婚約破棄された私に、旅好きの伯爵様が「帰る場所になってほしい」と言いました
「リディア。君といても、話すことがないんだ」
伯母のお茶会が終わりかけた頃、婚約者のオスカー様にそう言われた。
私はちょうど、来週お会いする日を変えていただけないかと頼んだところだった。町に開く図書室へ置く椅子を選ぶのだ。職人さんが椅子の見本を持ってきてくださり、座面の布も一緒に決める約束だった。
その説明の途中で、彼は扇を動かしていた私の手を見て、ため息をついた。
「また本の話か。君はいつも家にいるのに、どうしてそんなに用事があるんだろうな」
「家にいても、することはあります」
「それは分かっているよ。ただ、僕はもっと世界の広い女性と結婚したい。旅行の話も、王都の新しい芝居の話もできるような人とね」
客間にはまだ四、五人の客がいた。窓際で話していた伯母がこちらを向くのが、彼の肩越しに見えた。
私は扇を閉じた。膝の上へ置こうとして、指がうまく離れなかった。
「君との婚約は破棄する。ミレーヌ嬢とは気が合うんだ。彼女も、僕との結婚を望んでいる」
聞いたことのある名前だった。去年の秋、オスカー様が私との約束を取り消して出かけた旅行に、彼女も同行していた。
あの時は、一人で本を読むほうが好きだろうと言われた。私は一緒に行きたいと答えたのに、冗談のように笑われて終わった。
以来、旅行の話はしなかった。会えると言われた日を空け、来られないと知らせがあれば、また別の日を待った。
「そうですか。では、来週のお約束もなくなるのですね」
「……そんなことを気にするのか。君は本当に、退屈な人だな」
頬が熱くなった。彼に会えるのが嬉しくて空けていた時間まで、何もしていない時間だと思われていた。
ずっと家にいて、呼ばれたら出てくる。予定を変えても困らない。そんなふうに、私を見ていたのだ。
「椅子の布を選ぶ約束があるんです。これで、変えずに済みます」
今度は声を落とさずに言えた。
「私は、あなたとお会いしたくて予定を空けていました。することがなかったわけではありません。……でも、もう結構です。私も、あなたとは結婚したくありません」
オスカー様の口元から、薄い笑みが消えた。
私がこんなことを言うとは思わなかったのだろう。彼を驚かせられたことが嬉しい、という気持ちにはなれなかった。
「来週の件も婚約のお話も、父へ伝えます。今後のご連絡は、父を通してください」
伯母が私の隣へ来た。オスカー様にも、今のお話は私からも確かに伝えますと言った。
彼は何か言いかけたが、伯母に別室へ促されると、そちらへ歩いていった。私は残っていたお茶に手を伸ばし、飲めずに戻した。
その夜、家に帰ってから、椅子に張る布の見本を並べ直した。
赤茶色と、深い緑。母ならどちらを選んだだろう。そんなことを考えた途端、涙が落ちた。
三年前に亡くなった母へ相談することも、今日あったことを聞いてもらうこともできない。私は布を濡らさないよう横へ置き、しばらく声を殺して泣いた。
* * *
婚約は五日後、両家の話し合いで正式に解消された。
父は、相手の家に遠慮して我慢しなくてよいと言ってくれた。すでに十分我慢していたつもりなのに、そう言われて初めて、もう会わなくていいのだと息をつけた。
職人さんと約束した日には、椅子も布も、自分の好きなものを選んだ。座面は深い緑にした。
それから一週間ほどして、伯母と私が本棚の前で相談していると、玄関の戸を叩く音がした。
まだ看板も出していない、小さな二階建ての家だ。以前は父の知人が住んでいたが、今は空いている。母の蔵書を町の方にも読んでもらいたくて、私が父に借り受けた。
開けた戸の向こうには、マルク・フェルゼン伯爵が立っていた。
「こんにちは。約束の本を持ってきました。今、よろしいですか」
片腕に包みを抱え、もう片方の手で帽子を取る。明るい栗色の髪は短く、額だけが周りより白かった。
旅から帰るたびに、帽子の跡が残る人だった。
「どうぞ、お入りください。北へいらしていたのですよね」
「ええ。先週戻りました。町の本屋で見つけたので、なくさないうちにお届けしようと思って」
