着の浴衣姿の誠吉、初と安幾が立っている。
俊顕が、周二が先程座っていた寝台に、怪我をしている男性を座らせて、手当てを始めようとした。
栄五も、紘一の傍に寄って来た。
「紘、痛かったろう。傷を縫ってあげようね」
「叔父さん、此れは一体」
紘一が困惑しながら尋ねると、栄五は、苦笑しながら、其れがねぇ、と言った。
栄五は、紘一の頭に巻いてある包帯を、そっと解いた。
忘れていた、少し冷たい様な痛みが額に走った。
「おやおや、パックリ割れているけど、見た目程じゃないねぇ」
栄五は、そう言って微笑んだが、如何するのだろう、と紘一は思った。
ややこしい事になったのは確実である。
紘一は、手当てをしてくれている栄五の方をジッと見た。
そう、静吉は表向き、里には入れない事になっているらしい。
坂元家の里での立場が、父母の逐電を契機に悪くなっていったのだとしたら、其れは当たり前である。
其れなのに、此の、里と外との境界線に在る病院別館に息子と居るというのだから。
しかも、死んだ事にしてまで隠していた周二も見付かってしまった。
「まぁ、先ずは手当てからだな。手当てしながら話すのでも良いですか?皆さん」
俊顕の言葉に、皆、てんでばらばらに、はい、と言った。
栄五が、紘、と言った。
「頭痛や首の痛みは?」
「無いです」
「吐いたり、手足が痺れたりした?」
「いいえ」
「痙攣が起きたり、物が二重に見えたりした?」
「大丈夫でした。そういう事は、ありませんでした」
ふむふむ、と、栄五は、紘一の瞼や首の後ろ等を調べてから、よし、と言った。
「痕は残るかもしれないけど、他には、異常は無さそうだね。六針くらい縫うよ、紘」
「はい」
「一週間くらいしたら抜糸するからね。毎日消毒しよう。抜糸までは、なるべく土を触らないでくれないか」
「はい」
破傷風、という言葉が脳裏を過り、紘一はゾッとした。
しかし、御世話になるのに、畑仕事も手伝えないとは申し訳ない。
そうかと言って、此処を出て東京に向かっても、道中消毒も出来ないという静吉の言葉は正しい。怪我で病院に泊めてもらうとは、本当に入院の様である。
紘一は情けない気持ちで、傷を縫われる痛みにジッと耐えながら唇を噛んでいた。
しかし、栄五は腕が良いと見え、治療は思ったより早く済んだ。
栄五は、紘一の傷を縫い終えると、俊顕の補佐に回った。
安幾が紘一に包帯を巻いてくれる。
安幾が近付くと、フワッと石鹸の香りがした。
よく見ると、初も安幾も、少し髪が湿っている。
さては、子供全員を静吉が行水させてくれたものだから、此れ幸いと、後から、取って置きの石鹸でも使って、二人で髪を洗ったものと思われた。
初からの借り物なのか、安幾の着ている筒袖の浴衣は、細かい絞りの入った紺色で、高価そうではあっても、少し古びていて、安幾には少し小さそうだった。
洋灯にボンヤリと照らされて、白い、細過ぎるくらいの安幾の手首が、かなり露出していて、器用に動くのが見えた。
久しぶりに、此の、牛乳で出来ているのだという石鹸の香りを嗅いだ紘一だった。
伯父、新三の妻である奈穂子が、其の石鹸と、水で薄めた酢で、由里の髪を洗ってくれるのを何度か見た事が有るので、紘一には其れは、清潔で、懐かしい香りの筈だったが、今夜は何だか、ずっと嗅いでいてはいけない香りなのではないか、という気がしてしまった。
ふと、紘一は、初の方を盗み見た。
白地に、何か花の様な模様が紺色で描いてある浴衣を着ている初は、立った儘舟を漕いでいた。寝入り端を叩き起こされたであろう事は容易に想像の付く時間帯だったが、此の状況で眠れるとは大物である。
初は初で、其の姿で、普段は、かなり着痩せして見えていたのだという事が知れた。
紘一は目の遣り場に困り、静吉をジッと見た。
静吉は、紘一の視線に気付くと、ハッとして、初を隠す様に、初の前に立った。
初の額が、ガクッと前に動き、何度か静吉の背中に刺さる様に当たった。
かなり眠そうである。
俊顕の補佐を終えた栄五が、ハッとして、初に自分の軍服の上着を着せ掛けて、紘一の寝台に腰掛けさせた。
顕彦もハッとして、紘一の包帯を巻き終えた安幾に、自分の上着を着せ掛けた。
紘一は、二人が、湯上りの奥方二人の寝間着姿を衆人に公開している事に気付いてくれて良かった、と思い、ホッとした。
さて、治療は終わったが、如何いう事なのであろうか、と紘一は思った。
怪我をしていた人は、四十路前といったところであろう。
其の人を両脇から抱えていた、そっくりの男性二人は、二十歳くらいだろうか。
あちゃー、などと言っていた人は、四十路に掛かった年頃と見えたが、スラリとしていて、実に俊敏そうに見えた。
四人共、やはり、ハッとする様な顔立ちをしている。
六十代くらいの人が唯一、小柄で小太りで、里に関係する人の中で、やっと普通の容姿をしている人に出会った、と、紘一は妙な感動を覚えたくらいだった。
此の人を見るまでは、辰顕の言っていた言葉を信じる事が出来ず、やはり美形だらけの謎の集落ではないか、という疑惑を消せないでいたのだった。
却って落ち着くな、と思い、紘一は、其の人の出っ張った腹を盗み見た。
此の食糧難の御時世に太れるとは、体質なのか骨格なのか。
ずんぐりむっくり、という言葉を、紘一は何となく思い出した。




