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山行かば 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山奈績
第一章 昭和二十年 七月
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昭和二十年 七月二十七日 実方辰顕 秘密の本

 此れは不味い、と辰顕は思った。


 此の地は、また戦火を逃れたが、紘の、まるで自らが焼かれているかの様な恐慌状態を見るにつけ、放ってはおけない様な気持ちになった。


 何時(いつ)次の空襲があるか分からないが、少なくとも、今日は一度穏やかに休んでほしい、と、辰顕は、此の、出会ったばかりの繊細な少年を見詰めた。


 そう、繊細なのだろうと思う。

 見た目の(まま)、と言っては何だが、心の繊細さが此れ程姿に現れている人間も珍しい。


 東京から此処までの移動中に髪が伸びてしまったのだという、其の寝顔は、性別を一瞬女性と誤認してしまいそうな程、儚げで青白く、額の包帯は痛々しかった。


「食べた方が良いよ。小さな傷の割に、切れた場所が頭だったせいで、結構血が出たから。ふらつくと思う」

 辰顕が紘に、そう言っていると、ペタペタと、小さな足音が聞こえてきた。


 貴顕と了が、ちょこん、と、裸足で、衝立(ついたて)の陰から現れた。


 大丈夫?と貴顕が言うと、紘は、弱々しく微笑んだ。

 痛いの?と了が言うと、紘は、大丈夫、と言って半身を起こした。


 辰顕は、紘が貧血を起こさないかとハラハラした反面、少しホッとした。

 幼少の者に見栄を張れる気力は有るらしい。


 紘は、ふくれ菓子を手に取り、半分に割ると、貴顕と了に、手渡した。

 そして、右手の人差し指を口元に当てて、内緒だよ、と言って微笑んだ。


 貴顕と了は、有難う、と言って、ふくれ菓子を、なるべく、ゆっくりと、味わいながら食べた。紘は、二人の口元に付いた、ふくれ菓子の食べ(かす)を、指で取って、自分の口に入れた。


「美味しいね。御母さん達は、上手に作るね」

 紘が、そう言って、母親達を褒めたので、貴顕は、ニカッと笑った。

 了は口元を、クニャリと猫の口の様に曲げて微笑んだ。

 了が叔母の仲に似ている、と言われるのは此の点である。

 此の特徴的な微笑みが、意外にも、仲の五人の子供の誰にも受け継がれず、了だけが似たのである。


 紘は、二人の笑い顔を見て、再び微笑んだ。


 さあ、と辰顕は言った。

「お兄ちゃんは怪我をして疲れているから、少し寝かせてあげような」

 貴顕と了は、はぁい、と言って、紘に手を振った。

 紘も、半身を起こした(まま)小さく手を振った。


 子供達が去り、ペタペタとした小さな足音が聞こえなくなると、紘は、またハラハラと泣いた。

 不安定な奴だ、と思って、辰顕は再び心配になった。


 周が、また手拭いで紘の涙を拭いた。

 薬飲むでしょう、と、周が優しい声で言った。

「紘、食べないと」


 周に、紘は頷いて見せて、有難う、と言った。

 周は、盆を、紘の膝の上に置いた。

 紘は、ゆっくり汁物に手を付けた。


「紘。何を、あんなに焦っていたのさ。庭に飛び出すなんて。言いたかないけど、もう警報は慣れっこだろ?頭まで切って」

 辰顕が、なるべく優しい声で、そう言うと、紘は恥じ入った様子を見せた。


「…思い出した。大事な物が有って。咄嗟に、病院まで取りに戻らなきゃ、って」

「大事な物?」

 同時に、そう問いかけた、周と辰顕の顔を、紘は見詰めてきた。


「…内緒にしてくれる?」


 周と辰顕は、顔を見合わせてから、紘に向かって頷いた。

「其れ、開けてみてくれる?」

 辰顕が言われる(まま)に紘の指さす方に置いてある鞄を開けると、中から、少し埃っぽい、白い包みが出てきた。


「其れ」

 紘が、そう言って頷くので、辰顕は丁寧に、白い布の包みを解くと、古びた薄緑色の装丁の本が出てきた。


 題字は英語、即ち敵性語である。


「ああ、そういう事。だから、内緒か」

 辰顕は、そう言って納得した。


 紘が、うん、と言って頷いた。

「知られたら、敵性語の本を持っているって言われると思って」


 綺麗な絵、と言って、周が、辰顕から本を受け取ると、紘に、そっと手渡した。

「表紙、綺麗な絵が描いてあるね。此れが大事な物?」

 周は、不思議そうな顔をした。


 紘は、また頷いて言った。

加奈陀(カナダ)の人が書いた本でね」


加奈陀(カナダ)英吉利(イギリス)と一緒に戦っているって考えると、確かに敵性語かな。えっと、独逸(ドイツ)語は敵性語じゃない、のか。見分けが付かないけど」

 周は、そう言って首を傾げた。


 辰顕は笑って言った。

「そんな厳密なものじゃないよ。中華民国とだって交戦しているけど、漢字は排斥しないじゃない」

 辰顕が、そう言うと、周も笑って、確かに、と言った。


独逸(ドイツ)語だったら、俺も勉強中だけど」

 辰顕の言葉に、紘は少し顔を輝かせた。

「そうなの?」

「病院を継ぎたいからさ。医学用語は大体独逸(ドイツ)語だから。医者になるなら遣っておかないと、って。もう最終学年だし。学校が無い分、進学したくても如何(どう)なるか全然分からないけど、勉強くらいはさ」

