没落した幼なじみと婚約しましたが、彼が成功したので身を引きます
「ねえ、ヴィクトル」
「ん? どうしたんだ、エステル」
いつものように婚約者と向かい合って、彼の屋敷でティータイムを過ごしていた。
穏やかな午後、窓からは柔らかく陽光が差し込んでいる。けれど、私の胸中はどんよりと雲で覆われているように、落ち着かない。
なぜなら、私は今日、愛する彼と婚約を解消することを決意していたからだ。
「ヴィクトルは本当にすごいわね。傾いていた公爵家を、あそこまで立て直したんだもの」
ヴィクトル・レーヴェンハイム。
没落寸前だった公爵家を継いだ彼は、数年の努力の末、家をかつての繁栄以上にまで押し上げた。
私は、そのすべてを彼の隣で見てきた。
だからこそ、この婚約が彼の望んだものではなかったことも理解していた。我がアシュフォード侯爵家は、レーヴェンハイム公爵家よりも裕福だった。レーヴェンハイム家が落ち目でなければ、こんな婚約は初めから存在しなかったのだ。
「ありがとう。君がいてくれたからだ」
ダークブラウンの髪が陽光に照らされ、息を呑むほどに美しい。
ヴィクトルは、まるで愛おしいものを見つめるように微笑んでいた。
その表情に、エステルの胸がぎゅっと締め付けられ、思わず俯いてしまう。
こんなの、勘違いしてしまいそうになる。
「……いえ。そんな」
私は自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
ヴィクトルは私を大切にしてくれている。彼は本当に優しい。それに私の言葉をいつも聞いてくれる。
(……でも)
分かってる。これも全部、私が婚約者だからなのだ。
彼の優しさを、愛情だと勘違いしてはいけない。
だって、もしヴィクトルの家が没落していなかったら。
もし、我が家の援助が必要なかったら。
彼が私との婚約を望む理由なんて、どこにもないのだから。
テーブルの下で手を強く握りしめ、深く息を吸う。
そして私は、顔を上げた。
「ねえ、ヴィクトル……」
「うん?」
「私たち、婚約を解消しましょう」
その瞬間だった。
カシャン、と乾いた音が響く。
ヴィクトルの手からティーカップが滑り落ちたのだ。
「……は?」
彼は目を見開いたまま、ぴたりと動きを止めている。ヴィクトルはしばらく無言だったけれど、ようやくゆっくりと私を見る。
「……理由を聞いても?」
「元々……あなたの家を支援するための婚約だったでしょう? でも、もうその必要はないわ。あなたは自分の力で公爵家を立て直したもの。だからあなたは自由に――」
「……何を勝手に決めているんだ?」
言葉を遮るように、静かな部屋に彼の声だけが響く。
ヴィクトルの顔は伏せられていて、表情はよく見えない。けれど、怒りの滲んだ声に、思わず心臓が震えた。
それでも、何とか声を振り絞った。
「えっと……まずは、勝手に決めたことは謝るわ。でも、いつまでも我が家に縛られているのも嫌でしょう?」
「……嫌じゃない」
「……え?」
「俺は、嫌じゃない」
低く落とされた声が、妙に胸に残った。けれど、その言葉が何を意味しているのか、私にはよく分からなかった。
「ごめんなさい。もう一度、言ってもらえるかしら?」
――ドンッ!!
突然、テーブルが大きく揺れた。
ヴィクトルがテーブルに拳を強く叩きつけていたからだ。
私は驚いて、肩を震わせた。
それでもまだ、ヴィクトルの顔は伏せられていて、表情がよく見えない。
「なあ、エステル」
「……なにかしら?」
「俺が、今までどうして努力してきたと思っている?」
「それは……公爵家を立て直すためでしょう」
「違う」
「……え?」
ヴィクトルはすぐに答えると、ようやくゆっくりと顔を上げた。その瞳には、今まで見たことがないほどの怒りが滲んでいる。
「君は、本当に何もわかっていない」
「ヴィクトル……?」
「今更、俺を捨てるだって? そんなの……許すものか」
彼の声は震えていた。いつも冷静で穏やかな彼からは想像もつかない。
それよりも私は、先ほどの発言が頭から離れなかった。
……捨てる? 私が、ヴィクトルを?
どうして、そんな話になるの。
私はただ、彼の未来のために身を引こうとしているだけなのに。
そもそも彼は――どうしてこんなにも感情的になっているの?
