笑いの真
さして交通量の無い道を、一台の車が走っていた。
乗っているのは、妙齢の美女が二人。
「いや〜、それにしても今日は運が良かったわ」
「ですね。でも、ちょっと面倒じゃないですか? 志野さん」
かっかっかと笑いながら運転する女に、助手席に座っている方の女が少し考える素振りを見せながら言った。
「まあまあ、結構慣れるとこれはこれで楽しいもんよ瑞樹」
掛けっぱなしのバッグを片手でぽんぽんと叩き、にやっと笑みを浮かべた志野に、瑞樹はへえ、と感心したような顔を浮かべる。
事が起こったのは、その間の一瞬の笑顔のやり取りを交わした時だ。
訪れたのは、轟音。
それと同時に襲って来た衝撃で、二人を乗せた車はひしゃげ、
「うわっ」
「きゃっ」
回転し、
「おわああああ」
「ひえええええ」
止まった。
「うぉわっ!」
「あいたっ!」
幸い二人には大した外傷は無いようだが、逆に車の方は見事に天に召されてしまったらしい。
ボンネットは上がり、機器の端々からはもうもうと煙が上がっている。
「な、何だってのよ、一体」
頭をさすりながらドアを開け放ち外を伺う志野の目に入ったのは、自分達に突撃してきたと思われる車と、そこからこちらに向かって来る男の姿。
どう見ても堅気とは言えない雰囲気に、瑞樹の方は助手席で縮こまっている。
反対に志野の方は、瑞樹の無事を確認するとおもむろに車から降り、歩み寄って来る男に険しい顔を向けていた。
とうとう志野の元にまでやってきた男は、
「てめぇこら女! 何処に目ぇ付ぶほぉらぁあぁあぁ!!」
吹き飛んだ。
「ざっけんじゃねぇぞ腐れボケが!! おかしいだろ二車線な直線で右から突っ込んで来るって!! どんな走り方してんだよああ!!」
男の言葉を聞くなり、血管をぶち切れんばかりに浮き出させた志野がストレートを男の顔面ど真ん中に撃ち込んだのだ。
憐れにも男は二バウンド程してようやく止まったが、当然ながら立ち上がる事など出来ない。
ファンタジックな方向に捩曲がった鼻からだらだらと血を流しながら白目を向いているのを遠目で確認して、志野はぐるりと車内に残った男達に目を向けた。心なしか、目が光っているような印象を受ける。
「てめぇら、覚悟出来てんだろうな?」
一際ギラリと光らせた雰囲気を見せる志野の背には、龍や鬼の幻想が鮮明に見える程の迫力だった。
「ひ、ひぃ!!」
「く、車出せ! 車!!」
見事にやられている志野達の車と違い、相手の方は正面がやや凹んではいるが機能を失う程では無いらしい。
盛大にエンジン音を響かせると即座に車を反転し、脱兎の如く走らせた。
車が動き出すと同時に、車内から瑞樹が怖ず怖ずと顔を出す。
「し、志野さん? 乱暴は……」
途中まで言って、瑞樹は志野の様子に呆気に取られ言葉を止めざるを得なかった。
彼女の目に映った志野は両手を地に着いて腰を上げた体制、陸上などで見かける所謂クラウチングスタートの形をとっていたのだ。
まるで、今逃げた車を追いかけようとしているかのように。
「逃がすかぁ!!」
「志野さん!? 相手は車って速っ!!」
雄叫びのような声を皮切りに、大量の土煙を上げる程の勢いで志野は瑞樹の視界から瞬時に消え去った。
明らかにおかしな速度を出した志野を唖然と見送っていた瑞樹が、はっとした表情をして我に返る。
ぽつんと、舞台から一人だけ取り残された瑞樹が志野の消えた方角を見ながら今更ながらに慌てふためいていた。
「え……し、志野さん!? く、車どうしたらって、いや、私こそどうしたら、あっ、け、携帯携帯! ぅえっ!! 電池切れ!? し、志〜野〜さ〜ん!!!!」
いくら呼んだ所で、既に姿の見えない志野に届く訳も無く。瑞樹は携帯電話を片手に、尚もあたふたとしながら状況の打開を考え始めた。
「あ、あぅ、ど、どうしよう。どうしようか? はっ、そういえば電池って擦るとちょっと回復するんだっけ? でも、志野さん追わないと。そうだ! 走りながら擦れば良いんだ!! し、志野さぁ〜ん!!」
ぐるぐるとその場を回りながら、ようやく瑞樹は結論に達したらしい。両手で携帯電話の電池パックを擦りながらとたとたと、志野とは比べものにならない速度で走り出して行った。もちろん、比べものにならない遅さで、だ。
一方、志野の方はと言うと。
「待ぁてやぁああああ!!」
「「きゃああああああ!!!!」」
