昭和二十年 七月二十六日 坂本紘一 秘伝の巻物
不意に、上座敷の襖の外から、微かに安幾の声がした。
「ごめんなさい」
栄五が、はい、と言って襖を開けると、急須の載った盆を持った初と安幾が正座していて、此方に一礼した。
「貴が寝てしまいました」
安幾が、済まなさそうに、小声で、そう言うと、俊顕が、おやおや、と言った。
確かに、何時の間にか子供達の声は止み、静かになっていた。
栄五が微笑んだ。
「今日は、顕彦さんも安幾ちゃんも、泊まっていってください。俊顕さんも。積もる話が御有りでしょうから」
そうさせて頂くか、と言って顕彦が微笑むと、安幾も微笑んで、はい、と言った。
俊顕も微笑んだが、抑帰る気が無かった事は、あの片目合図で、紘一には既に分かっていた。
「そうだ、ハナちゃん。ちょっと聞きたい事が有る。話してくれないか」
顕彦が、そう言うと、初は、はい、と、不思議そうに言った。
安幾は、其れでは、と、正座した儘一礼し、そっと襖を占めて去っていった。
初は、一礼して上座敷に入ると、皆に御茶の御代わりを注いでくれた。
「ああ、秘伝の巻物ねぇ」
初は、おっとりと、そう言った。
先刻より、グッと場の雰囲気が砕けてしまったので、紘一は戸惑った。
栄五が言う時は、凄く深刻な話の様な気がしたのであるが。
「有ったとしても、偽物ではなくって?」
初が、柔らかく、そう言うと、辰顕が、ブッと御茶を吹いた。
周二が慌てて懐から手拭いを出し、辰顕に渡す。
綜一と、其の場にいた大人一同は、目を丸くして初を見ていた。
紘一は、聞き違いかな?と思った。
俊顕は、んー?と言った。
「ハナ。そりゃ、根拠は何だ?」
「文字で、そういった物が残されるようになったのって、そんなに昔ではないのでしょう?神社の縁起だって、中世になってから書かれた物が殆どだって、彦兄が」
初が、そう言うと、顕彦が、ああ、言ったわ、と言った。
「大体、字を読み書き出来る人が、そんなに居たかも、よく分からないでしょう?本当に大事な事って、口伝だったのではなくって?」
初の言葉を受けて、静吉が、感心した様に、慧眼です、と言った。
まぁ、褒めて頂いたわ、と言って、初はニッコリと笑った。
確かに、初も頭が良いな、と紘一は思った。
其れに、思ったより、と言っては失礼だが、弁が立つ。
ある意味其処も静吉と似ている。
「苗の神教というのが、何時から在るのか私には分からないのだけれど。此の国に文字が在る様な時代からのものなら、千年くらいかしら。其れでも、宗教としては、そう古くないのだろうし。字が書ける様な人達が遣っていた宗教なのだとしたら、元は何らかの格式が有ったのでしょうけれど、もう失われたのだろうし。秘伝の巻物が有ったとしても、中身が本当の事なのかは分からないわね。何時書かれた物なのかも分からないのだから。もし其れが有って、其れを見て儀式を遣っていたのだとしても、先代の長や巫女が亡くなってからは、儀式を完全には再現出来なかったという事は、操殿や、当時の大人達の記憶を元に再現した、というだけで、やはり、大切な、口伝の様な部分は失われていたのだと思うし」
初の説明を、紘一は、成程、と思いながら聞いた。
でも、と周二が言った。
「何かが存在しない事を証明するのって、難しいのでしょう?」
「え?」
初は、キョトンとした顔をした。
―あ。
其の言い方では多分初には通るまい、と紘一は思った。本当に、静吉と初は似ている。
「えーと。無い巻物を出せ、と言う人に、其の巻物が無いと証明するのは難しいですよね」
紘一が、そう言うと、初は、あら、そうねぇ、と言った。
「ただ、そんな巻物が有ったのに、あの操殿が、儀式を完全に再現出来なかったとは思えないの。凄い御方だったのよ、貴方の御祖父様は」
やっぱり貴方、お富さんに、よく似ているわ、と言って、初は嬉しそうに微笑んだ。
母に似ていると言われて、嫌な気がしないのは久しぶりだ、と紘一は不思議に思った。
確かに、と俊顕が言った。
