エレオノーラとアヒムの関係
本文2話目です。誤字脱字等がありましたら、ご指摘いただけると幸いです。
2.
「見送りご苦労様」
メイはエレオノーラのソファへと歩み寄ると、てきぱきと主人の前に新しいお茶と菓子を並べた。エレオノーラは視線を前に据えたまま、カップを受け取った。視線の先では、先程メイが壊した扉を、従僕たちが手慣れた様子で付け替えている。床に散乱していた木くずはすっかり取り払われ、毛足の長い絨毯からは乱闘の痕跡を辿る手掛かりは全く残っていなかった。
「アヒムはお言いつけ通り、リヒター卿と共に神殿に向かいました」
そう、と小さく呟いたエレオノーラはようやくメイの顔を見た。
「随分と不満そうな顔つきをしていたわね。小気味のよいこと」
「今夜はいつも以上に警備を厚く致します」
「そうしてちょうだい」
抑えた声ながら、作業を終え部屋から出て行こうとする侍従たちの耳に入る声音で話し続ける。恐らくこのうちの幾人かは、エルトマン伯爵ことアヒムの手のものであろう。彼らが耳にした情報は必ずアヒムの耳に入ることになる。ことにエレオノーラに関することであれば巨細漏らさず報告の義務が課せられているはずである。全ての侍従たちが立ち去ると、エレオノーラはぐうっと伸びをした姿勢のままで、ソファに倒れこんだ。
「全く、あれはどうにかならないかしら。お父様は次第に落ち着くと仰っていたけれど、ますますひどくなっているわ」
ミアやヴォルフガング殿下の手前、結婚の候補者はアヒムとアロイスの二人だと言ったものの、実際はアヒムが候補に決まっているようなものだった。性格に難はあるが、能力、功績、将来性のどれをとってもアヒムがアロイスを上回っていた。何よりも、未来の公爵であるエレオノーラに対する忠誠心は、ほかの追随を許さぬものであった。しかしながらエレオノーラにとって、アヒムの執着と嫉妬深さは諸刃の剣ともいえた。
ドラゴンスレイヤーであるメイですら適わない、莫大な魔力を有しているアヒムをエレオノーラが力で押さえつけることは、とてもではないが不可能である。如何にあのアヒムを御していくのか、これはヴァルトハウゼン公爵からエレオノーラに課された大きな課題の一つだった。彼女が女の身で爵位継承を容易にするために、アヒムは彼女にとって必要な一手だった。最も強いカードである反面、非常に扱いにくい性質を持つことも事実だ。
「力及ばず、申し訳ございません」
深々と首を垂れたメイの首元には、腕と同じく包帯が巻かれている。
「顔を上げてちょうだい。貴女にはとても感謝しているの。英雄という地位を捨てて私の元に来てくれたことは、私にとって望外の喜びと言っても過言ではないわ。貴女がいなければこれほどアヒムを抑えることは不可能だもの」
アヒムは物事に頓着しない分、一度これと決めたものに対する執着は並外れていた。その唯一で最たるものがエレオノーラだった。普段は冷淡ともいえるほど冷静な彼がこと、エレオノーラに関わることになると度を越した悋気をみせるのだ。
「後悔なさっていませんか」
「いいえ。一度懐に入れると決めた相手ですもの。後悔なんてしないわ」
きっぱりと言い切ったエレオノーラをメイはじっと見つめた。
「でも、私にはあれ程の熱量を相手に捧げることはできない。誰に対してもあんな風に熱烈な愛情を抱くことなどできないわ。家族に対するような穏やかな愛情を抱くことはできるけれど、恋愛と言った類のことはさっぱりよ。ヴォルフガング殿下やリヒター卿たちはシュトラウス嬢に夢中なようだけれど、どうして恋愛にあれ程どっぷりと耽溺できるのか訳が分からないわね。だから、アヒムの言動を理解できないのだけれど。一昨日のアヒムの台詞覚えている?全くどうしたらあんな思考になるのか、呆れ果てて開いた口がふさがらなかったわ」