何故か車と人とのカーチェイスが成立していた。加え、男女逆転したかのような双方の声が上がっている。
志野はともかく、厳つい顔をした男達から黄色い悲鳴が漏れる様というのは、中々に見る者をげんなりさせるものがあった。
男達の車は、やはりぶつかった時にどこかしらやられていたのか、それとも元々か、本来の速度を出し切っている様子は見られない。それでもかなりのスピードで疾走しているのだが、どう言う訳か志野はその後ろにぴったりとついて、いや、徐々にだが追い上げて来ているではないか。
「ふはははは、甘いわぁあ!!」
「「いーーやーーーー!!!!」」
双方のスピードが更に上がる。
男達の車から徐々に煙が上がっているのが見て取れる事から、無理をさせているのは明白だ。
まあ、止まって先の男のような目に遭うよりは、車を犠牲にした方がマシという事なのだろう。
閑散とした夜の路上を、二つの影が嵐の如く爆走して地平線へと消えて行った。
それから暫くして、そう、瑞樹が走り出してから、かれこれ三十分程過ぎた頃。
ぽてぽてとした走りで当初より更に速度を落としていた瑞樹が、そろそろ良いかと携帯電話に電池パックを戻し、電源を入れる。
何がどう作用したのかは分からないが、何故か電源の点いた携帯電話を瑞樹が普段のペースに比べ随分と素早く操作していた。
電話の相手は、慎一。
『どした?』
「もしもし慎!? えっと、その、急にぶつかってきて!!」
慎一が電話に出た瞬間、瑞樹が彼には何一つ言わせんとするかのように捲し立てた。
どうやら三十分のマラソンを経ても、彼女に平静を取り戻すには至っていないようである。
『お、おいなんだよ瑞樹、落ち着けって』
いつものんびりとしている瑞樹のらしくない様子に、慎一は落ち着いて何があったかを話すよう促すが、今の瑞樹にはそれを受け入れる程の余裕は無い。
いつ電池が切れるとも分からない状況で少しでも事態を相手に伝えんとする彼女には、どんな宥めの言葉を掛けられても耳を素通りするばかりだ。
焦るあまり分割された内容を彼女は早口で慎一の耳に次々と叩き込む。
「わ、私がいけないの! 志野さんが! 車!! 突然ぶつかって来て!!」
こんな断片的な言葉では相手の理解など買えないだろうが、そこはそれ。要は彼女が伝え切って満足しさえすれば良いのだ。
今の状況は、そういう一般的な、所謂効率や論理的なものなど介在する余地の無い状況なのである。
『ちょ、待て! 落ち着けよ瑞樹。志野さんならもうこっちに来てるからさ』
電話の向こうで、慎一からこの思いもよらない言葉が漏れるまでは。
刹那、時が止まった。
「……うそ、でしょ?」
『いや、さっき来て、今は奥で久則と話してるけど……』
まさか、と息を呑む瑞樹。
慎一の方は何をおかしな事があると言いたげだが、瑞樹からすれば異常この上無い。
なにせ、事故に遭った場所から自宅まで五キロ以上は確実なのだ。
家にいると言う事は、考えたくは無いが車に居た男達は最初の男と同じように、今頃お花畑と対面しているに違いない。
つまり、志野は車に追い付いた揚句そこに乗っていた大の男二人を叩きのめし、そして瑞樹の家まで辿り着くという芸当を三十分でしてのけた事になる。これを驚かずして、何を驚けと言うのだろうか。
『瑞樹、何があったんだ?』
瑞樹の様子に、さっきよりか幾分か硬い声を出して慎一が質した。
彼の問いに答えるかのように、彼女は電話口に向かってあらん限りの驚愕を詰めて叫び出す。
「だ、だって、突然車がぶつかって来て、志野さんがその車に突撃して、それで、まだ三十分位しか経ってないんだよ!!」
有り得ないとばかりに瑞樹が言い切った。
言い切った、のだが、何故か反応が返って来ない。
「慎? ねえ? えっと、聞こえてる?」
不審に思った瑞樹が携帯電話を顔の正面に持ってきて何回か呼び掛けるが、まるで反応が無い。
その時ふと、彼女は画面に何も映っていない事に気付く。
つまり、電源が切れたのだ。
返事など、貰える筈も無い。
「あ、ああ〜。切れちゃってる……」
両手で携帯電話を掴みながら、瑞樹はがっくりと肩を落とし頭を下げた。
何とも情けない声を出す様は、唯一の連絡手段が失われた失望感を漂わせている――
「まあ、いいや。とりあえず何かあったっぽい感じは伝わったと思うし」
訳でも無いようだ。
