脱走
「被験体ナンバー1689、1765、1782、1794が脱走! 至急捕獲せよ!」
施設中に放送が流れる。このままでは捕まるのは時間の問題かもしれない。そして殺されるのだろう。脱走はそれくらい重いことなのだ。それでも、役に立たない能力を持ってしまった妹分を「処分」されたくないから。
(あいつらの勝手な都合で、あかりを殺させてたまるか)
「和也、あかりを抱えろ! 太助、暴れるなよ!」
爽斗は太助を担ぎ上げ、施設の裏口に走った。あかりを抱きかかえた和也は泣きそうな顔をしている。いくら大人びていると言っても、やっと中学生になったばかりの彼には、この状況はつらいのだろう。それでも、足を必死に動かす。
和也がついてきていることを確認すると、爽斗はポケットから手製のぬいぐるみを取り出し、ぎゅっと軽く握った。
(こーゆう時だけは、被験体にしてくれたこと感謝するぜ、クソ化学者ども)
「ベッキー!」
うさぎを模したそれは、名前を与えられてピクリと動いた。
「やあ、爽斗。逃げてるのかい?」
呑気に顔を上げたぬいぐるみ。
「ああ、そうだよ。ちょっと囮になってくれねえか。あかりが殺されちまう」
捕まればあかりだけではなく、爽斗たちも殺されてしまうのだけれど。
「了解」
一言返事をすると、ぬいぐるみのベッキーは後方へ飛んだ。
「爽斗、三本向こうの通路に化学者!」
突然、太助が叫んだ。スピードは緩めないで、指示を出す。
「和也、その辺にある物ぶつけてやれ。死なない程度に」
「わかった!」
和也が真横にあった実験器具入りの段ボールを睨みつけると、箱はふわりと浮き上がり、爽斗の頭を掠めて視界から飛び去った。
「命中した!」
太助の報告を聞きながら、通路を曲がる。足音はまだついてきていた。だが、もう少しで出口だ。
「おい!」
突然の声。予想外の出来事だった。
「なんで、ここに……」
白衣に揃いの赤いネクタイをつけた姿は、四人が見慣れすぎたものだ。
「なんでってそら、君らにちょっとイイこと教えたげよーと思って」
にやにやと笑う彼は確かゼキといったか。
「どけよ!」
無駄とは知りながらも、声を荒げずにはいられない。
「どかないよー。ま、逃がすオテツダイはするけどさ。その前にほら、これあげる」
これ、と人差し指に引っ掛けて差し出されたのは銀色に光る鍵。
「……なんすか、これ」
「俺の隠れ家の鍵。ふっつーの安アパートだけど、君ら四人くらいならヘーキ」
四人の目が見開かれる。
「な、んで……?」
太助の絞り出したような声ににやりと笑いを返したゼキ。
「いーこと教えたげるって言ったデショ。逃がすオテツダイはする、ともね」
鍵をクルクルと指でもてあそびながら、ゼキは説明しはじめる。
「俺ね、被験体ナンバー458なの。能力開発はまあ、成功の部類だったみたい。能力としては、外国語を一瞬で習得できることと、人を虜にできるってことかな。それで、スパイ活動をしてきた。で、何年か前、確か爽斗クンが入ってきたのと同じくらいの時期に、能力開発に携わることになったの。でも、あかりチャンみたいな『失敗作』が殺されるのとか、能力試す実験とか、俺たちの時と全然変わらないって知ったから逃げたくて……んにゃ、被験体たちを逃がしたくて仕方なかった。けど、逃げようって思うやつがここんとこいなかったから、おとなしくしてたの」
唖然としている彼らの目の前で、ゼキは白衣のポケットから財布を取り出し、カードを一枚抜いて爽斗の胸ポケットにねじ込んだ。
「それ、俺名義のキャッシュカード。あんまりムダ遣いしないでね、俺たちの給料そんなよくないから」
「え」
「そろそろここに追手が来ちゃうから、わかんないことトカあったらテレパシーで連絡して。みんなもってるデショ?」
ウィンクと共に言うと、彼は鍵を爽斗に手渡した。
「いつか、俺たちを助けに来てよ。……幼い君たちに、能力を埋め込むなんて罪深いことをしたくせに、って思うケド、お願い」
真剣な表情に、何も返せない。たっぷり数秒ゼキに向かっているところで、バタバタと足音が近づいてくるのが聞こえた。もうのんびりとはしていられない。
「さ、いってらっしゃい」
「……っいってきます! いつか、助けにきます! 和也、いくぞ!」
ひらひらと手を振るゼキに頷いて太助を抱え直し、走り出す。ぺこりと頭を下げて、あかりを抱きかかえた太助も走り出した。
「……待ってるよ」
手を止め、彼らの後ろ姿に呟いた声は、誰にも聞こえはしないだろう。ため息をついて、手を下ろす。
(本当、あいつにそっくりだね)
胸元にかかる小瓶のペンダントを指の腹でなぜる。中に入った数本の赤毛は、ゼキの友人のものだ。
(あの子たちには、生き延びてほしいな)
煙草に火をつけて、ゼキは親友に思いを馳せた。
ゼキは、トルコ人だった。現在の国籍は日本だが。かつて共に暮らしていた友達の多くは今も施設の内外で関係者として働いている。それは皆、ゼキのように、「施設」からは逃げられないと諦めた者たちだ。初めからそうだった者も多い。
しかし、そうではなかった者もいた。カルメーロだ。
(バカな奴だったな。でも、いい奴だった。……女好きなところを除けば)
カルメーロは、いつでも可愛い女の子の話ばかりする陽気なやつだった。聞けば、イタリア人の血が入っているとかで、妙に納得した覚えがある。
「ゼキ、今度来た可愛い子、知ってる?」
