恐怖の真
もしも、もしも願いが叶うなら、君なら何を望むだろう。
どんな願いも叶えよう、どんな救いも与えよう。
対価は一つ、たったの、一つ――
とある平凡な夜。
慎一は久則と自宅で酒を酌み交わしていた。
二人は世間一般に言う幼馴染みと言う間柄で、お互いが結婚した今でも疎遠になる事も無く、それどころか互いの伴侶も同伴しての四人と言う形で良い関係を続けている。
今日は女性陣は二人で買い物に出掛け、後から合流するとの事だったので、残った二人は先に宴会を始めていた。
「なあ、久則」
「ん?」
ほろ酔い加減で、幾分か調子の良い声になっている慎一が久則に話し掛ける。
「お前、喜成神社って知ってるだろ?」
慎一が持ち出した神社は、二人が住む街では中々に知られている縁結びの神社だった。
「知ってるも何も、この間志野と行って来たばっかだっつーの」
何をつまらない事を、とばかりに久則が言い返す。
馬鹿にするかのような雰囲気がありありと伝わってくる口調のそれを聞いて、慎一は気分を悪くする所か、何故か、にやりと笑った。
「そっかー、お参りしちゃったのかー。へぇ〜」
嫌に何かを臭わせる慎一の言い様に、久則はまるで変なものでも見るかのような目つきである。
「んだよ、気味わりーな」
慎一がこういう態度の時は、大抵がろくでもない事を言い出す前触れであった。
「あの神社、昔は別の名前で、効能も違ってたっての、お前知ってた?」
「……何ソレ?」
得意気に言う慎一に、それがどうしたと言わんばかりに素っ気なく言い返す久則。
そんな久則の対応をどう思ったのか、慎一はさも可哀相なものを見るような表情で続けた。
「この間仕事で郷土史の内容まとめてる時に見つけたんだけどさ、昔は縁結びじゃなくて、厄除けだったんだと」
「へー、それで?」
「でさ、問題はその方法だよ」
未だ興味なさそうな返事をした久則だったが、慎一の言葉に、多少なりともに気が向いて来たようだ。
厄除けにそこまで変わったものがあるのか、と。
「方法?」
やや不思議そうにそう聞き返した久則を前にして、慎一はせっかく興味を引けたにも関わらず突然話を中断した。
「久則、ところでお前、何祈った?」
「なんだよいきなり、今関係無いだろ」
慎一の意図が読めず怪訝な口調で久則が返すも、慎一の方は言わなければ続きを話す気が無いようで何度も尋ねてくる。
久則としては話の先が気になり始めて来ていたので、頑なに隠す事はせずにわりとあっさり折れ、祈願した内容を教えた。
「縁結びなんだから、ずっと一緒にいられますようにって二人で祈ったけど? それよか続き、早く教えろよ」
久則の答えを聞いて、思った通りだと言いたげににやりと笑った慎一は、まるで内緒話でもするかのように手を口に添え、続きを口にし始める。
まるで口にしてはならない事を話しているかのように見える慎一の様子に、久則は若干眉を歪めた。
「厄除けっつっても、お祈りとか祭りとかじゃなくてよ」
ここで、今まで軽かった慎一の口調が、僅かに固さを帯びる。
彼の次の一言で、久則は体か、思考か、それとも両方にか、冷えたものを感じた気がした。
「生贄、らしいぜ」
嫌なもので、知らなかった事とは言え生贄の一言を聞いた途端に、久則の心は何か悍ましいものに祈ってしまったかのような不快感を覚える。
「……いけ、にえ?」
「ああ、それもただ殺すんじゃねえ。まるで食い物みたいに臓物と、皮と、肉とに分けて、他の食い物と一緒に供えたんだってよ」
何だそれは、と久則は急に頬を流れた汗を拭う。
まるで人間を食べ物のように扱うと言う事は、その祭られているモノは、命を懸ける程の信仰心を欲している訳では無い。自己犠牲の心を試したい訳でも無い。ただ、人を、喰らいたいのだ。
「は、はっ、何だよそれ。くだんねー。大体、そんな物騒な神社が喜成なんていかにも御利益ありますーな名前付ける訳ねーじゃん」
どうしてこんな取り留めも無い話にムキになっているのかは久則自身よく分からないが、恐らくそんな悍ましいものに愛する者との幸せを願った事が、どうにも気持ち悪く思ったのだろう。
「だから、名前も今と違ったんだって」
諭すように言う慎一を半眼で見、久則が不満を込めて言葉を返す。
「じゃあ、昔はなんて名前だったんだよ?」
待ってましたとばかりに、慎一は人差し指を立て、得意顔になった。