どうやら先程まで目一杯叫んで溜まった感情を吐き出したお陰で、瑞樹はすっかり満足したらしい。
おかしな話だが、マラソンで冷静さが戻らなかったのは単に吐き出す相手が居なかったからと言うだけの事のようで、落としていた顔を上げた彼女は普段通りののんびりとした空気を取り戻し、どこかしかすっきりした様子で伸びなどをしていた。
ふと、そこで彼女は何かに気付いたような表情を作る。
「って、私が何処に居るか言ってなかったっけ? ……いいや、志野さんはもうあっちに着いちゃってるみたいだし、ゆっくり帰ろ。それにしても志野さんは凄いな〜」
表情も一瞬、さも大した事が無いような緩い口調で言って、瑞樹は家への道を暢気に鼻歌なんぞを歌いながらゆっくりと歩き始めた。
さて、瑞樹が再出発する少し前、志野はと言うと、
「ごめん! 久則!!」
奥の部屋に入って直ぐ、久則に向かって大仰に頭を下げていた。
切に許しを請うその姿は、男達をのした時の気迫など微塵も見られはしない。
ただ只管に謝罪と、申し訳なさだけがそこにあった。
謝られた方の久則からすれば、何の説明も無いまま普段強気の彼女の突然の行動に面食らうばかりである。
「うぇ!? 何何何!? んないきなり謝られたって、一体どうしたんだよ志野?」
一体どうしたのだと久則が問い質すと、志野がぽつぽつと事情を話し始めた。
簡単にまとめると、理不尽な事故に遭い久則の車を大破させ、更にそのまま全て放置して一人暴走してしまった事について、どうやら彼女としては責任を感じてしまっているらしい。
瑞樹は携帯電話を所持しているからタクシーでも何でも使えるので大丈夫だろうが、志野は車のキャビネットに入れっぱなしにしており何処とも連絡が取れ無かったので、やむを得ず近場の家の方に帰って来たそうだ。
とりあえず、話の途中に出て来た車に走って追い付いた。男達を叩きのめして新たなオブジェの如く公園の噴水に括り付けた等の事柄は、久則としては触れるのが怖かったのでさらりと流す事にした。
「……と、言う訳でさ。だから、ごめん!」
あらかた事情を説明し終わった志野が、最後にもう一度頭を下げる。
志野のこう言う真っ直ぐな所に魅力を感じている久則としては、その様子に少なからず頬が緩み、彼女に対して言いようの無い愛しさを感じていた。
故に、久則は彼女の下げられた頭に手をかざし、
「よっ」
叩き落とす。
「あいたっ!」
結構な力が込められていたのか、志野が頭をさすりながら上目遣いで久則に目をやった。
同時に、彼女を久則の香りが包む。
「さっきので、車やらの事は全部チャラな」
痛みを感じる程では無いが、かなり固く抱きしめられている志野の方が、今度は訳が分からずに目を白黒させている。
「えっ? えっ?」
普段は低めの声が動揺でかなり高めになりながらおろおろと首だけを動かしている志野の肩で、久則が一際深く息を吐き、空気に染み渡る程の感情を込めて呟く。
「無事で、よかった」
その一言で、志野は久則が自分の一分を立ててくれたのだと理解した。
気遣いの言葉で有耶無耶にするのではなく、しっかりと謝罪に対するけじめをつけてから彼は気持ちを伝えたのだ。
自分の最も好む方法で気遣ってくれた彼の行為が嬉しく、志野の頬にほのかな朱が差し込む。
当然、彼女はこういう雰囲気が得意ではないので、憎まれ口などを叩いてしまうが。
「ぅ……ど、どうせならそう言う台詞は、先に言うもんじゃないの」
久則はまるでそう言うのが分かっていたかのように、柔らかな笑みを浮かべながら志野の首筋に唇を近付け囁いた。
「悪い。俺、好きなものは後に取っとくタイプだからさ」
僅かな抵抗も空しく、こうもあっさり切り返されては、志野としてはもはや打つ手無しである。
諦めて素直に、彼女は久則に身を任す。
そのまま、何を合図にした訳でも無く二人の視線が重なり、互いの唇が吸い寄せられるように近づいていく。
盛大な音が響いたのは、その時だ。
「……」
「……」
ぴたりと二人の動きが止まり、唇が近づく際に閉じられていた目がゆっくりと開かれる。
彼等の視線は、音源たる箇所に向けられていた。
即ち、志野のお腹に。
「お腹、空いたの?」
「気が抜けたら、ちょっと」
平坦な音の問答を交わし、それから、どちらとも無く吹き出した。
「ふ、はは、志野らしいな」
「ふふ、なに? 私らしいって。まあいいか、ちょうど良いからあっちに戻ろ」