包みの中には、北の地方で歌われる子守歌の本があった。
子供向けの本が少ないと話したのは、春のことだ。向こうの町でも見てみます、と言ってくださった。覚えていてくださったのが嬉しくて、私は表紙をそっと撫でた。
「ありがとうございます。歌える方に来ていただくのも楽しそう。私が知らない歌ばかりです」
「歌い方なら少し覚えていますが、僕を呼ぶのはお勧めしません。宿の子供に、眠れなくなるからやめてくれと言われました」
伯母が笑い、私もつられた。
マルク様は二十八歳で、私より五つ年上だ。二年前に伯母の家で初めてお会いした時も、景色の見事さを話していたはずが、いつの間にか自分が宿で転んだ話になっていた。
知らない土地へ行き、街道や川を調べ、地図を作る仕事に関わっている。爵位を継がれてからも、領地の仕事を叔父様や管理人と分担して、何度も旅へ出ていた。
「今度こそ、しばらくこちらにいらっしゃるの?」
伯母に尋ねられ、彼は少し困った顔をした。
「六週間ほどです。次の北方調査が決まりまして。今度は三か月くらい、年明けには戻る予定です」
「まあ。冬の旅は大変でしょう」
「途中の町に長く滞在するんです。前から参加したかった調査なので、声をかけてもらえて、ほっとしました」
話すうちに、彼の声が弾んだ。
私は本を胸に抱え直した。帰ってきたと思ったら、もう次の旅の支度が始まっている。それが、この人には嬉しいのだ。
「どうぞお掛けになって。昨日、届いたばかりなんです」
勧めると、マルク様は窓際の一脚へ腰を下ろした。座る前には分からなかったが、長い脚がかなり窮屈そうだった。
彼は膝の位置を確かめるように見下ろしてから、顔を上げた。
「……子供用でしょうか」
「小柄な方も、足が床につくようにと思って。こちらの背の高い椅子なら」
「なるほど。お客のほうにも種類があるんですね。僕はあちらへ分類していただきます」
大きい椅子へ移った彼が、今度は楽そうに背を預けた。
伯母がお茶を淹れに隣室へ行くと、私は彼へ、座り心地はどうですかと聞いた。見栄えより長く座れることを優先したので、人に試してもらうのが少し怖かった。
「いいですよ。ここで本を読んでいたら、立つのが惜しくなりそうです」
ほっとしたところで、彼は窓の下を指さした。
「ただ、この時間は少し眩しいかもしれません。僕が持ち歩いている本は、文字が小さいので」
「ああ、そうですね。カーテンを薄くしすぎたかしら」
誉められるだけより、話が進むのが楽しかった。椅子を少し壁側へ寄せてみると、彼は、ここならと頷いた。
つい夢中になって次の棚の相談まで始めてしまい、私は途中で口を止めた。
「すみません。本を届けてくださっただけなのに」
「僕も、どんな場所になるのか見たかったんです。続きを聞かせてください」
私はいただいた本を机に置き、棚の見取り図を広げた。マルク様が椅子を寄せて、どこに何を並べたいのかと尋ねる。
話し始めると、開室の日にしてみたいことがいくつも浮かんだ。あの茶会以来、初めて、ここへ人が来る日のことを心から楽しみに思えた。
* * *
マルク様は、その後も図書室へ足を運んでくださった。
旅支度もあるのに、暇なのだろうか。失礼なことを考えかけたが、来訪を知らせる手紙には、こちらの都合が悪ければ別の日を教えてほしいと書いてあった。
一度、私は金曜日ではなく日曜日にしていただきたいと返した。金曜は、大工さんと本棚の高さを決める約束があったからだ。
返事を出してから、機嫌を損ねていないだろうかと何度も考えてしまった。
日曜日、彼は普通にやってきた。
帽子を取って挨拶をし、増えた棚を見上げる。それから、上の段には何を置くのですか、と尋ねた。
「重い本は避けようと思っています。私が取れなくなってしまうので」
「梯子を使えば届きますが、毎回だと面倒ですね。……何かありましたか」
私が彼の顔ばかり見ていたので、気づかれた。
予定を変えたのに、という言葉が出かけた。だが、彼は怒っていないし、ここへ来たことを恩にも着せない。私は、考えていたことを隠さず話した。
「今日に変えていただいて、よかったのかしらと思っていました。お出かけになる予定もあるのに」