「それがよ、結構良く出来た名前……だな〜と、思ったんだけど」
さて、一体どうしたと言うのか。
慎一は言葉を続けるに連れ、何故か久則から視線を外し、言葉尻を濁し、汗を垂らしながらどうにも切れを悪くしている。
その様子を見て、久則はなんとも呆れたような声を慎一に掛けた。
「お前、まさかここまで来て忘れたとか?」
どうやら図星らしく、慎一はびくりと肩を震わせ、いかにもな反応を見せる。
「え、い、いや、え〜っと、あれぇ? もうここまで、ここまで来てるんだけどな……」
今までの不快感も、雰囲気も、その何もかもをぶち壊した何とも間抜けな落ちに、久則はこんな酔いの席の馬鹿話を僅かでも信じた自分もどうしようもなく間抜けに思えた。
こうなると、今までの話でさえ本当だったのか怪しいものである。実は久則を気味悪がらせるネタだけを思い付き、一番重要な部分を蔑ろにしていただけかもしれない。
悶々と悩む目の前の酔っ払いを溜め息混じりに久則が眺めていると、不意に来客を告げるフォンが邸内に響く。
元々鍵は開けたままで、相手もそれを知っているのか、鳴ってから直ぐに玄関を開く音がして慎一達の元へと近付いてくる気配が感じられた。
「ごめん、遅くなっちゃった?」
ドアを開けた主の第一声は、申し訳なさそうな音を持つ言葉。
僅かに疲れたような雰囲気を出しつつ現れたのは、久則の伴侶である志野だった。
「ん、いや。おら慎一、志野も来たんだし、その馬鹿話はお開きな」
久則が未だ向かいで唸る慎一を小突くと、今更ながら志野に気付いたような表情をした慎一が軽く会釈しながら返事を返す。
「あ、ああ、志野さん。いらっしゃい。瑞樹は?」
「あの子なら少し遅れると思うよ。それよりさ久則」
疲れた表情の合間から謝罪か、後悔とも取れる奇妙な感情を見せる志野に久則が怪訝な顔をする。
「ん? どした?」
「実はさ……慎一、奥の部屋借りて良い?」
言って、志野は気まずそうにちらりと慎一を見た。
いつも強気な彼女のらしくない困ったような顔を見て断れるほど、慎一は無情では無い。
「遠慮しなくていーよ。そのうち瑞樹も来るだろうから俺の事は気にすんな」
二人は慎一に軽い礼を残し、奥の部屋へと入って行った。
一人残された慎一は、先程の話の事などもうどうでも良いとばかりに未だ来ぬ伴侶にぼんやりと思考を傾けながらちびちびと酒を飲む。
慎一の携帯電話が鳴ったのは、そんな時。
相手を示す画面には、瑞樹の文字が浮かんでいる。
志野と一緒に出掛けていた、つまり、直ぐ近くにいる筈の彼女がどうしてわざわざ電話をしてくるのかと眉をひそめながら慎一は通話ボタンを押した。
「どした?」
『もしもし慎!? えっと、その、急にぶつかって来て!!』
電話にでた瞬間、慎一の耳に飛び込んで来たのは我を忘れたような悲鳴だった。
「お、おい何だよ瑞樹、落ち着けって」
らしくない相手の様子に、慎一が落ち着いて何があったか話すよう促すが、どうにも電話の向こうの相手にはそれを受け入れる程の余裕は無いらしい。
分割された内容が早口で慎一の耳に次々に飛び込んで来る。
『わ、私がいけないの! 志野さんが! 車!! 突然ぶつかって来て!!』
瑞樹の声が流れて来る間、慎一は訳が分からなかった。
一人現れた志野、一緒に居た筈の瑞樹からの電話、そしてこの取り乱し様。
「ちょ、待て! 落ち着けよ瑞樹。志野さんならもうこっちに来てるからさ」
刹那、時が止まった。
『……うそ、でしょ?』
「いや、さっき来て、今は奥で久則と話してるけど……」
電話の向こうの瑞樹が緩慢と呟くのに、慎一はあまりの様子の変化に戸惑いながらも返事する。
対する慎一も、困惑は隠せない。これまでの瑞樹の様子は、まるで、
「瑞樹、何があったんだ?」
一瞬、脳裏に浮かんだ事柄を否定するかのように慎一は彼女を質した。
『だ、だって、突然車がぶつかって来て、志野さんがその車に――』
ぶつり、といきなり電話が切れる。
「おい、瑞樹? おいって!?」
いきなり切れた電話に、慎一が苛立たしげに舌打ちして今度は彼から瑞樹に掛け直した。
しかし何度掛け直してみても、電話の向こうから流れて来るのは不通を示す無機質な人口音のみ。
「……何だってんだよ、ほんとに」
立て続けに起こる不自然な出来事に先程の電話が決め手となり、慎一は嫌な予感が思考に滲み出て来るのを意識せずにはいられない。