「そうだな、そういった事で、操殿に手抜かりが有るとは思えない」
静吉と栄五も、確かに、と言って同意した。
顕彦も頷いて、言った。
「そうだな。儀式の秘儀を知らない俺でも、巫女の、例えば、着る物だとかの形式が変わったのは分かったくらいだからな。確かに」
よく分からない、と周二は言った。
「俺の聞いたところだと、巫女舞が無くなった事に怒っている人が多かったよ。神聖な巫女を廃して、儀式が行えなくなったって。でも抑巫女舞も、別に、本来の物では無かったって事?」
初は、周二に向かって、ああ、と言った。
「其れを言う人にとっては、儀式とは巫女舞の事、というくらいの認識なのでしょうね。つまり、よく知らないのよ、其の人は」
割とズバリと初が、そう言うので、紘一は意外な感じがした。
初は続けた。
「変な御手紙頂いた事が有ったの。私ではなくて、お仲がね。巫女に戻ってくれ。巫女舞を復活させてくれってね。清水本家で、丁寧に御断りの文を認めたそうですけれど。ま、舞うだけなら何とかなっても、ねぇ」
其の場にいた全員が、えっ?と言った。
「ハナさん、もう出来なくなったって仰っていましたよね?巫女舞」
栄五の問いに、初は、ええ、と言った。
「だって、多分、舞は添えですもの。巫女舞の舞は別に、特に重要では無いの。巫女を務めていた者は、実感として、其れが有ったのではないかと私は思うのですけれど」
ああ、そういう事ですか、と栄五は言った。
そうよ、と初は言った。
「だから、舞ってくれと言われれば出来るけど、再現は抑無理なのよ。あの状態に、多分もう、なれないの」
「あの状態?」
辰顕が問うと、俊顕が、Tranceと言うと伝わるかな、と言った。成程、と紘一は思ったが、辰顕も、ハッとした顔をした。おや、と紘一は思った。
―英語が分かる子なのかな?まさかね。
対照的に、周二はキョトンとした顔をした。
初が説明を続ける。
「私達は、かかる、という言い方をしていたわ。皆で舞っているとね、其のうち、一人が、突然、バタッと倒れるのよ。時には、二人、三人とね。そして、起き上がると、何か、巫女本人が知り得ない事を喋るのよ。其の年の収穫だとかね。其れを、御託宣、と言っていたわ。私は、かかりが悪い方だったけれど、お富さんは其の点、優秀だったわ。よくかかると言われていたもの」
「え、其れが儀式の巫女舞?」
周二は、酷く驚いた声を出した。
「凄く、何ていうか、…儀式っぽいね」
顕彦が、くっくっ、と笑って、そうだな、と言って周二に同意した。
紘一にも、周二の言いたい事は伝わったが、もっと他に言い様は無かったものかな、と思った。
そうでしょう、と初が言った。
「此の、御託宣の方が、巫女舞より重要なのよ、多分。神様とか、そういう感じがするでしょう?」
いや、言い方という点に於いては、初も、周二と好い勝負だな、と紘一は思った。
―此の二人も、何処と無く雰囲気が似ているな。
兎に角、と、初は続けた。
「そういう状態で修行や儀式をするから、巫女自身も、あまり詳細を覚えていないのよ。だから、元巫女を何人集めても、舞うだけ。あの状態に、もう一度なれるとは限らないし、多分もう、なれないわ。巫女舞は再現出来ても、修業も儀式も再現出来ないの」
「修業が有ったの?」
周二の問いに、初は、そりゃあ巫女さんだもの、と言って、おっとりと笑った。
「もう詳しい事は忘れたけれど、今思うと、忘れる様に暗示が掛けられていたのかもしれないわねぇ」
綜一が、えっ、と言った。
「暗示?」
「ええ。結局、其の様なものなのでは?ああいう状態に、なり易くしてあったのだと思うの。終わると忘れる様にね。だから当時、巫女は全員生きていたけれど、儀式の何かを再現した人は一人も居ないでしょう?」
綜一は、うーん、と唸った。
「…成程。舞自体は添えもの」
初は、考え込む綜一を見て、ふふっ、と、柔らかな微笑みを浮かべた。