「今日なら空いていましたから。僕の都合が悪い時も、そうお返事します。それで、また決めませんか」
その程度のことだった。
私が予定を持っているのを、彼は当たり前だと思っている。それが分かるまで、不安になっていた自分が少し悔しかった。
「では、次も遠慮なくお伝えしますね」
「そうしてください。ただ、会える日が早いと僕は嬉しいです」
最後だけ、声が柔らかくなった。
何と返せばいいのか迷っていると、彼のほうも口元を押さえた。言いすぎたと思っているのか、私の返事を待っているのか。
私は棚へ向き直るふりをして、小さく、私もですと答えた。
ある日は、机いっぱいに地図を広げた。
彼が次に行く地方だった。川沿いに町があり、その先で道が山へ向かって曲がっている。指で辿りながら、彼は現地で確かめたい道について話した。
私が、この町ではどんな家に住んでいるのですかと聞くと、鞄から別の紙が出てきた。
「絵を描いてきたんです。本職の画家のようにはいきませんが」
そう言って見せてくださったのは、煙突の長い家だった。軒先に小さな、丸いものがいくつもぶら下がっている。
「これは、干してある果物?」
「洗濯物です。靴下を描いたつもりでした」
私は耐えきれずに笑った。
川も山も分かりやすいのに、靴下は団子に見える。彼は絵を取り上げるでもなく、隣に本物の靴下の形を描き足した。今度は細長すぎて、私はまた笑ってしまった。
「地図のほうは、ちゃんと描けるんですよ」
「ええ、それは信じています。でも、この靴下も好きです。ここに住む方が、本当に洗濯をなさっていると思うと」
彼は絵から顔を上げた。
「そういうことを聞いてもらえるのが、嬉しいんです。道の長さや山の高さを話す機会はたくさんありますが、旅先の家の話までは、なかなか」
もう一枚、紙が出てきた。宿の大きな炉と、その前に並んだ靴が描かれている。
私が一つずつ尋ねるうちに、彼は椅子を少し寄せた。図を指す手が近くなり、指の関節に薄い傷があるのが見えた。
この手で何枚も描いて、遠い町から持って帰ってきた。知らない場所の話をする横顔を見ていると、胸が熱くなった。
旅が好きな人だ。
それなのに、今この部屋で私に話している時も、こんなに楽しそうだ。
帰り際、私が紙を揃えようとして、彼の手に触れた。
ほんの少しだったのに、どちらもすぐに動かなかった。先に私が手を引くと、彼は絵を一枚残してくださった。
「これは、よかったら。図書室の壁に貼るほどの出来ではありませんが」
「私がいただいても、よろしいの?」
頷かれたので、私はその紙を両手で持った。
団子のような靴下の絵だった。立派な景色の絵を選ばなかったことまで、嬉しかった。
* * *
オスカー様から、もう一度会って話したいと連絡があったのは、その頃だった。
父は私に手紙を渡す前に、会わなくても構わないと言った。
私はお断りした。あの日に言えなかった言葉を、もう少し上手に並べることはできるかもしれない。それでも、やり直したい気持ちはなかった。
父へそのまま伝え、私は図書室の本の一覧へ戻った。
秋が深まると、マルク様の出発が近づいてきた。
訪ねてくださる日を、以前より大切に数えるようになっていた。来年まで会えなくなるのだから、当然だと思おうとした。
だが、伯母に、今日のリボンは何度結び直すのと笑われた時は、何も言い返せなかった。
出発の四日前、彼は本も地図も持たずにいらした。
図書室の窓には、伯母と選び直したカーテンが掛かっている。机を運んでいた父がこちらを見て、いったん裏庭へ出た。伯母も父と一緒に行き、開いた窓の外から、植木鉢を置く場所を相談する声がした。
私たちは、窓から少し離れた椅子に座った。
「今日は、お願いがあって来ました」
彼の声は、いつもより低かった。
膝の上に置かれた両手が、しっかり組まれている。私まで背筋が伸び、何の話か薄々分かっているのに、待つのが苦しかった。
「リディアさん。僕と結婚してください」
嬉しくて、口元が緩んだ。声に出して答えたいのに、喉が詰まってしまう。私は膝に置いた手を握り、ようやく彼の顔を見た。
