第1幕
高木玲が塾講師になって1年の歳月が過ぎようとしていた。即ちそれは彼女が大学を卒業して1年の歳月が過ぎようとしているということにもなる。ここに至るまで様々な経緯があった。振り返れば中学時代の生徒会に部活に走ってきた時に始まる。高校受験は推薦入試で公立高校に進学し、大学受験もまた推薦入試で合格をその手にした。まさに“絵に描いたような優等生”だった彼女だがその先に挫折があった。
高校時代から憧れを抱いた教員の道、その道は彼女の想像を絶する程の難しさだった。それでも教育に携わる渇望は捨てきれなかった。その想いを汲んでくれたのが中高時代にお世話になった塾だった。国語と英語を中心に主要5教科全て難なく教えられる彼女の教養力は分かる人間にはとてつもなく魅力的な個性そのものだった。彼女の獲得の為に個人経営で営むその塾は好条件を彼女に提案した。
「君の好きなやり方で勉強を教えて欲しい」
シンプルな提案だった。しかし彼女にとってこれほど都合のいいものはなかった。彼女はその教育観念に独自のものをもっていたのだ。
彼女の類まれなる個性は塾の入職早々発揮された。
彼女は趣味でも特技でも歌や朗読を得意としており、勉強をする時間の合間をぬってはその特技を披露する場を設けたりした。勿論それだけではない。生徒の個性が発揮できるように生徒一人一人に喋らす場を設けたりもした。もはや教育のエンターテイナーと言ってもいい。持ち生徒の成績もうなぎ登りで結果が出た。
光南にある光明塾は新任講師の玲へ次第に特別待遇を提案するようになった。最初は遠慮していた彼女だったが、仕事も何もかも順調にいっていた彼女はいただける高評価に喜びを感じてやがて快く受け入れるようになった。
しかし彼女は知らず知らずのうちに自惚れていた。やがてそれは彼女の隙となっていった。それは入職して1年経とうかと言う時だった。いつものように国語の勉強をわかりやすく指導している時だ。彼女の頭に丸められた紙屑があたった。
「え? 誰ですかこれ投げたの?」
10人いる生徒たちを見渡す。一人の男子生徒がクスクス笑っている。
「渡邊君? やめなさいよ。ここは遊ぶところじゃないでしょ?」
「違います! オレじゃないですよ!」
「じゃあ、誰よ!? やった人、今すぐ名乗りなさいよ!!」
玲が怒るとクスクス笑う声が10人全員に広まった。
「いい加減にしろ!! 勉強する気がないなら全員帰れ!!」
玲は目の間の教卓を強く叩いて恫喝してみせた。これにはさすがに塾生全員が静まり返った。それからは全員静かに勉強してみせたが、それからも紙屑が玲を目がけて3度は投げ込まれ、その度にクスクスと笑う声があった。彼女は全く相手にはしなかった。当然ながら彼女独自で催すレクもその日は一切行わなかった。
事務室で講師が集まって何やら話し合いをしている。塾長の花本がその輪の中心にいる。これはただ事じゃないと思った玲は急いで話の輪の中に入った。話題となっているのは「最近の塾生の悪行」に関することだ。玲は居ても立っても居られずに自らが今日受けた被害を告発した。
「高木先生もやられましたか……」
「え? 私だけじゃないのです?」
「こないだ僕は靴に押しピンが仕込まれていましたよ」
「何それ!? 完全な嫌がらせじゃないですか!?」
「これは史上最悪な風潮の兆しなのかもしれませんな」
花本がそう言った途端に塾の電話が鳴った。電話には花本がでた。
「高木先生、渡邊隼人君のお母さんから電話です」
「え、私!?」
玲は花本から受話器を受け取って電話に出た。
「もしもし、替わりました。光明塾の高木です」
『ちょっとあなた!? ウチの子が紙屑を投げた犯人だって言い切ったの!?』