その日、能力錬成が終わったばかりの時間に、カルメーロは話しかけてきた。
「ああ。501だろ?」
「そそ。チチェクちゃんっていうんだって。彼女さ、能力試験昨日終わったんだけど、これが全然戦争に使えないんだって。いつもの『失敗作』。オレは名前にピッタリでいいと思ったんだけど」
チチェク、つまりトルコ語で花。ということは、
「花を咲かせる能力か?」
「正解。自分の触った場所にキレーな花を咲かせる能力なんだって。オレ、あの子のこと結構本気で好きなんだ。だから、脱走しようと思って」
ゼキは飲んでいた水を噴き出した。慌ててカルメーロが避ける。
「汚ねーな! 何だよ!」
「あ、ごめん。じゃなくて、何だって?」
「や、だから好きな子が処分されるってわかってて放っておくバカはいないだろ?」
「死ぬってわかってて脱走するバカが何を言ってるんだ!」
どうやら、ちゃらんぽらんな親友は本気らしい。
「オレの能力知ってんだろ?」
「そりゃ知ってるけど……」
知っているからこそ、止めたかった。
「心配しないでも、成功したらお前も脱出させるからさ」
そういうことじゃない、と言おうとした声は、昼食のチャイムに遮られた。
「一週間後に、やるつもりだから! ゼキを迎えに来れんのは、ある程度警戒が緩んでから……そうだな、二、三カ月後かな。それまで待ってろよ」
それだけ早口に言うと、カルメーロは食堂へと走り去った。
何度も説得しようと思った。でも、カルメーロとチチェクの楽しげな様子を見たら、夢を壊したくなくなってしまった。笑って、そうだね、と相槌を打つ方が、よっぽど楽だった。ぜったいに成功させる、と意気込んでいる親友を信じて、ぜったいに成功する、と思い込むことで、罪悪感を押し殺した。
成功する可能性の方が、はるかに少なかったのに。
(あの時俺がとめていたら、今でもあいつは生きてたのかな)
いまさらの後悔が、煙と共に白い蛍光灯に吸い込まれる。あの日も、今日と同じ放送が施設中に響き渡った。
「被験体ナンバー457、501が脱走! 至急捕獲せよ!」
ついにやらかした、という興奮と、もし二人が捕まったら、という恐怖が交錯して、心臓の音が凄まじくうるさかった。
「みつけたか?」
「いや、いない」
「457の能力はなんでしたっけ?」
「あれだよ、瞬間移動! しかも自分だけじゃなくて、ほかのものも一緒に移動できるやつ。あー、くっそ、あんな能力……」
「正直、成功が災いしたな」
「ああ、見つけたら即処分だ」
「もったいないですね」
処分という単語に、びくりと体が震える。
「仕方がないだろう。501のような『失敗作』を連れて逃げようなどとするからだ」
「あんなもののために、貴重な成功体を犠牲にするとは……」
「見せしめも、たまには必要だからな。それに、瞬間移動はもう、我々の手で自由に作り出せるだけのデータが揃った。一体くらい大した損害じゃないさ」
扉の外の会話は、自分たちを人間扱いしていなかった。それがたまらなく苦しかった。震えが止まらなくて、涙が止まらなかった。自分の体を抱きしめて、布団の中に頭を突っ込んだ。
(そう、そして……)
次の日、カルメーロは、首だけになって実験室にいた。
「ひっ……」
497のワッペンを付けた少女が小さく悲鳴を上げる。呆然として「それ」を眺めるゼキたちの目の前に、科学者が立った。その人がその施設のトップだと知ったのは成人してからだったが。
「えー、昨日、脱走者が出たことは皆知っていると思う。不幸なことに、一人は捕まらなかったが、もう一人はこの通り、見つかって処分された」
彼は少年たちをぐるりと見回した。
「君たちは将来の世界平和を担う、重要な被験体たちだ。君たちに芽生えた能力は、世界を平和にするために利用される。それを拒み、ここから逃げるということはすなわち、世界に対する反逆と同義だ」
彼の青い瞳がカルメーロの首をとらえる。カルメーロの茶色い瞳は濁ったまま見開かれていた。
「反逆者には、しかるべき報いを受けてもらわねばならない。そう、457のようにね」
科学者は少年たちに向かって、にっこりとほほ笑んだ。
「もちろん、君たちがこのような愚かしいことをすることはないと信じている。だから、この話はここで終わりにしよう。それでは、今日の実験を始める。……」
その日、ゼキの仲間たちは「施設」から逃げることを諦めた。友達の無残な死にざまは、科学者たちの言うところの「見せしめ」になったのだろう。
その後、カルメーロと仲の良かった者のうち、数人は彼の髪を少量ずつ渡された。無言のうちに、こうなりたくなければ逆らうな、という意味で。渡されたのはおそらく、彼のような行動をする危険勢力として見られていた被験体なのだろう。ゼキもその一人だった。その数人は皆、今でも生きている。
(あの時見捨てちゃった償いになんてならないだろうけど、俺はもう、無鉄砲な脱走をするやつを放っておきはしないよ。カルメーロみたいなやつをもう見たくないから。―あんなものを、見せたくないから)
「おい、ゼキ!」
科学者に呼ばれる声で、思い出が途切れる。
「なんですか?」
「脱走者、見なかったか?」
「見てないですネ」
「そうか……くっそ、あいつら」
ぶつぶつと文句を言いながら去っていく科学者の後ろ姿に舌を出して、ゼキは携帯電話を取り出した。
「もしもし?……うん、ついに出ちゃったヨ。鍵は渡したから、そっちに行ったら匿ってやって。……ん。頼むネ、チチェク」