電話が切れる直前に瑞樹の言った言葉が、彼の頭にこびり付いてじくじく腐食し広がっていく。
腐った箇所にはただ、不安だけが膿のように溜まっていた。
常識を用いても、理性を呼び出しても、普通では有り得ないと笑い飛ばすようなバカゲタコトだと分かっていても、不思議と否定する事叶わない、抗いようの無い感情。彼は、ドア一枚隔てた向こう側に非常識な妄想を浮かべ、それに恐れていた。
「志野さんが、車にって、じゃあ今居るのは……は、はは、くはは、馬鹿らしい! 何考えてんだ俺」
虚勢の叫びで自分を誤魔化し、慎一は手持ちの煙草に火を付ける。今はこの安っぽい紫煙だけが、僅かとは言え彼に平静を与えてくれる唯一の救い。
吸えるだけ吸い込んで、いざ吐き出そうと彼の体が構える。
響いたのは、異音。
「!?」
煙を吐き出す瞬間、ぼきり、と何かが折れるような音が慎一の耳に飛び込んだ。
煙を吐く事も、瞬きする事すらも忘れ、ゆっくりと、彼の目は奥の部屋に向けられる。
何の変哲も無いただの見知ったドアの筈が、彼にはまるで見知らぬ世界の入り口のような異質な存在感を放っているように見えた。故にだろうか、彼の意識と視線は目の前のドアに釘付けられ、彼自身の意思では僅かにずらす事さえ叶わない。
「っっ!! げほっ! げほっ!!」
どれだけそうしていただろうか。
いい加減溜まった煙に噎せ、涙を滲ませながら咳き込んだおかげで視線だけは外せた慎一だったが、それでもまだ彼の意識は奥の部屋に張り付いて離れなかった。
(なんだよ!? 一体何だってんだよ!?)
音の原因などと言う、些細な問題ではない。
何が起こっているのかでは無く、今のこの現実そのものに彼の内なる叫びひ向けられている。
繰り返される不安と驚きの輪廻。
何かが終われば新たな何かが彼の僅かに取り戻される平静を削り、貪り、恐怖を代わりに置いていく。
もはや残った理性の一欠片では彼の混乱を抑えるには及ばず、異なる感情こそが今彼を動かす全て。
ふと彼の思考に恐怖を肥料に芽を出した欲求が囁きかけた。
曰く、あのドアの向こうには何がある、だ。
原始の頃から人間の文化を先へと繋げ続けた本能とも言うべき感情。
それは、好奇心。
恐怖を、不安を覚えながらも、それはあくまで、彼の妄想。想像の中のものだ。
彼自身は未だ、恐怖するに足る光景を目の当たりにしていない。
何に不安を覚えていたのかも定かでは無い今の彼に、逃げるという選択肢は浮かばないのだろう。
心臓が踊る、汗が滲む、体が震える程の恐れを感じる。では、何に。
たった一度の思い付きが、病魔のように広がっていく。
いや、それはまさしく病魔そのもの。
恐怖という本能を駆逐し、より危険へと進ませるこの狂った感覚こそ、病と呼ぶに相応しい。
彼は見たい、彼は知りたい。光景を焼き付け、音を吸い込み、臭いを噛み締め、空気を味わいたい。
向こうで起こっている何かを。
「…………」
慎一の心は平静を取り戻した訳では無い。ただ、一度出た好奇心が恐怖との相乗効果で脳を支配しているだけだ。
怖いもの見たさ、とでも言うのだろうか。
煙草を灰皿に押し付けた彼はゆっくりと、緩慢とした動きで、だが確実に、足を進める。ドアへ、このおかしなパニックの始まりへ、と。
「っ」
かたかたと機器的に震える手とは別に、彼の喉は生々しい音を立てて生唾を飲み込んだ。
「ふっ!」
短い掛け声と共に、慎一は勢い良くドアを開け放つ。
見た、筈だった。
ドアの向こうに佇んでいた光景は、確かに彼の視界に映り、音も、臭いも、空気も、全て彼は感じている。
そう、感じているのだ。なのに、そのどれもが彼には理解出来ていない。
理解出来なければ、それは無いと同等の意味を持つ。
彼は、子の場にある何一つさえ、分からなかった。
だが、それも仕方無いのかも知れない。
誰であっても、自身の範疇に収まる事柄しか、瞬時に理解など出来はしないのだから。
ましてや。
臓物の海に座り込む女の居る状況など、誰が考え付くと言うのだろう。
彼女が手に持って顔に近付けているのは、ずるずると長いばかりの本来の役目を放棄した腸の一部。
床には他にも、元は生き物の命を支えていたであろう大小様々な生命の残滓が転がっている。
あるものは固体そのままに、またあるものは憐れな肉片となって。
それらが皆一様に吐き出す、鮮やかでも、美しくも無い、ただ只管に生々しいだけの鈍色の紅は周囲を侵し、中心で佇む彼女の口元を禁忌的な艶を持っててらてらと光らせていた。