◇
私とヴィクトルは幼馴染だった。
公爵家と侯爵家、家格は違っていたけれど、お互いの母親が昔からの友人なのもあって、私たちは自然と遊び相手になった。
ヴィクトルは私にとって、兄のような存在だった。
いつも私より少しだけ先を歩いていて、何でもできて、困ったときには助けてくれる。
そんな憧れが、いつしか恋心に変わるまで、そう時間はかからなかった。
「私、ヴィクトルと結婚するの!」
幼かった私は、こんなことを言っていたと思う。今思えば、すごく恥ずかしい記憶だ。
そして昔、ヴィクトルにこんなことを聞いたことがある。
「ねえ、ヴィクトルは将来何になりたいの?」
「…………エステルの夫」
私は首を傾げた。
ぽつりと呟いていた彼の声は、あまりよく聞こえなかったのだ。
聞き返しても「もう言わない」と、結局教えてもらえなかった。あの時、彼はなんて言っていたのだろうか。
そんな風に私とヴィクトルは互いの家を行き来しながら、交流を深めていった。
あの頃は、本当に幸せだった。ずっとこんなふうにヴィクトルの隣にいられたら。そんな淡い思いを胸に抱いていた。
けれど、そんな平穏が突然終わりを迎える。
ヴィクトルの家の財政状況が悪化したのだ。
いつしか彼は、社交界にも姿を見せなくなった。
それでも、私とヴィクトルは幼馴染だ。以前のように頻繁にとは行かなくても、たまには会えると思っていた。
事実、ヴィクトルの母親は、時折アシュフォード家に来ていた。
でも、ヴィクトルは来なかった。ただの一度も。
(……嫌われたの?)
そのことで、私の心は深く傷ついた。
それからしばらくして、いよいよレーヴェンハイム家が没落寸前にまで追い込まれる。そんな時に、私と彼の婚約話が持ち上がったのだ。
最初は困惑し、もちろん両親にも抗議した。それでも、彼の家を助けられるのならと、私は婚約を受け入れた。
だけど本音は、もう一度ヴィクトルに会いたかったからだった。
それはきっと、悟られてはいけない。
だって、私は嫌われているから。
だから、ヴィクトルは一度も顔を見せないのだ。
久しぶりに再会した彼は、ひどく眩しかった。あどけなかった顔が、すっかり大人の男性のものになっていて、思わず胸が高鳴った。
だけど、同時に苦しくもなった。
彼は突然私と会わなくなって、久しぶりの再会だというのに、そのことに何も触れない。
私はずっと、どうして会いに来なくなったのか聞きたかった。
けれど、ヴィクトルが何でもない顔をしているのを見たら、聞くことなんてできなかった。
やっぱり私には会いたくなかったのだと、そう思い知らされるのが怖かった。
それに、ヴィクトルは女性をときめかせるような優しい微笑みでこちらを見てくる。
でも、それも当然なのだと思う。
私は彼の家を支援する家の娘だ。そんな私に嫌われて、婚約を破談にされるわけにはいかないのだろう。
だからこれから、ヴィクトルは私に優しくするだろう。
婚約者として大切に扱って、私が不満を抱かないようにする。
――きっと、そういうことなのだ。
気にしていたのは私だけだったのだ。
そう思ったら余計に胸が苦しくなった。
婚約してからもやっぱりヴィクトルは優しかった。でも、昔のような自然な表情は見せなくなり、どこか距離を感じた。
望んだ婚約じゃなかったのだ。きっと彼は無理をしている。それでも、私が惨めにならないようにと、婚約者としてすごく大切にしてくれていた。
大切にしてくれているのに、私の心はちっとも軽くならなかった。
彼にもう一度会いたかったはずなのに。
彼と顔を合わせれば合わせるほどに、私の心は重く沈んでいく。彼を婚約で縛り付けている事実に、罪悪感でいっぱいだった。
私たちが婚約してからしばらくして、ヴィクトルは公爵家を継いだ。
それからというもの、彼は傾いた公爵家を建て直すために、忙しい日々を送っていた。
会える日は、少なくなってしまったけれど、それでも彼のことは応援していた。
努力している彼の背中は、本当にかっこよくて、眩しくて。見上げることで精一杯だった。
そして、彼の努力の末に公爵家は瞬く間に、以前のような輝きを取り戻していったのだ。
すると、彼に対する評価がガラリと変わる。
パーティーに出向けば令嬢に囲まれ、国の重鎮達とも顔を合わせるようになった。
ずっと隣にいたのに、彼の存在はすっかり遠くなってしまったみたいだった。
そして嫌でも聞こえてくる周りの声。
「ヴィクトル様は、本当に素晴らしいわ」
「今となってはこの国でも最高峰じゃない? 侯爵家との婚約なんて……ねえ?」
「今ならもっと良い縁談があるでしょうに」
……そんなの、私が一番わかっている。
それでも私は、ヴィクトルの隣にいたかった。彼が望んでいないかもしれないと分かっていても、離れたくなかった。
でも、彼の将来を本当に思うのなら。
これ以上、惨めな気持ちになりたくないのなら。
彼と離れることも選択のひとつなのだろう。
いや、違う。離れなくてはならない。
だから、やっとの思いで婚約解消を伝えた。
これでいい。
これが、ヴィクトルのためなのだ。私もいい加減、この気持ちに区切りをつけないといけない。
そう、何度も自分に言い聞かせた。それなのに――。
そして、現在に至る。
私は覚悟を決めて、ヴィクトルに婚約破棄を伝えた。
でも、ヴィクトルの反応は私が想像していたものとは、まるで違っていた。
「許すものか」
これは……一体どういう意味?