「旅先で面白いものを見つけると、あなたに話したくなります。これならどう言うだろう、きっとあそこを気にするだろうって。帰ってきて、実際に聞くのが楽しみになりました」
彼は組んでいた手をほどいた。
「今までは、帰れば次の旅の支度をするばかりでした。でも今は、あなたと会う日を決めたい。僕の帰る場所になってほしいんです」
手元に視線を落とした。机の端には、貸し出す本に挟む紙が積んであった。開室の日も決まっている。
彼の鞄の中には、もう北へ持っていく地図が入っているだろう。
さっきまで一つに見えた嬉しさの中へ、怖さが混ざった。
「私、図書室を開きたいんです。今すぐ、こちらを離れることはできません」
「はい。それは、伺っています」
「ですから、あなたと結婚したら……」
旅についていけない。
けれど、旅をやめてほしいとも言えない。地図を広げる時のあの顔を、私は好きになったのだから。
彼が気を遣って家に残り、いつか私を退屈だと思うようになったら。かといって、また自分の予定を空けて、来るかどうかも分からない人を待つのは嫌だった。
「私では、あなたを――」
幸せにできません。
言いかけて、止まった。彼はまだ、旅をやめるとも、私を連れていくとも言っていない。
私は自分の怖さを、彼の答えにしてしまおうとしていた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
マルク様は、続きを促すように頷いた。
「この先も、旅へ行きたいですか」
「行きたいです」
返事は、思ったより早かった。
胸が少し痛んだ。でも、その声にほっとした。好きなことを、私の顔色を見て取り消してほしくなかった。
「今回の調査も楽しみですし、その後にも、行ってみたい場所があります。結婚のために全部やめると言ったら、僕は嘘をつくことになる」
彼はそこで一度、息をついた。
「ただ、旅だけあればいいとも思わなくなりました。あなたと暮らしたい。欲張りなことを言っているのは、分かっています」
私を見ている彼は、少しも余裕のある顔ではなかった。
いつもの落ち着いた伯爵様が、返事を怖がっている。旅も私も欲しいと、断られるかもしれない願いを口にしている。
「私は、こちらに残っていてもいいのですか。あなたについていかずに」
「もちろんです。行きたい時があれば、一緒に行ける旅を考えたい。でも、ここを離れてほしくて求婚したんじゃありません」
窓の外で、父が鉢を置く音がした。
私はその音を聞きながら、緑の椅子に座る彼を見た。眩しいと言って、一緒に場所を変えた人だ。私に予定があることを、普通に受け止めた人だ。
この人にも、ちゃんと私の望みを話したかった。
「私も、あなたと結婚したいです」
マルク様が顔を上げた。
「本当は、言っていただいてすぐ、嬉しかったんです。でも、また誰かを待つだけになるのが怖かった。待っている間に私が何をしていても、何もないと思われるのが」
喉が痛くなった。あの日から、自分が思っていたより深く傷ついていたのかもしれない。
彼が手を伸ばし、私の手のそばで止めた。私はその手を取った。
「ここを開きたいです。あなたには調査へ行ってほしいし、帰ってきたら話を聞きたい。けれど、会えない間は、きっと寂しいです。平気だと言って待つのは、もうしたくありません」
彼の指が、私の手を包んだ。
「僕も寂しくなります。今から、帰ってきた時のことばかり考えているくらいですから」
笑おうとした声が、少しかすれた。
「寂しいと聞いたら、僕も会いたいと返事をします。すぐに帰れない場所にいることもありますけれど、便りには遠慮せず書いてほしい。あなたがどんな気持ちでいるのか、知らずにいるほうがつらいです」
私は頷いた。寂しいと言ったら全部投げ出して戻ってきてほしいわけではない。それを言うたびに、困った女だと思われるのが怖かったのだ。
マルク様の手を、もう片方の手でも包んだ。
「お手紙を書いてください。立派な旅の報告でなくていいから、今日はどこにいて、何があったか。私も、図書室のことを書きたいです。つまらない話になるかもしれませんけれど」
「椅子が足りたかどうかも知りたいですよ。僕ほど大きな客が来るかもしれない」
涙が出かけた顔で、笑ってしまった。