話ながら先日の夜の出来事が思い出されたために、ずきずきと傷みだした頭を抱きしめたクッションにうずめた。
事の発端は母の実家である某侯爵家のパーティーに、ヴァルトハウゼン公爵が出席できなくなってしまことであった。エレオノーラは父公爵のエスコートで出席することになっていたから、急遽新しいパートナーを探す必要があったのである。白羽の矢が立ったのは義弟であるアロイスだった。アロイスは成人を迎え次第分家を立て、公爵家を出ていくことが内々に決まっていたが、現在はまだ義弟という立場でもあり、気の置けない相手であると言えた。しかし、アヒムはそれに不満を抱いたようなのだ。
あれの厄介なところは、表立ってヴァルトハウゼン公爵やエレオノーラに反対しないことだ。その反面、裏であらゆる手を講じてそれを覆そうとしてくるのである。その日も、アロイスの侍従が主人の伝言を持ってきたと耳にして、嫌な予感がしたものだった。案の定、アヒムによって部屋に通された侍従は青ざめた顔色で報告した。
「アロイスが欠席するですって?」
恐縮して謝罪を繰り返すアロイス付きの侍従に問い返せば、夕べから微熱が続いており、今朝からは食事ものどを通らないほどであるという。心配と疑惑を半々に抱きつつ、妙に機嫌のよいアヒムを連れてアロイスの部屋に見舞いに行くと、寝間着にガウンをひっかけただけのアロイスが出迎えた。几帳面で神経質な義弟にしてはラフな格好である。
「申し訳ありません義姉上」
謝罪の言葉を口にするアロイスの瞳は熱で潤んでいた。そういえば、彼が公爵家に引き取られて数年は、こんな風にちょくちょく熱を出していたことを思い出す。環境の変化や極度の緊張などストレスが体調に出やすいタイプなのだ。こうした繊細なところが庇護欲をそそる一方で、エレオノーラが彼を伴侶に選ばなかった理由でもあった。同じ理由で、父公爵もまた彼ではなく、エレオノーラを後継者にすることを決心したのであろう。心の弱さはあるものの、誠実で有能な彼をエレオノーラは信頼していたから、成人次、分家に出すとはいっても、傍に置き続けて公務を担わせる腹積もりでいた。
「病気なら仕方がないわ。無理は禁物よ、大事になさい。それにしても体調を崩すなんて久しぶりね」
「このところ、いろいろと考えることが多かったもので。体調管理もできずお恥ずかしい話です。それはそうと今夜の舞踏会のパートナーはどうなさいましたか?」
病人がそんなことを気にせずとも良いと告げると、アロイスは申し訳なさそうに眉根を寄せて、テーブルに置かれていた手紙をエレオノーラに差し出した。
「実は、差し出がましいこととは思いましたが、昨夜から体調が思わしくなったものですから、もしもの時は大叔父上に代わりに参加していただけないか打診していたのです。今朝、再度遣いを走らせまして、承諾を戴きました。義姉上さえよろしければですが」
大叔父上とは祖父の末の弟で、学者として立身した方である。結婚しておらず、パートナーの男性と共に暮らしていた。
「手回しがよいわね。私も大叔父上にお願いしようと遣いを出したところだったの」
エレオノーラの言葉にアロイスはホッとした笑みを見せた。その時、僅かにエレオノーラの背後、ピタリと寄り添うアヒムに目を止めて怯えたように瞳を揺らした様子を、エレオノーラは見逃さなかった。彼女はくれぐれも無理せずゆっくり休むようにいうと、暇を告げた。
居室に戻り、大叔父からの承諾の手紙に改めて目を通すと、アヒムが用意したお茶に口を付けた。
「アヒム、お前また何かしたわね」
「何のことでしょうか」
エレオノーラにしかわからないほど微かに口元を緩めながら、涼しい顔でとぼける彼を、彼女はじろりと睨みつけた。
「約束は守ります」