「そう。だから、以前と舞が違うとか、そういう事が問題では無いのよ、きっと。操殿は偉大な方でいらしたわ。居なくなってしまった一人娘のお富さんも、其れは御美しくていらして。きっと、戻って来てくださったなら、巫女の儀式を再現出来るのではないか。そうでなくても、何か知っているのではないか、って、期待してしまうのかもね。そういう、誰かの願望が噂になった御話なのかもしれないわ」
美しい?と、思わず紘一は呟いた。
初は、あら、と言って、また微笑んだ。
「お富さんは特別よ。私、大好きだったわ。もっと仲良くしたかったもの。きっとね、お富さんの事、好きな人も嫌いな人も、一度会ったら忘れられない人だったと思うわ。悪く言っている人だって、あの魅力には抗えなかった筈よ」
母を褒められた事については嬉しい紘一だったが、其の内容としては、如何にも今一つ現実感が無かった。
「如何も、よく分かりません。美人だったかもしれないけど、母が、そんなに神秘的な存在だったとは思えなくて」
初は、微笑んだ儘、続けた。
「其れが、きっと、当たり前の事なのでしょうね。其れは、貴方の感覚の方が正しいのよ。巻物を出せ、何て言う人達よりもね」
初の声が、おっとりと、且つ、前より優しく響いたので、何だか、紘一は、少し感動しながら、続く言葉を聞いた。
「巫女ってね、神様の御嫁さんなのよ。だから、お富さんは、祝言の前に巫女を引退したの。貴方の御母様になった時はね、もう、貴方の御父様、人間の御嫁さんになっていたの。貴方にとって、お富さんが神秘的でない方が当たり前ね。食べて、寝て、生活して、子供を産んで、育てて。私、御母さんになったお富さんにも御会いしてみたかったわ。きっとね、巫女さんだったお富さんしか知らないと、其の幻影から逃れられないのよ。何かの暗示を掛けて、御託宣を巫女に言わせる儀式だけなら、きっと他の儀式も作れるでしょう。誰も正解は知らないのだから、文句を言う人も居ないもの。巫女だった誰かが、こうだった、と認めれば、箔も付くでしょう。でも、巻物が如何こう言う人は、きっと、其れでも本当に納得しはしないでしょうね。お富さんが戻って来て、舞でも見せない限りはね。そうして、其れ見ろ、秘伝の巻物は在っただろう、と言うの。滑稽ね」
栄五もそっと頷いた。
「お富さんが亡くなった事も、坂元の親戚と、実方の本家の方々にしか御伝えしていませんからね。そういう人は、きっと、お富さんが亡くなった事も信じないでしょうね」
初は、寂しそうに言った。
「信じたくないのね、お富さんが、もう此の世にはいらっしゃらないなんて。お富さんは、本当に特別だったから」
上座敷が、しん、と静まり返った。
皆が、チラチラと、静吉と紘一の方を見る。
静吉は俯いている。
紘一は、自分の知らない母が、誰かの中で未だ生きている様な気がして、暖かい様な、悲しい様な、妙な気分になった。
初が、紘一に微笑みかけてきた。
「どんな御母様でいらしたの?お富さんは」
「そうですね、料理や裁縫が上手くて」
「ええ」
「あと、御金の計算が、凄く速い人でした」
静吉と顕彦が、ブッと吹き出した。
俊顕と栄五は、えっ?と言った。
初が、目をパチクリさせて、御金?と言った。
静吉は笑いながら、そうだったなぁ、と言った。
「何が何円だとか、此方の方が安いとか、彼方は手作りした方が得だ、とかね。そういう計算が、本当に上手かったのです。うちの兄に、要らぬ知恵を付けられましてね。髪は切って売る、自分の着物は高値で売る。いやぁ、会社の会計仕事を任せたいくらいでした」
まぁ、と、初は意外そうに言った。
おや、と顕彦が言った。
「あれって、そうだったのですか?髪を短くなさっていたのは」
静吉は、そうなのだ、と言って、また笑った。
「三年延ばしては切って売る、というのを繰り返していた。金が如何とかいうより、何か、そんな事が収入になる、というのが、面白くなってしまったのだろうな。趣味と言っては変だが」
俊顕が、分からん、という顔をして、趣味、と復唱した。
確かに、以前、顕彦が家に来てくれた時、母の髪が、肩擦れ擦れの所で前下がりに着られていたのを、紘一は思い出した。
