思い出の挿話 ~逃げる二人~
時系列的には「思い出の挿話 ~寝る四人~」とは少し間が空いています。
何があったかなどは受験が終わり次第考えますので、まあ楽しみにしててください。
僕は走っていた。
ただただ全力で走っていた。
息は絶え絶えで、疲れで今にも動けなくなりそうだ。
走り回ったせいで、自分が何処にいるのかもわからない。
入念に調べた情報も、続けて起こった出来事のせいで役に立たなくなった。
だけど僕は恐怖から逃れるために、あるいは左手に感じる温もりを冷たい地獄から逃すために、ここで足を止める訳にはいかなかった。
振り向くと、姉が僕の手を頼りに付いてきているのが見える。
姉の名前通りの、夏の海のような蒼色の髪は、少し前まで整えられていたのが信じられないくらい乱れていた。
僕は傍らにいる姉の手をしっかりと握り直した。
いつまでも後ろを見ていられず、前に顔を戻す。
真っ白だった廊下の壁は、天井の光で赤く染まっている。
「うっ……」
それがついさっきの血の色を彷彿とさせ、恐怖と嘔吐感から足が竦む。足下が覚束なくなった僕は、ふと手を握り返す力が強なっていることに気がついた。
もう一度振り返ると、姉と目が合う。
姉は恐怖と心配と不安など、色々な感情がごちゃ混ぜで、顔をくしゃくしゃに歪めている。
だけど目を見ればわかる。
あらゆる負の感情に押し潰されそうになりながらも、せめて逸れた兄妹のために『力』を使うべきか。姉はそのことに、どうしようもなく迷っていた。
本来の姉の『力』を使えば、この状況を覆すことは容易なはずだ。
だけど感情が不安定な今、それを行動に移したとして果たして状況の好転に役立つとは保証できない。下手をすると、『力』が暴走して近くにいる僕だけでなく、使用者の姉自身を巻き込んでしまうかもしれない。
姉の『力』はこの計画の要であり、それ以前に僕たちは兄姉弟妹なのだ。
僕たちの身に何かあれば、もしかすると兄妹の死にも繋がるかもしれない。直接的でなくても、間接的に。
それでも、姉の『力』を使わないことには、兄妹の安否を確認することもできない。
だから。
だから、姉は迷っているのだ。
表が出ることに賭け、コインを投げるか。
あるいは賭けの条件が変わるのを待つか。
「…………大丈夫だよ」
走ったせいか涙のせいか、渇いた喉からはかすれた声しか絞り出ない。あまりに小さく、姉に聞こえたとは思えない。
一瞬動きを止めた足に鞭打ち、姉を迷いから引っ張り出すかのように腕に力を入れる。
「大丈夫だよっ」
今度ははっきりと、大きく口にした。
姉のはっとして僕の横顔を仰ぎ見る様子が、左手越しに伝わってきた。
「大丈夫だよ、アキもフユもっ。だから……」
自分に言い聞かせるように、僕は心の中で思った。
そうだ。
兄も義妹もきっと大丈夫だ。
それにこの危機的状況で、女の子に縋って何が男だ。
姉に頼み込むだけで、何が弟だ。
確かに、頭の出来じゃ兄姉には勝っているはずがない。
『力』を持っていない僕が、『力』を持つ姉を助けようなどと、分不相応なのかもしれない。
それでも、大事な人を護るために頑張らない理由にはならない。
僕が……を護る。
だから――
「だから無茶しなくていいよ、ナツ!」
曲がり角を曲がると、やっと出口が見えた。