久則から離れドアへと向かった志野が、そういえばと何かに気付いた表情で立ち止まる。
「そうそう、今日いいものが手に入ったんだ」
言って、志野は掛けていたバッグから結構な大きさのビニール袋をご大層に擬音付きで取り出した。
本来透明な筈のビニールを真っ赤に色付けているそれは、
「じゃーん。モツー。しかも血抜き前だよ。やっぱ宴会にはモツ鍋だよねー」
志野が高々と掲げる内臓一式に、久則は何とも言えない表情である。
「あ〜……」
「ん? 何だよノリ悪いなあ」
てっきり乗って来てくれるものと思っていただけに、志野の声は不満げだ。
まあ、食用とは言え取ったばかりの生々しさを全面に押し出している内臓を喜々として見せられても、テンションを上げる所か普通はどう反応していいのかも悩む所だろうが。
「いや、んな生々しいもん見せられて俺にどうしろと?」
どうやら久則もそうだったらしい。
微妙な表情を続けながら反応に困っている久則を見て、志野が僅かに考え込む。
「……跪いて脚をお舐め?」
「いや何の儀式だよそれ」
即座に否定した久則を見て、またも志野が黙った。
「とりっくおあとりーと?」
「ホラー風味なのは認めるが、内臓掲げた人間の周りでトリックオアトリートって連呼してる風景はシュールどころか何かの呪いを呼びかねん」
やや首を傾げて提案された意見もばっさり却下される。
一度短く唸ると、名案でも浮かんだのか、志野が急にはっとした表情で顔を上げた。
響いたのは、異音。
「「!?」」
志野が何かを言い出そうと大仰な身振りをした瞬間、ぼきり、と硬質な物が折れるような音が二人の耳に飛び込んだのだ。
同時に、腕に何かが当たった衝撃と音に驚いた志野の腕から袋が落ちる。
驚いた二人の前にころころと音の原因が転がって、見事、落ちて来た袋とぶつかった。
盛大に粘着質な音を響かせながら、ぎちぎちに詰められていた内臓が床にばら撒かれる。
「あ、ありゃりゃ〜」
見事な負の連鎖に、志野が間抜けな声を上げて呆然と床に一瞬で広がった惨劇を眺めていた。
それに引き換え、久則の方は、まるで何かに大失敗でもしたような雰囲気を出しながら額に手を当て、首を横に振っている。
志野の視線は赤く染まった床全体に向けられているものだったが、久則のはある一点、そう、音の原因にのみ向けられているものだった。
彼の視線の先にあったのは、人の腕。
「っちゃあ。なあ志野、接着剤、とか持ってないよな。やっぱり」
こう言う場合、床にぶち撒けられた物の方を気にしそうなものだが、何故か久則の意識は腕にばかり向けられていた。
いや、そもそも何故、こんな所に唐突に人の腕が現れたのだろうか。
「え? 接着って、あーそれ」
ようやく志野も久則の見ていた物に気が付いたらしい。
ふっと、二人が志野の背後に当たる方向に目をやる。
二人の視線の先には、あるものがあった。
奇抜な格好、現実ではまずお目にかかれない髪の色、顔のわりに大き過ぎる目で笑みを浮かべているそれは、
等身大の、少女人形。
実はこの部屋、慎一の趣味の部屋で、際どい格好をした二次元少女のポスターやらふりふりの衣装を着た筋骨隆々の八頭身中年男性のゲームやら多種多様な人形やらが溢れていたりする。
「あの派手な音ってこれだったんだ」
今や血みどろで転がっている腕に視線を戻した志野が納得気に頷くも、直ぐにそれは何かに詰まったような顔になった。
「でもさ、何で接着剤? これってそんな高価なモンなの?」
「いや、なんつーか、まあ、あいつにとっては大事なモンだってのは確かだな」
何処かしら含みを持たせた久則の言葉に、志野は怪訝そうに眉を上げる。
「あいつな、毎食後これに祈り捧げてんだよ……」
「は?」
さて、久則からでた言葉は、見事に志野の思考をぶち壊した。
流石にそこまで深い趣味だとは思って無かったのだろう。彼女の額には嫌な汗が浮かんでいる。
「しかも、仕事の時にはこれのミニチュア持ってってやってる」
「あ〜……マジ?」
まるで聞いてはいけないものを聞いてしまったかのような顔をしながら、それでも信じられないとばかりに聞き返す志野。
「マジ」
その顔を見ずに、だが至って真剣な声で久則は肯定し、先を続ける。
「前に、まだ互いが結婚してない頃な、これをちょっと汚した事があったんだ」