「そうなの、凄いね」


 紘は、そう言うと、少し明るい顔をした。


 良い傾向だ、と思い、辰顕は続けた。

「本当は、親には全然期待されてないけど。あんまりにも勉強しろと言われないからさ。不安になって、勝手に目指しているわけ。尋常中学校出たら、(しち)(こう)に行きたくて。まぁ、七高は、生徒は、今は長崎の工場に動員されているし、進学したって、勉強出来るか分からないけど。進学してから、学部を、医」

「凄い!七高?」


 辰顕が言い終わるか言い終わらないかのうちに、紘は、パァッと明るい顔をした。

 辰顕は、六月の空襲で七高の校舎が焼けた事は伏せておく事にして、ニッコリと笑った。


 周も笑って、紘の寝ている寝台に、そっと座った。

 辰顕は、昨夜自分が寝ていた寝台に座った。


 周は微笑みながら紘に問うた。

「紘、其の本、何処で手に入れたの?」

「牧師さんの奥さんが、随分前にくれたの。もう帰国したから日本には居ないけど。此れ、加奈陀(カナダ)で人気の本だったらしくて」


 周が、好奇心に溢れた顔をして、楽しい本?と言った。


 紘は、分かんない、と言って笑った。

「英語の勉強をしたいけど、今、此れを繰り返し読むぐらいしか遣り方が思い付かなくて。全部一応、分かる箇所は訳してみたけど」


 そっか、と、周は感心した様に言って、輝く瞳を紘に向けた。

「ね、読んで」


 紘は、周に、そう言われて、相当驚いた様に、え?と言った。


「敵性語、嫌じゃないの?」

「俺には見分けが付かないもの、独逸(ドイツ)語と」


 周は、そう言って、ケラケラ笑って、続けた。

「十四の時死んだ事にされちゃったから、以来、学校にも行ってないし。あんまり色々習ってないから。其れ、凄く面白そう。あ、勿論嫌なら、読んでくれなくても構わないよ。俺、本を持っている事は内緒にするし」


 紘は、頬を紅潮させて、目を輝かせた。

「本当に?本当に、嫌じゃない?」


 少し興奮気味に、そう言う紘に、周は、うん、と言って微笑んだ。

 辰顕は、首をスッと伸ばして、紘の持っている本の表紙を見た。

ANNE(アンネ)。アネ?アンネ?」

「ああ、独逸(ドイツ)語読みだと、そうだね。どうも、ANN(アン)らしいよ。Eを付けて書いて、って、本人が言っているから」


 そう説明する紘の顔が明るくなったので、辰顕はホッとした。


 アン?と言って、周は首を傾げた。

 紘は、本の表紙に描かれた女性の絵を指差した。

「此の本の主人公の名前。表紙の絵の人の名前だと思う」

「ふーん、アンは美人だね」

 周は、感心した様に、そう言って、表紙をジッと見た。


「ザッと読んだ印象だと、割と、もててるよ」

 紘が、そう言うと、周は、やっぱりねぇ、などと言った。


 辰顕は其の遣り取りが何となく可笑しくて、クスッと笑った。


 そして、本当は、きっと、こういう奴なのかも、と紘の事を思った。


 今は英語の勉強をしている事を大っぴらに出来ないだけで、本当は、そんな勉強が好きで、本が好きで、語学や本に付いて、こんな話をする、内向的だが、知的な、穏やかな人間なのだろう。


「紘は、英語を勉強して如何(どう)したいの?」


 辰顕が尋ねると、紘は、はにかんだ笑顔を浮かべた。

「外国で仕事してみたくて。別に、英語圏でなくたって構わないけど。父さんがね、英語が上手くてさ。営業も取引も、向こうの人と英語で遣り取りしていたから。ああいう仕事、してみたい」


 周は、そうなの、と、感心した様に言った。

 紘は、大事そうに本を抱き締めた。

「五月の二十四、二十五日の空襲が酷くて。校舎も焼けちゃってさ。家の手伝いとか、工場の仕事とか、そんな事ばっかりで、授業は無いけど。勉強したいから。現実的ではないかもしれないけど」


 ああ、そうか、と辰顕は、気付いた。


 宝物の敵性語の本は、逃避の材料でもあるらしかった。

 紘には現実からの逃避も必要なのだ、と、辰顕は理解した。


 周が微笑んで、言った。

「ね、俺、今日、此処で寝るよ。兄上、帰って来ないと思うもん。夜、本の話、して?」

「あ、今夜は三人で、此処で寝るか。そうしよう」


 辰顕が周に同意すると、紘は、恥ずかしそうに笑った。


 今は此れで良い、と辰顕は思った。外国語には辰顕も興味は有るが、今は何より、紘を慰めたい気持ちになっていたのである。

 此の、不安定な新しい友達の事が、辰顕は心配でならなかった。


「さ、食べよう。薬を飲まないと」

 辰顕は、そう言って、もう一度微笑んだ。

(しち)(こう) 旧制第七高等学校造士館の事。鹿児島大学文理学部の前身。男子のみに、旧制大学学部への進学の為の予備教育を行っていた。現在の大学教養課程に相当する。戦前の学校教育に於いてエリート層の揺籃(ようらん)とされていた。

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