一瞬か、一秒か、それとも一分か。
自失は続き、流れる時も未だ彼の目に意思の輝きを取り戻すには至らない。
理解の及ばない頭で、彼は何処でも無く視線を彷徨わせていた。
不意に、二人の目が合う。
にやりと笑みを浮かべた女の姿を目に映すと、何か、彼の脳裏に囁きかけるものがあった。
目の前の女は、そう、よく見知った人物であると。
「し、の、さん」
白紙だった意識が、徐々に覚醒を始めた。
有り得ない光景に位置する唯一の自己の範疇にある事柄を媒介にして、ようやく理解すると言う作業に脳が取り掛かる。
皮肉なもので、きっかけさえあれば後は解りたくないと思っても、現実と言う名の元に驚くべき速さで目の前の事象が処理されていく。
ばら撒かれた内臓、今尚床を広がり続ける血、目の前で笑う、志野。
「ーーーーっ」
あまりに現実離れしたその様子に、慎一は息を呑む。
思わず咄嗟に逸らしてしまった視線の先、そこには、
「ひっ!?」
血の気の無い、人の腕の形をした、モノ。
所有者を失い、血に塗れた唯のモノへと成り下がったそれこそが、この惨劇の犠牲となったのが紛れも無い人間である事を証明する。
「ひあ、あ、あ、あ」
ようやく、慎一は理解した。
理解してしまった。
久則は、自分の伴侶に、喰われたのだと。
ずっと一緒にいるために。
同時に、慎一の不安の原因も明らかになった。
喜成神社。
久則を驚かす、彼にとっては、ただそれだけのつもりだった。
聞き齧った知識で、意味ありげな態度で、少しからかっただけの、些細な悪戯。
それこそが、逆に自分の根底に恐怖と不安を生み出す原因となったのだと、そんな事まで彼の脳ははじき出す。
踊らされたのは、彼自身。
彼の脳は無慈悲に事実を理解させる。
次に問題を訴えたのは、彼の感情だった。
脳が受け止めた事実を、どう処理するか。
人は事実だけでは生きてはいない。寧ろ、理解した事柄をどう受け止めるかの方が重要とも言える。
起こった事は理解した。しかし、目の前に広がる光景に、満たされた好奇心の代わりに沸き上がる恐怖も手伝って、彼の思考はまとまらず、逆に乱れ崩れていく。
何故こんな事を、自分はどうすれば、この残骸は本当に久則だろうか、人が人を食べるなどと言う馬鹿げた事が本当に有り得るのだろうか、と。
感情が現実を否定する。
現実逃避。
信じたくない。信じられない。分からない。何が起こったのか、怖い、どうなっているのか、ありえない、ここはどこだあれはなんだきょうはいつだキミハボクハアレハヒトハ――
(アレハ、ドンナアジナンダロウ)
刹那、慎一は浮かんで来た言葉に愕然とした。
今、自分は何を考えた、何を求めてしまったのか、と。
事実を信じたくないから、思考が混乱すると言うのはよくある話だ。
例えば、死ぬ間際に今日の夕食は何か、のようなてんで的外れな事を考えるというのも、有り得ない事では無い。
ましてこの状況では、彼にどんな事が浮かんだとしても、誰も責められはしないだろう。
だが、それでも。
そうだとしても、友の味を求めてしまった彼は、頭の片隅で何かが壊れた気がした。
残酷な現実、混乱した思考、衰弱した精神。今の彼はあまりに脆く、それ故に簡単に綻びが生まれてしまう。
綻びは亀裂となり、不安定になっていた彼の心そのものを、壊す。
「あ、あ、ああああああああああ!!」
恐怖か、絶望か、それとも、確たる理由などありはしないのか。
ただ、吠える。
自身の崩壊が漏れ出したような壊れた音の群れは、静寂な夜に一際その存在を主張していた。
結局、慎一は最後まで思い出す事は出来なかった。
大昔に人を供えた神社の、本当の名前を。
鬼成神社。
恋した男を想うあまり鬼へと堕ちてしまった、憐れな女を奉った神社。
恋した男の面影を人肉の味からしか見出せ無い、悲しい鬼を奉った神社。
心で人が、鬼へと成り果てる事を警告した、戒めの神社。
ならば、
「ああああああアアアアアアアア!!!!!!」
今、闇夜を彩る叫びを発しているのは、果たして、ヒトだろうか。
もしも、もしも願いが叶うなら、君なら何を望むだろう?
どんな願いも叶えよう、どんな救いも与えよう。
共に生きたいのなら暴食を、現実を否定したいのなら崩壊を。
対価は一つ、たったの、一つ――
囁いているのは、アナタ自身。