途中まで言って、久則はふいと視線を人形から逸らし、何も無い床を見て呟いた。
まるで思い出したくない事を無理矢理思い出すかのように。
「一ヶ月、部屋の隅で三角座りして咽び泣いてた」
「さ、流石に、嘘だよね?」
今までの志野の慎一へ対するイメージが未だかつて無い勢いで崩壊し爆散ひ消滅する。
少々アレな趣味をしつつも、爽やかな印象を持っていた慎一がまさかそんな末期の人間だったとは、思いもよらなかったのだろう。
若干裏声混じりで尋ねる志野に、ただ久則は静かに首を横に振り止めを刺すのみ。
「仕事の上司がな、様子見に来て特別休暇をくれた程だ」
さようなら爽やかな慎一、こんにちは未知なる世界の住人な慎一。
志野の脳内で今、確実に慎一の印象はがらりと変わった事だろう。
そこで、志野ははっとする。
浮かんだのは、瑞樹の事だった。
自分でもかなりの衝撃を受けたこの残酷な現実を、果たして純粋な彼女が受け止められるのか、と急激に心配になったのだ。
「久則、瑞樹はこの事、知ってるの?」
不安の混じった志野の質問に、久則は、どこか遠くの方を見ていた。
決して目を合わせずに、彼は言う。
「何か、子供を見守る母親のような目であいつのお祈り見て微笑んでた」 さようなら純粋な瑞樹、こんにちは母性無限大な瑞樹。
どうやら、自分と親交の厚かった夫婦はかなり変わった人間達だったようだと、志野は認識を改めた。
かく言う志野も、実は常人では計れない事を多々起こしているのだが、どうやら本人にその自覚は無いようである。
「ま、それは置いといて。んな事より腕が折れたなんて知ったら、あいつ今後の人生を喪に服しかねない。つー訳で、あいつにばれないようにちょっと接着剤買って来る」
言い終わる前に、既に久則は窓を開けて縁に足を掛けていた。
「軍曹! 後は頼んだ!」
振り返り様そう残して、久則は静かに、だが素早く外に出る。
「おっけー、早めに頼むよ三等兵ー」
「俺の方が下かよ!?」
久則の出て行った窓から軽く顔だけを出して見送ると、遠くからショックを受けたような彼の声が志野の耳に届いた。
その様子に軽く笑みを浮かべながら、志野は散らばった内臓をどうにかしようと振り返り、
「あっ」
滑った。
瞬間、志野の脳裏に今ここで転べば何事かと慎一がやって来るのではと言う不安が浮かぶ。
彼女の体が傾き、重力に従い床への落下が進む中、志野の脊髄は冷静に状況回避を計る。
時間では一秒にも満たない僅かな間、だが、彼女の四肢は持ち主の不安を拭うべく、状況とバランスを本能的に汲み取り、脊髄から出された指令を見事に生かした。
「ふっ!」
短い掛け声と共に、志野の四肢が体に先行して床に落とされる。
蜘蛛のような体制に持ち込んだ事で、見事に志野は僅かな音で転倒を防ぐのに成功した。
鼻先数センチに血臭を感じながら、彼女はほっと一息ついて、
「うぇ!?」
滑った。
皮肉な事に、志野の手と床の間に内臓が挟まれていたらしい。
持ち直した事で気を抜いた途端、それに不意打ちされる形で彼女は顔面から床にダイブした。
元々が低位置からの転倒だったため、音はそれほどたってはいないが、彼女の顔の下半分は生臭い血を貼り付けてしまう。
「うっ、ぺっぺっ。なんだよも〜、こいつめ」
血まみれの床に座り込みながら、志野は原因のぶよぶよした肉片を文句を付けながら睨む。
部屋のドアが開け放たれたのはその時だ。
静寂が、場を支配した。
(わぁ〜、気まずい)
思いもよらない場面での鉢合わせから、志野は何も言い出せない。
慎一もそれは同じなのか、何も言わずに視線を彷徨わせていた。
不意に、二人の目が合う。
少しでも場を和ませようと、志野は出来るだけ爽やかな笑みを浮かべた。
そう、出来るだけ。
「し、の、さん」
切れ切れだが、慎一が声を出した事で静寂が破られ、志野は少し安堵するも、その声のあまりの固さにやはりと体を強張らせた。
奥で話していた筈の二人の片割れがおらず、しかも部屋は盛大に汚されていると来れば、誰でも唯では済まさないだろう。
「ーーーーっ」
志野の笑みを見て少しして、慎一は息を呑んだようだ。
咄嗟に視線を逸らした彼を見て、志野は怒鳴るのを必死に抑えたようなその動作に、内心冷や汗をかく。
「ひっ!?」
ちょうど、志野が自分の行動を省みていた時、慎一から短い悲鳴が上がった。
彼の視線の先にあるのは、人形の腕。
(うっわ、最悪!!)