ヴァルトハウゼン公爵家の継嗣が決定してすぐ、アヒムとアロイスは公爵の執務室に呼ばれた。公爵は二人がエレオノーラの最終婚約者候補となっていること、どちらが選ばれたとしても将来的にエレオノーラの最側近として働いてもらうことを告げられた。同席していたエレオノーラはあらかじめその話を承知していたのか、表情を変えることはなかった。
アロイスは何か言いたげに口を開いたものの、公爵の顔を見ると口を閉ざした。彼の中でミアへの恋情と公爵家に対する忠誠と恩義が、せめぎ合っていたのだろう。しかしそれも須臾の間のこと、直ぐに思い切ったように静かに瞳を伏せた。握りしめた拳だけが彼の感情を表していた。そんなアロイスの様子をアヒムは見つめていた。
「遅くとも半年後には二人のうち一人が、正式に私の将来の伴侶として披露されるだろう。それまでの間あなたたち二人の言動の一つ一つが評価の対象となる。是非ともお互いを高め合い、競い合って欲しい。但し、二人とも私にとってなくてはならない存在だということを忘れてはいけない」
公爵の部屋を辞して後、エレオノーラは、改めてアヒムとアロイスに説明を行い、重ねて暗に互いを害することは許さないと忠告した。主にアヒムに対しての言葉だったが、彼はそれを順守しているようだった。
「確かに、身体的に危害を加えてはいないようだけれど、精神的にはどうかしら。あれの胃薬の量が増えたと報告があがっているの。また胃に穴をあけるような事態は避けて欲しいものね」
アロイスが吐血し、倒れたのが数ヶ月前のことだった。直ぐに医師だけではなく高位神官が招聘され、彼の治療に当たった。原因は極度の精神的な負荷にさらされたことだった。ストレスが昂じ、胃の腑に穴があいたのだ。幸いなことに、若く体力もあったアロイスは治療の甲斐もあって数週間後には復帰した。しかし、このことが次期公爵の伴侶としては致命的な瑕疵となった。原因が何であれ精神的に柔弱と判断された彼が挽回することは不可能だった。
ヴァルトハウゼン公爵はアロイス発症の裏に、アヒムの暗躍があることに気づいていたが、黙して語らなかった。エレオノーラもまた感づいていたものの、父公爵が沈黙を貫いている以上、表立ってアロイスを庇いだてることはなかった。これくらいの負荷で倒れていては、ヴァルトハウゼン公爵の伴侶となることはできないからだ。公爵と後継者である彼女の肩には、領民や公爵領や公爵家で働く数多の人々の命がかかっていた。
それでも、エレオノーラにはアロイスに対する親愛の情と同情があったので、しばしばアヒムをたしなめつつ、その暴走を牽制していた。
「私をお見捨てになるのですか?」
アヒムは度々この言葉を口にした。絶望と黒い炎をともした瞳でエレオノーラを見つめながら紡がれる言葉に、エレオノーラはため息をついた。どうしてそのような思考回路になるのか、全く理解ができなかった。いや、彼女なりにアヒムの悲惨な生い立ちや、そのねじくれた思考回路を理解してはいたのだが、いかんせん、自分ではありえない発想の飛躍に、彼女の理性が理解を拒んでいるのだった。彼女は眉間に皺を刻むと、いつもの通り努めて落ち着いた声音で言い含めるように告げた。
「そのようなこと言っていないでしょう。あなただって頭では理解しているはずよ。私が言いたいのはやりすぎるなということ。いつまでこんな方法を続けるの?そう、それにあなたリヒター卿にも何かしたわね。あの放蕩者が夜遊びを控えるどころか、バローズ家のダンスパーティ以来、ひどく怯えた様子で神殿に篭り切りだという話じゃない」
「私は、ただ、夜道にお気を付けくださいとお声掛けしただけでございます」
以前申し上げたご忠告をお忘れのご様子でしたので、と冷え冷えとした声音でアヒムが答えると、エレオノーラは小さくため息をついた。