「え? そういう事はありましたが、隼人君が犯人だなんて言っていません!」
『うちの子がね、高木先生が疑ってきたって言っているのですよ!!』
「いや、だから……」
『いい加減にしなさいよ!! ウチがどれだけ高い月謝払ってお宅の塾に行っていると思っているの!? ヘンテコな歌を聞かせるとか言うし、このままウチの子の成績が落ちるようなことがあったら辞めさせていただきますからね!!』
「ちょっ……と」
渡邊隼人の母は一方的に怒鳴って電話を切ってきた。同僚の野島が玲の肩をポンッと軽く叩き「それも高木先生だけじゃないですよ」と一声かけた。
それからも講師たちは夜遅くまで話し合ったが何も結論という結論はなかった。
学生時代から愛用している原付バイクに乗って宝町にある自宅マンションに向かう。憂鬱な気持ちでいっぱいだが、それは自宅についても同じだった。
玲にはボーイフレンドのジェイクがいた。広大生時代に留学生の彼と知り合い、意気投合して交際に発展した。日本の、とりわけ広島に関心を抱いている二枚目のアメリカ人で、英会話教室の講師をしている。彼の誠実さをよく知っている彼女は両親よりもいの一番に彼へ電話をかけた。
「ハーイ、レイ、どうしたのだい?」
「ジェイク、凄く酷いことがあって……」
起きた出来事が出来事だけに玲の言葉にも力がこもった。
「そうか。単純だよ。そんなところ辞めてしまえばいい!」
「簡単に言わないでよ。どれだけ仕事探すのが大変だと思っているの」
「君ほどの先生はそういないよ。何なら割りきって次の教員採用試験目指せばいいじゃないか」
「それは……」
「まあ、どうしようと君の自由だけど、君にご加護があるように祈るよ。ハニー」
それから優しいジェイクの励ましを受けるだけ受けて玲は電話を切った。
それでも憂鬱は収まらない。明日の講義も不安になるばかりだ。
確かにジェイクの言うように自分が本来理想を根ざして目指す場所が今の職場ではないのかもしれない。それは真っ当な意見だ。しかし自分が育った地の学び場であり、この1年はその地でできる仕事そのものに対して充実感を感じていた……でも「ヘンテコな歌」とは一体何だろうか? 玲は常に歌のレクをする度に生徒からリクエストを訊ねて歌う歌を決めている。その為に流行歌を日々チェックする習慣もつけている。自分の歌いたい歌を歌っているわけじゃないのだ……なのに文句を言われるとはどういうことなのだろうか? 玲はぶつぶつ言い続けながらも枕に顔を沈めた。
翌日からも生徒達の様子は変わらなかった。玲は丸めた紙屑を投げられてクスクス笑われる程度に済んでいたが、他講師への嫌がらせは日に日にエスカレートしていった。特に野島に対する嫌がらせは悪辣極まりないものばかりだ。遂には怪我を負ってしてしまう事態も起きてしまった。
野島と言えば入職当初はイケメンで特に女子生徒からラブレターを貰ったりすることも度々ある男だった。立命館大学出身の彼はその経歴からも玲以上に注目の的だった。それが今では大いなる嫌がらせの的になっている。女子生徒からはわいせつ行為を働いたと虚偽のヒステリーを受け、それに過剰反応した男子生徒から激しい殴打を見舞われた。当然ながらその生徒は退学処分となったが、彼の親からは野島がその男子生徒に暴行を働いたという全くの逆の虚偽を盛り込んだクレームが塾に叩きつけられた。
やがて野島は辞職した。本人は教育に携わる仕事は今後一切しないと玲に言い残した。無理もない。塾生の態度は日に日に悪化し、成績の悪化も伴い、親からのクレームも増えていった。当然新規の塾生の登録もなければ新任講師の入職もありやしない。玲は次第に何とも言えない恐怖感に苛まれるようになった――