「…ああ、御金に困っている、という感じはしませんでしたからね。良い着物で」
顕彦も、そう、思い出すようにして喋ってから、少し不思議そうな顔をした。
髪を切って売るのが趣味だった、と言われても、ピンと来ない様である。
其れはそうだろうな、と思いながら、紘一は言った。
「と、いうわけで、何方かと言えば、神秘的というよりは、面白い人でした」
面白い、と、初は復唱した。
紘一は、ええ、と言った。
「変わっていると言えば、そうだったでしょうが。楽しい人でした」
「ああ、其れは、とても幸福な事ね」
初が、泣き笑いの様な表情で、そう言った。
「会いたいわ。お周ちゃん、あ、此の双子の御母さんとね、お富さんと、私、三人年が近くて。でも二人共既に亡くなっていて。本当に、今でも時々、堪らなく会いたくなるわ。もう、あれから、大正十五年から、二十年も経ってしまったのね」
紘一は、双子の方を見た。
双子と目が合う。
綜一は、紘一からそっと目を逸らした。
周二は、寂しそうに笑った。
双子の母親も亡くなっていたらしい。
紘一は、此の麗しい二人に、多分、今日一番深く共感を寄せたのは今だ、という気がした。
静吉は溜息をついて、言った。
「そんな添え物の舞や在りもしない巻物の為に、随分な言い掛かりをつけられたものだなぁ。否、言い掛かりというものは本来、そういう、根拠の無いものかもしれないが」
あら、と言って、初は静吉の方を見て、言った。
「在ったとしても偽書、というのは、私が思うだけですけれど。近い物は在ったのかもしれません」
また、全員が、初を見て、えっ?と言った。
俊顕が、おいおいおい、と言った。
「ハナ。何だね、在ると言ったり、無いと言ったり」
「ああ、そういう事ではないのです。火の無い所に煙は立たぬと申しますでしょう?近い物、何か、覚書の書き付けの様な物は在ったのかもしれない、と思うのです。秘伝なのではないか、と誤解を生む様な。内容は如何あれ、ね。妙に具体的じゃありません?冊子本でも良さそうなところを、今時巻物だなんて。如何いう発想かしら。見てきたかの様な、ね。其の発想が、聞く人によっては信憑性を高める要素になっているのかも。秘伝というくらいだから古い巻物なのだろう、くらいの発想なのかもしれませんが」
「ああ、成程。あ」
静吉は、初の言葉に、何か思い当たった様な顔をした。
「冊子本?もしかしたら」
「父さん?」
「富が探していた本が在ったのだ。そう言えば。あれは」
考え込む静吉を、全員が見詰めたが、静吉は、いや、と言って打ち消した。
「憶測だな。そしてやはり、其の本は結局、見付からなかったのだから」
顕彦は、そういう誠吉の顔を、覗き込む様に見た。
「誠吉さん。今更でしょう?憶測の域を出ない様な話でも、教えてくださいよ、俺達に。お富さんの事」
顕彦の言葉に、俊顕と栄五も頷いた。
静吉は、そうか?と言って続けた。
「当時は、富が読みたがっていた本を、操殿が富から隠してしまった、という印象を受けたな。何の証拠も無いが。富は、其れが何か大事な物だと思っていて、其れを読みたいが為に、必死に勉強していたのだが」
静吉が、そう言うや、昔の富を知る大人が全員、驚きの声を上げた。
「其れは、誠吉さん。本当の事ですか?」
顕彦が、大きな目をカッと見開いて静吉に問うたので、紘一はギョッとした。
しかし、静吉は、動じた様子も無く、其れに答えた。
「そうなのだ。富にも、其の本を読みたい、という、目標が有ったのだ。何としても其れを読みたい一心で、本人も必死で頑張ったが、結局、読める様になってみれば、本自体が無くなってしまっていたのだ。あれは気の毒で仕方が無かった」
ああ、やっぱり、と、初が嘆いた。
「皆、そんな事知らなくて、お富さんの事、誤解していたのよ。余程其れが知りたかったのね。とても純粋な気持ちで字を学んでいたのだわ」
紘一には何の話か分からなかったが、顕彦と栄五は、悲しげな顔をして俯いた。
俊顕は、考え込む様な顔をしたが、稍あって、溜息をついて首を振った。