「あ、あの……ヴィクトル」
「君が俺を捨てるというのなら、まずは俺の気持ちを聞いてからにしろ」
先ほどまでは、怒りを滲ませていたヴィクトルの声が、途端に弱々しくなる。
「一人で勝手に決めるな」
「……え?」
彼は、今にも泣き出しそうで、縋るような瞳だった。その表情を見た瞬間、エステルの胸がぎゅっと締め付けられる。
「俺は、君との婚約を望んでいる」
ヴィクトルの瞳は真っ直ぐにエステルを捉えていた。決して、目を逸らさない。
「でも……これは、あなたの家を支援するための――」
「違う」
今度は、迷いなど微塵も感じさせない、はっきりとした声だった。
「俺が望んだんだ。君と婚約することも、君と結婚することも」
「……ヴィクトル」
「ずっと好きだった」
その言葉に、息が止まった。
「子どもの頃から、ずっと。君が思っているより、ずっと長い間、俺は君が好きだった」
……え?
言葉は理解できるのに、状況が全く掴めなかった。
「だから、この婚約は俺にとって……思っても見ない幸運だったんだ」
本当に? ヴィクトルが、私を好き?
もしかして、私は今、自分に都合の良い夢でも見ているの?
何が起きているのか分からず、私はただ呆然とヴィクトルを見つめていた。
けれど、次の瞬間。
目の前のヴィクトルを見て、私の心臓が強く鷲掴みされたような衝撃が走る。
ヴィクトルは、ひどく困ったような顔をしていた。
頬は赤みを帯びていて、耳まで赤くなっている。ヴィクトルは、私と目が合うと口元を手で覆う。
いつもなら何を言われても余裕のある彼が、私から目を逸らしている。
少し俯き、ちらりと見えた瞳は、まるで私の答えを待ち望んでいるようだった。
その時、胸の奥から、何かが一気に溢れ出した。
(もしかして……夢じゃない?)
そう思った瞬間、心臓が大きく跳ねた。
嘘でしょう。
だって私は、ずっと。
ずっと、私だけが彼を好きなのだと思っていた。
「……本当に?」
自分でも驚くほど小さな声が零れた。
すると、ヴィクトルが、ゆっくりと私を見る。その顔は、まだ赤いままだった。
「……その反応は、期待してもいいやつか?」
胸の奥が、暖かい何かでいっぱいになる。
(……そうだ)
私はずっと、ヴィクトルの気持ちをどこかで決めつけていた。
それはきっと――自分を守るためだった。
これ以上傷つきたくないという、私の弱い心が原因だったのだ。
だから、今度こそ真っ直ぐに向き合わなくてはならない。
「うん。私も……ヴィクトル、あなたのことがずっと好き――」
言い終える前に、ヴィクトルが目の前まで来た。
そして、両手を広げると、そのまま私を包み込んだ。
「ヴィクトル……?」
「ごめん。我慢できなかった。でも……ありがとう、エステル」
彼の腕に、ぎゅっと力が込められる。
私の鼓動は、収まるどころかますます速くなっていった。
「ゆ、夢じゃないんだ……」
「君は……本当に……」
ヴィクトルが、ひどく優しい声で囁く。
その表情は、愛おしいものを見つめるようだった。
しばらくの間、私たちは何も言わずに抱き合っていた。
エステルはどこか夢心地で、胸がいっぱいだった。
そして、どのくらい、そうしていただろう。
少しずつ冷静になってきた私は、ずっとヴィクトルに聞きたかったことを尋ねた。
「でも、あの時は……どうしてずっと会いに来てくれなかったの?」
「……それは」
ヴィクトルは身体を少し離すと、視線を逸らした。どこか言いにくそうに、言葉を詰まらせている。
それでも、彼の手は私の肩を掴んだまま離れなかった。
やがて、ヴィクトルは観念したように口を開く。
「俺が……情けなかったからだ」
「え?」
「君に合わせる顔がなかったんだ。本当はずっと会いたかった。だが、公爵家が落ちぶれてから、どうしても君に会う自信がなかった」
「ヴィクトル……」
胸が痛んだ。私は、ずっと彼に嫌われていると思っていた。だから会いにこないのだと。でも、そうじゃなかった。
「だから必死に勉強した。領地経営も、財務も、外交も……できることは全部やった」
ヴィクトルは、少しだけ苦しそうに目を伏せる。