「ただのダンスよ。猊下と父上がご昵懇なのは周知の事実でしょう。公の場で私たちがそういつまでも避け合っていたら、あらぬ噂も経ちかねないわ。神殿との良好な関係性に少しでもひびが入るのは、我が公爵家にとっては損になりこそすれ、得るものは全くないのよ。礼儀上一回踊ったくらいで、いちいち目くじら立ててどうするの」
「エレオノーラ様の真意はどうであれ、周りはそう思ってはおりません。ひとたび囁かれた噂は翼を広げ、何処までも飛翔するものでございます。あの場でも、少なからぬ方々がエレオノーラ様とリヒター卿の縁談は立ち消えてはいなかったのかと口にしていたのです」
こみ上げてくる呆れと僅かな怒りを押しとどめながら、エレオノーラは強いて笑顔を作ってみせた。
「では、私にどうしろというの」
アヒムはエレオノーラの前に膝をつくと、右手を執務机に載せた。悲愴な面持ちで彼女を見上げるアヒムの瞳に、エレオノーラの姿が揺れていた。
「私は誰が何と言おうとも、一生お嬢様のお傍を離れません。お嬢様は私などおらずとも生きていくことができるでしょうが、私はお嬢様なしに生きていくことなどできません。一方で、狭量な私は、お嬢様のお傍に私以外の人間が侍ることなど決して認めることはできないのです。どうかお嬢様、この哀れで愚かな男をお救いください」
なぜ、ここまで夢中になれるのか、全く理解の範疇を超えている。これほどの熱量を向けられて、却って冷め切ってしまう自身の心に、なぜか良心の呵責を覚えてしまったエレオノーラは、いやいや、愛情の押し売りもまた、相手の都合を考えない身勝手なものであろうと冷静さを取り戻す。
「1年と少し後には、お前が私の婚約者になるのよ。公爵様は決心をそう簡単に覆すようなことは決してなされない方。特にこのような重要なことについてはね。それでも安心できないの?」
押し黙るアヒムがまるで頑是ない幼子のように、エレオノーラには映っていた。
「私なしでは生きていけないだなんて、そんなことを言われても私が喜ぶ人種ではないとわかっているでしょうに」
「それでも、最期の瞬間、いいえ、その先までも私はお嬢様とご一緒したいのです。私にとって、お嬢様のいない人生など無意味ですから」
アヒムの潤んだ赤い瞳に、狂気の色がゆらゆらと立ち上る。
「では、お前は私が先に儚くなったら私の後を追うというの?」
「無論です。お嬢様と私は生死を共にせねばならないのです」
間髪おかずに断言したアヒムに、エレオノーラは口角をひきつらせた。
「あまり考えたくはないのだけれど、その理論だと、お前が先に死にそうになったなら、お前は私をどうするつもりなのかしら」
「どんなに高貴な方でも避けられない残酷な運命であっても、私たちを分かつことはできません」
そう言ってアヒムはうっとりとほほ笑んだ。命の危機にゾクリと背筋を凍らせたエレオノーラは、メイたちと再度対策を練らねばなるまいと心に決めた。
正直面倒くさい、というのが彼女の本心だった。アヒムのことを大切に思っている一方で、どうしても本音を隠すことはできない。何より身の危険、貞操の危機がかかっているのだ。ちなみに、公爵はなんといっているかと言えば「お前の拾い物だろう。一度拾ったからには最期まで面倒を見なさい」であった。きっとアヒムに巻き込まれるのが嫌なのだ。エレオノーラは外見はともかく、思考回路は父とそっくりであったから、彼女と同じく公爵もまたアヒムの性格を面倒なものと考えているに違いなかった。但し、他人事であるだけだ。
「メイたちには世話を掛けるわ。それにしても、アヒムに対抗するためには、こちらが力不足なことも事実よね。何かいい手はないかしら」
灯りの消えたベッドの上で、エレオノーラはもう何度目ともつかない溜息を吐いたのだった。
次は閑話です。ずっと具合が悪そうな、あの紳士とアヒムの出会いについて。