腕に気付いた慎一に、志野は頭を抱えたかったが、とりあえず今動けば緊張が解かれ雪崩の勢いで事態が悪い方に流れそうだったので、表情は未だ笑みを浮かべたままである。
「ひあ、あ、あ、あ」
徐々に顔色が青から白へと変わっていく慎一の様子に、志野は久則の言ったことが事実なのだと体感した。
本当に人形に対してそれほどの思い入れがあるのか、志野としてはいまいち信じ切れていない節があったのだが、今この瞬間慎一の本性が志野の中で事実として確定する。
目の前の彼は、間違いなく行き過ぎた趣味の持ち主であると。
「あ、あ、ああああああああああ!!」
恐怖か、絶望か、それとも、確たる理由などありはしないのか。
ただ、吠える。
突然の咆哮に、志野がびくりと肩を震わせた。
(マジ!? そこまでショックなの!? いや、喪に服すとか久則言ってたし、あ〜、うん、とりあえず落ち着くまで待ってみよ)
本人てしては至極真面目なのだろうが、そんな彼に注がれる視線は非常に生温い。
「ああああああアアアアアアアア!!!!!!」
どうにもやみそうも無い悲鳴に志野がうんざりしていると、その後間も無く、ぴたりと悲鳴が止んだ。
体制もそのままに声だけを無くした慎一は、なぜか全く動く様子が見られない。
「? 慎一?」
不審に思った志野が顔を覗いて確認すると、
「あ、気絶してる。うわあ、体制を維持したままって、無駄に凄い」
慎一は白目を剥いてその場で硬直していた。どうやら相当にショックだったようである。
志野が半ば呆れながらそれを確認していると、窓の方からなにやらがさがさと誰かの近付いてくる気配を感じ、おもむろに振り返った。
「たーだいまー」
「だいまでーす」
窓からにゅるりと入って来たのは久則、と瑞樹。
「あれ、瑞樹も一緒だったんだ」
思わぬ同伴者に志野が意外そうな顔をすると、久則が事情を話し出す。
「いや、途中ばったり会ってさ、で、訳話して手伝って貰う事に――って慎一!?」
「慎!?」
話終盤で、帰宅した二人は志野の後ろで石像と化してしまった慎一の姿が目に入り唖然とする。
二人のあまりの驚きように、先に見て耐性の付いていた志野が今度は二人に説明した。
「あー成る程」
「うう、慎、可哀相に」
呼び掛けても揺すってもピクリともしない慎一の様子に、久則は呆れ、瑞樹は憐れむと言うそれぞれの反応を示し、それから志野に向き直る。
二人が言わんとしている事が何となく分かった志野は、二人が口を開く前に自らの口を開いた。
「そんじゃ、慎一が目ぇ覚ます前に直すとしますか!」
「「おー!!」」
三人分の決意を示す拳が、天高く掲げられる。
皆が一丸となった所で、志野があっと軽く声を上げた。
「その前に、モツ鍋食べない?」
「お、いいねー」
「さんせーでーす」
いとも容易く賛同し、ばら撒かれていた内臓を集め始める三人。
「わー、やっぱり新鮮ですねー」
「でしょ、流石瑞樹、分かってるう」
「俺ダシ作ってくるから、そっち任した」
なんともゆるい決意であった。
感想などありましたら、遠慮無く書き込んで下さいね。