「自信を持って、もう一度君に会うために」
「……そんな」
思わず声が漏れた。
そんなの。そんなの全然知らなかった。
「そんな時、君との婚約話が持ち上がったんだ。正直……嬉しかったよ」
ヴィクトルが、照れたように笑う。
「夢みたいだった。ずっと好きだった君が、俺の婚約者になるんだから」
その言葉に、胸の奥がまた熱くなる。
けれど、ヴィクトルはすぐに表情を曇らせた。
「でも同時に、怖かったんだ」
「……怖い?」
「俺は君の家に助けられなければ、君の隣に立つことすらできなかった。そんな自分が情けなくて……」
ヴィクトルの声が、わずかに震える。
「だから、必死だった」
その手が、私の肩をそっと撫でた。
「絶対に公爵家を立て直してみせるって。全部、君の隣に立つためだったんだ」
胸の奥が、また熱くなる。
「……そんなの、ずるいわ」
「何が?」
「私だって……ずっと、あなたが好きだったのに」
ヴィクトルが、ふっと目を細めた。
「……本当に夢みたいだな」
そう呟くと、ヴィクトルはエステルの手をそっと取る。
「ありがとう、エステル。……やっと、夢が叶った」
「夢?」
ヴィクトルは、少しだけ笑うと私を見つめた。
「俺の夢は――」
◇
エステルは、俺にとって妹のような存在だった。
いつも俺の後ろをついてきて、何かあれば俺を頼ってくる。眩しいような笑顔で、何気ない出来事を嬉しそうに話す。その笑顔が好きだった。気づけば、彼女の存在が俺の心にごく自然と入り込んでいったのだ。
それでもまだ恋と呼ぶには早かったと思う。
だが、強く自覚するきっかけになったのは、あの時だろう。
「私、ヴィクトルと結婚するの!」
幼い少女の言うことだ。ただの憧れから出た言葉だと言うことは分かっていた。
それでも、気づいてしまった。
いつの間にか隣にいることが当たり前になっていたエステルが、この先の未来でも隣で笑っている。そんな未来を、俺は自然と想像していたのだ。
その瞬間、胸の奥から何かが溢れ出した。
耳まで真っ赤になって、しばらく目も合わせられず、口も聞けなかった。今思い返しても、恥ずかしい記憶の一つだ。
いつだっただろうか。エステルに将来の夢を聞かれた時に、「エステルの夫」だなんて柄にもなく言ってしまった。
言った後に後悔したけれど、エステルが聞こえてなくて本当に良かったと思う。思い出すだけで顔から火が吹きそうだ。
思えば、あの頃が俺の人生で最も穏やかな時間だった。好きな彼女と一緒に過ごし、思い出を共有する。
……幸せだった。
平穏な日々を送っていたが、徐々に俺を取り巻く環境の雲行きが怪しくなる。
公爵家の状況はとても良いとは言えず、社交界にすら出向くことが難しくなってしまったのだ。
公爵家が傾いたのは俺のせいではない。それは分かっていた。だが、あの頃はどうしようもなく惨めで、好きな彼女に自分のこんな姿を見せたくなかった。だから屋敷に引きこもり、彼女を避けてしまった。今思えば、どうしようもない。
それでも、エステルの存在を忘れたことは一度もない。
会えない時間が積み重なるほどに、彼女への想いは募っていく。それでも、彼女の前に姿を現すという選択だけはできなかった。
ならば、と俺は必死に勉強した。胸を張れる自分になれたら、自信を取り戻すことができると思ったからだ。
そうして俺は、いつか公爵家を継いで、自分の手で立て直すことを決意した。
もちろん、公爵家の人間としての責任もある。だが、それ以上に俺を支えていたのはエステルの存在だった。いつか必ず恥ずかしくない自分になって、彼女の前に立つ。それが俺の目標だった。
それでも、公爵家の状況は悪化するばかりだった。
ついには没落寸前というところで、エステルとの婚約話が持ち上がった。内容はアシュフォード家が我が家を支援し、アシュフォード家は公爵家という後ろ盾を得るというものだった。
好きな子と結婚できるのだ。嬉しくないわけがない。
だが、それ以上に自分自身が情けなくて仕方がなかった。
久しぶりに再会した彼女は、すっかり大人の女性に成長していた。どこか少女の面影も残っていて、可愛いところも変わらない。