「今となっては、其れが秘伝の書なのかは分からないな。其れらしき物、というだけだ」
そうね、と、初も俊顕に同意した。
「冊子本なら、巻物よりも新しいかもしれないものね。本物なのだとしても、千年も前の物、という事は無いでしょう。其れに、塚にでも埋めていたというなら兎も角、娘が、うっかり読める様な場所に保存していた、というのなら、精々(せいぜい)写し、時代も、江戸、というところでしょう。そんなに昔の物では無いわ。ただ、お富さんを惑わしてしまう様な本は在った、という事かもしれませんね。でも、本当に、きっと、今となっては分からないわね」
昭和四年生まれの紘一には、江戸が、そんなに昔ではない、という感覚が、よく分からないが、初は流れる様に、そう言った。
静吉も、そうですね、と言った。
「舞なら紘一も舞えますが、秘伝などと」
上座敷が再び、しーん、と静まり返った。
稍あって、紘一は、舞えませんよ?と言った。
静吉は、ほら、と言って、手拍子を取った。
とっととっと、とーん、とん、とん、ととと、とん。
「え?あれですか?苺の一、って、あれ?」
「そうだ。お母さんが数え歌を作ってくれたであろう。御前達が数を覚えるように、と。あれに合わせて動いていたのが、舞だよ。結局、紘しか出来るようにならなかったが」
「其れは、俺が、やっと満六歳の頃、母さんが亡くなったから、他の弟妹は未だ小さくて。…え、本当に、あれが巫女舞ですか?」
狼狽する紘一を見て、初が顔を輝かせた。
「私と一緒に舞って見せて」
「え?」
「何か採り物が必要ね。枝の様な物は無いかしら。棒でも良いけれど」
初が、そう言いながら、辺りをキョロキョロと見渡した。
栄五が、今から舞うのですか、と、少し焦った様に言った。
駄目かしら、と初が言うと、周二が、見たい、と言って右手を上げた。
其の場にいた全員が紘一を見た。
紘一は、たじろいだ。
「本当に、あれで良いなら舞いますけど。ただの数え歌でしょう?」
顕彦が、どんな歌だい?と問うてきたので、紘一は、はぁ、と言った。
「苺の一、人参の二、三輪車の三、新聞の四。御飯の五、蝋燭の六、七面鳥の七、ぶんぶん飛んで(とんで)くる八、急須の九、果汁の十」
俊顕と顕彦と辰顕が、あ、と言った。
初が、嬉しそうに、まぁ、と言った。
「其れよ。まぁ。あの拍子を数え歌にして、数を覚える様にしてくださっていたのね」
喜ぶ初に、静吉は、穏やかな笑みを向けた。
「多分、其れ程沢山唱歌を知らなかったのでしょう。一番、富には身近な音だったのでしょうね。富なりに、子供達に楽しく数を教えようとしてくれていたのです」
良い御母様、と言って、初も、紘一に向かって穏やかに微笑んだ。
紘一は、此れが本当に?と、疑わしい気持ちで、静吉と初の顔を交互に見た。
「果汁っていう言葉選びは、随分ハイカラですね」
顕彦が、少し楽しそうに、そう言うと、静吉も、顕彦に笑顔を向けて、言った。
「子供の好きそうな物の名前を一生懸命考えていたよ。八と九は悩んだ様だが」
俊顕も其れを聞いて笑って、言った。
「よし。では、今日は、もう寝ている子が起きる。明日、帰る前に舞ってもらおうか。そしたら、俺達で楽を奏してやるよ。な、彦、辰」
顕彦と辰顕が、はい、と返事をした。
俊顕は続けた。
「紘。俺達、実方の家は伶人、わざおぎ、…楽師って言ったら分かるかな。儀式や行事の時なんかに、楽を奏する家なのだ。うちの親父も誘って、楽を奏すよ。そしたら、初も舞ったらいい。採り物も、…榊だったか?ちゃんと用意してな」
初が、ウキウキとした声を出した。
「其れ、とっても良いわ。二十年振りね」
良いかな、と静吉が紘一に言った。
はい、と紘一は答えた。
一宿一飯の恩とは言うが、此の御時世に、あんなに御馳走してもらったのである。相手から対価など要求されてはおらずとも、米で支払えない紘一は、多少照れ臭くはあるが、舞うくらいなら構わない、と思った。
※Trance 英語、もしくは独逸語の女性名詞で、催眠状態、の意味。