彼は私が笑うのを見ると、ようやく肩の力を抜いた。
「便りが届くまで時間はかかります。次にどの町から出せるか、分かる範囲で伝えます。帰る時期が変わったら、それも。あなたの予定を空けたままにしたくない」
「帰ってこられたら、しばらくはご一緒に過ごせますか」
「そのつもりです。結婚してすぐ出発するような日取りにはしたくありません。……僕のほうこそ、そばにいてほしい」
急に、胸がいっぱいになった。
帰る場所になってほしい。その言葉に、何もせず窓のそばで待つ自分を思い浮かべていた。けれど彼が欲しかったのは、自分の話を聞くだけの人ではなかった。
私の一日を知りたい。寂しいと伝えたい。帰ったら、そばにいてほしい。
私と同じように、この人も願っていた。
「好きです、マルク様。あなたといるのが、好きです」
彼の目元が、くしゃりと歪んだ。
それを見たら、堪えていた涙が落ちた。告白した私より、彼のほうが泣きそうな顔をしている。
「僕も、あなたが好きです。……抱き締めても、いいですか」
返事の代わりに立ち上がってしまい、膝が机に当たった。
挟み紙の束が崩れ、二人でそちらへ手を出しかけた。顔を見合わせると、マルク様が笑った。私も、涙のまま笑ってしまった。
「紙は、あとで拾いましょう」
私から言うと、彼は今度こそ立ち上がり、腕を広げた。
そこへ入った途端、背中に手が回った。ぎゅっと抱かれ、彼の肩に頬を押しつける。布越しに感じる体の温かさが嬉しくて、私も上着をつかんだ。
寂しいとも、会いたいとも、この人には伝えたい。三か月後にまた抱きつけるのだと思っても、今は少しも離れたくなかった。
少し体を離すと、彼が私の顔を見た。涙を拭く指が頬へ触れ、それだけでまた胸が速くなった。
私が顔を上げると、唇に柔らかく口づけられた。短く離れてから、二人とも言葉が出なかった。
窓の外で伯母が、鉢はもう全部置いたでしょうと父に言った。私は彼の胸へ顔を隠し、マルク様は小さく笑いながら、私をもう一度抱き寄せた。
* * *
私たちは、帰還後に結婚式を挙げることにした。
マルク様のお屋敷から図書室までは馬車ですぐだった。結婚後も通うつもりだと話すと、伯母は、では当番表を作りましょうと紙を持ってきた。
旅先へ行くことも、いつか考えたい。けれど、まずはこの秋、自分で扉を開けたかった。
出発の日には、やはり泣いた。
大丈夫ですからと見送るつもりでいたのに、馬車の前で彼の顔を見たら、涙が止まらなくなった。
「もう寂しいです。まだ、出発もしていないのに」
私が言うと、マルク様は手袋を外し、私の頬に触れた。
「僕もです。最初の宿から手紙を書きます。今日の分は、一通で済まないかもしれません」
そんなに書くことがあるのかと笑うと、彼は、まだ話し足りませんと答えた。私は彼の手に自分の手を重ね、それから、自分で離した。
行ってらっしゃいと伝えると、彼は、行ってきますと答えた。
最初の手紙は、出発から八日後に届いた。
宿の夕食のことと、荷物を詰め直したら私から渡した手紙がいちばん上に出てきたこと。最後には、同封の絵は靴下ではなく干した魚です、とあった。
私は机に額をつけて笑った。そう説明されなければ、今度も団子だと思っただろう。
返事には、開室前に玄関の鍵が固くなって大騒ぎしたことを書いた。町の子供が下見に来て、窓際の席をもう決めていったことも。
出発の翌月、図書室は開いた。初日は本を借りた人より、その場で話し込んだ人のほうが多く、伯母と二人で予想が外れたと笑った。
私はそのことも、マルク様へ書いた。
いつもすぐに返事が来るわけではなかった。
彼が山沿いの町を回っている間には、三週間近く届かないこともあった。予定は聞いていた。それでも、郵便を届ける馬車の音に顔を上げ、違うと分かってがっかりした。
そんな日は、寂しいと書いた。書いた手紙を取り消さず、彼が知らせてくれた次の滞在先へ送った。
少し後に届いた封筒の中には、彼も私の便りを待っていたことが書かれていた。
こちらから送った開室初日の話を、宿で二度読んだという。子供が選んだ席は、今でもその子のお気に入りなのだろうか。大きい椅子は使われているだろうか。