だが、彼女の表情がどこか固かったことを覚えている。
(嫌なのだろうか)
それも当然だろう。誰が好き好んで、こんな情けない男の妻になりたいと思うだろう。
エステルは貴族の娘だ。家同士の事情がある以上、この婚約を断ることもできなかったのだろう。
今の俺では、何も彼女にしてやれない。
だからこそ、婚約者としてエステルをとても大切にしていたつもりだ。それでも、かつてのような自然な笑顔は見ることができなかった。
昔はあんなに近くにいた彼女が、今はなんだかものすごく遠くに感じた。
だが、俺は諦めきれなかった。
堂々と彼女の隣に立ち、この想いを伝える。
そのためには、やはり公爵家を建て直す必要がある。俺は両親に相談し、予定よりも早く爵位を継いだ。
そこからは必死だった。
死ぬ気で外交や領地経営に取り組んだ。決して楽な道ではなかった。苦しくて、投げ出しそうになったことも何度もある。
それでもなんとか縋り付くように努力を重ねた。
俺の頭には、ただ一つのことしかなかった。
いつか胸を張って、彼女の隣に立ちたい。
それだけを支えに、俺は必死に机に向かっていた。
そしてついに公爵家がかつての輝きを取り戻した。
俺はエステルにこの想いを伝えると覚悟を決めた。
それなのに――。
婚約解消、だと?
彼女の口から飛び出す言葉は、俺にとってどれも残酷なものばかりだった。
俺のため、俺のためだと彼女は言う。
だが、要は俺を捨てたいのだろう?
これまでだって、彼女は以前のような笑顔は一度も見せてくれなかった。
あんなに情け無い人間だったんだ。
公爵家を建て直したくらいでは、俺への評価は変わらないのかもしれない。
それに彼女は、俺がまるで婚約破棄を望んでいるかのように言っているじゃないか。
それだけは、どうしても許せなかった。
俺が今までどれだけ必死で踏ん張ってきたと思っている?
だからせめて、この気持ちだけは、彼女に知って欲しかった。
(何も知らずに捨てるなよ)
だから、今まで押さえ込んできた想いを彼女に伝えた。すると彼女から帰ってきた反応は、俺の予想とは違う物だった。
どう見ても、彼女は照れていた。
頬はほんのりと赤みを帯び、潤んだ瞳でこちらの様子を窺っている。
その瞬間、心臓が強く掴まれたような感覚に襲われた。
「…………それは、期待してもいいやつか?」
「うん。私も……ヴィクトル、あなたのことがずっと好き――」
もう、それ以上は我慢できなかった。
こんなにも幸せなことがあるのだろうか。
長年の想いが、報われた瞬間だった。
あれから数年後。
俺たちはついに、結婚式を迎えた。
俺の隣には、エステルがいる。
純白のドレスに身を包み、かつてのような笑顔を浮かべている。
それが、どうしようもなく愛おしかった。
「なあ、エステル……」
「なあに、ヴィクトル」
「本当に、夢が……叶ったんだな」
すると彼女は、呆れたように笑った。
けれど、その瞳には愛おしいものを見るような温度があった。
「もう、またそれ? 夢じゃないわよ。現実よ?」
そしてエステルは小さく笑う。その笑顔が、太陽のように輝いて見えた。
それは、俺がずっと見たかった顔だった。
「しっかりしてよね。旦那さま」
そして、俺たちは誓いのキスを交わした。
どこまでも澄み渡る青空。
鳥たちのさえずりさえ、俺たちを祝福しているように聞こえる。
ゆっくりと顔を離す。
目の前には、頬を赤く染めたエステルがいた。
そして――照れたように笑っている。
ああ。
やっぱり、君の笑顔は眩しい。
なあ、エステル。
俺は君に誓うよ。
これから先もずっと――
君の隣で、その笑顔を見ていたい。
そして、君がずっと笑っていられるように。
俺は、君を幸せにするよ。
その言葉を胸に、俺は彼女の手をそっと取った。
あの頃の俺に教えてやりたい。
お前の夢はちゃんと叶うぞ、と。
お読みいただきありがとうございました!
多分、初めて「王道オブ王道」を書きました。
心、ブチ抜けたでしょうか。
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