結婚記念日
「結局こんな時間になっちゃったなぁ…」
9時を示す腕時計を覗き込み、白い息を吐き出す。
一流商社に勤める山本勇作は、ちょうど今日で結婚5年目である。
記念日くらい早く家に帰るつもりが、企画書の不備で遅くなってしまった。
予約より2時間も遅れてケーキを取りに行き、ようやく帰路に着いていた。
春奈との出会いは大学生の時であった。
中学生の時に事故で両親を亡くしていた春奈は、アルバイトで学費を稼いでいた。
喫茶店のカウンターでコーヒーを入れる彼女を見た時に、俺は最初で最後の一目惚れをしたのだ。
その後店に通いつめて、ようやくデートの約束を取り付けた。
初めてのデートの日、意気込んで前日に買ったジャケットの襟から出ていた値札を、彼女は笑いながら取ってくれた。
写真という共通の趣味を持っていた俺達は意気投合し、交際にまで発展した。
しかし、いつものようにデートをした翌日、彼女と連絡が取れなくなった。
バイト先を訪れたが、彼女は既に辞めた後だった。
そのまま2ヶ月が経ったある日、春奈から突然メールが届いた。
「今から初めて会った喫茶店で会えないかな。」
店に着くと、彼女は変わらぬ様子で本を読んでいた。
離れて暮らしていた姉が他界した、と彼女は説明した。
勇作は心配だったが、春奈の元気な様子を見て安心した。
そして大学を卒業した後も二人は交際を続け、春奈の妊娠で二人は結婚を決めた。
同棲を始めた時に越してきたアパートの玄関に、今ではスリッパが3組置いてある。
真ん中にある小さなスリッパを見ると、一日の疲れが抜けていくのを感じる。
リビングに入ると、テレビに見入っていた春奈がこちらを向いた。
「おかえりなさい。
今日も残業でしょ。
晩ご飯温めるね。」
「健はもう寝たのか。」
勇作がネクタイを緩めながら聞いた。
「"パパ待ってる〜"って駄々こねながらソファーで寝ちゃったよ。」
春奈が唐揚げを盛り付けながら笑った。
二人で夕食を済ませた後、勇作は深くソファーにもたれ掛かった。
すると洗い物を終えた春奈が、見慣れないアルバムを一冊持って来た。
「私と勇作の写真を、ずっと取っておいたの。
記念日だからじゃないけど、一緒に見ようよ。」
と言って俺の横に座り、わずかに埃を被った深緑の表紙をめくった。
そこには、二人で行った浜辺が、歩いて見に行った紅葉が、そして結婚式の披露宴が留めてあった。
楽しかった思い出を切り取って集めたアルバムの最後のページでは、生後間もない健の両手が、勇作と春奈の指をしっかりと掴んでいた。
その写真を見た勇作は、目を見開いた。
健が握る春奈の指にある黒子が、ページをめくる春奈の指には無い。
気が動転した勇作は春奈の手首を掴んで言った。
「こ、この写真に写ってる黒子、無くなってるよ。
どうかしたの。」
春奈は息を飲み、沈黙を続けた。
「どうしたんだよ春奈。」
勇作は声を荒げた。
口を結んでいた春奈が、突然笑い出した。
「案外分かるものなのね。
一生気付かれないかと思った。
それにしても可笑しいわ。」
勇作は呆気に取られ、ただ春奈を見ていた。
「まだ気付かないの。
私は春奈の姉の春香なの。
あの時死んだはずの春香なのよ。」
勇作は訳が分からない。
彼女は続けた。
「風邪を引いていた春奈は、私が止めるのにも耳を貸さず、あなたに会いに行った。
その夜に春奈は風邪を拗らせて肺炎になり、入院した。
結局春奈が家に帰る事はなかった。
私はあなたを憎んだ。
妹を、たった一人の家族を私から奪ったあなたが許せなかった。」
「そんなバカな…」
勇作はたじろいだ。
「だから決めたの。
あなたに復讐するって。
一番大切な人を失う悲しみを、あなたにも知ってもらいたいの。」
「ま、まさか…」
勇作は健の寝室へ走った。
「気付くのが遅いわぁ。
あなたが帰って来ると決まって起きてくるあの子が、なぜか今日は来ないじゃない。
でも大丈夫。
もうすぐあなたも健に会えるわ。
春奈によろしく伝えてね。」
ゆっくりとアルバムを閉じ、春香が寝室へ向かった。
END