そして、帰ったら、君が机に向かっているところを隣で見たい、と。
手紙だけでは、会いたさはなくならなかった。
それでも、私の知らない町で、彼が私の一日を思い浮かべている。そのことを知るたびに、次の手紙を書きたくなった。
* * *
年が明け、マルク様から帰路についたと知らせが来た。
途中の雪で足止めされ、予定より数日遅れているという。帰れそうな週と、帰ったらまず会いに行く、と書いてあった。
私はその手紙を何度も読み、図書室の当番をいつもどおりに済ませた。彼が今日着くかもしれないからと、伯母一人に任せる気にはなれなかった。
夕方、家へ戻ると、玄関に見覚えのある鞄が置かれていた。
帽子も、その上にある。
外套を脱がせてくれようとした侍女へ、自分で持つわと答え、私は応接間の戸を開けた。
「ただいま、リディア」
マルク様が立ち上がった。
髪が少し伸びていた。頬は前より日に焼けて、唇の端には、小さな荒れた跡があった。
手紙では分からなかった顔だ。三か月分の、会えなかった時間がそこにあった。
「お帰りなさい」
言うなり、外套を近くの椅子へ置いた。
彼のところまで歩くつもりが、最後の二歩は駆け寄ってしまった。差し出された腕へ抱きつくと、しっかり受け止められた。
「会いたかったです。今日は、もういらっしゃらないかと思って」
「僕も会いたかった。少し前に着いたんです。家で着替えてから来るつもりだったのに、待てなくて」
懐かしい声が、耳のすぐそばで聞こえた。
肩に頬をつけると、外の冷たさがまだ上着に残っていた。その下にある体は温かく、私は指を緩められなかった。
彼も離さず、髪へ何度か頬を寄せた。
「リディア。顔を、見せてください」
少しだけ離れると、彼は私の顔をじっと見た。
笑おうとしたのに涙が出て、私は先に手で拭った。彼の頬へ触れると、そこも冷たかった。
「お手紙は、全部届きましたか」
「最後の一通まで。伯母様が貸し出すつもりの本を先に読み終えてしまう話まで」
ちゃんと届いていた。
私は笑いながら、彼の上着の襟を直した。直す必要はなかったかもしれない。ただ、触れていたかった。
「大きな椅子も使われています。けれど、あなたにも座っていただきたいから、明日は空いているといいのですけれど」
「空いていなければ、僕は待ちますよ。今度は小さい椅子で、少しくらい」
彼も笑った。それから声を落とし、私の手を取った。
「帰ってきたら言おうと思っていました。離れている間も、あなたと結婚したいと思っていました。毎日です」
胸が熱くなった。
あの日、帰る場所になってほしいと告げた人が、本当に帰ってきて、もう一度私を選んでいる。
「私もです。お帰りになったら、今度は私から言おうと思っていました」
つないだ手を持ち上げて、私は彼の指へ頬を寄せた。
「私と結婚してください。これからは、同じ家に帰ってきてほしいです」
マルク様が、嬉しそうに息を吐いた。
すぐに、喜んで、と返事をしてくれた。抱き寄せられた時には、私も顔を上げていた。今度の口づけは、出発前より少し長かった。
結婚式は、春を待たずに挙げた。
図書室の当番の日には、夕食の時、今日借りられた本の話をする。彼は旅で描いてきた地図を仕上げながら、ときどき、団子にしか見えない絵を隅に足す。
次の短い調査へ出る日が決まった晩、私は食卓で、帰った翌日を空けておいてほしいと頼んだ。
「どこかへ出かけますか」
「いいえ。家で、あなたとゆっくりしたいの。図書室は伯母様にお願いしました」
マルクは、手にしていた杯を置いた。
「では、僕も仕事を入れません。……何をしましょうか」
「それは、帰ってから決めたいわ。あなたの話を聞くかもしれないし、一緒に本を読むかもしれない」
食事を終えると、彼は机に向かって予定帳を開いた。帰還予定日の翌日に、私の名前が書かれる。
私はその隣に腰を下ろした。マルクが空いた手を伸ばしてきたので、指を重ねる。
次の旅の前に、まだこうしていられる夜がある。私は彼の肩へ寄りかかり、今日の続きを話し始めた。
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