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悪役令嬢は前世66歳の元教師〜婚約破棄を言い渡す王子に、まず生活指導から始めます〜

作者: P作
掲載日:2026/07/18

 シャンデリアの光が、割れたように揺れて見えた。


「ヴィオレッタ・ランメルト侯爵令嬢!」


 王立学園卒業記念の夜会。その中央、楽団が音を止めた大広間に、クラウス王太子殿下の声が響き渡る。


「余は本日この場をもって、そなたとの婚約を破棄する!」


 ざわ、と人垣が波打った。誰もが遠巻きに、けれど一歩も引かずに、私と殿下を囲んでいる。醜聞は貴族の主食だ。今夜の晩餐は、さぞ豪勢なことだろう。


 殿下の隣には、薄紅のドレスの少女が身を縮めて立っていた。ミレーユ・フォスター男爵令嬢。殿下がその肩を抱き寄せる。


「そなたの罪を、ここに数え上げる」


 殿下が懐から紙を取り出した。わざわざ、書き出してきたらしい。


「一つ! そなたはミレーユの教科書を隠すよう、取り巻きの令嬢に命じた!」


 ――ああ。


 それは、した。正確には「命じた」つもりはなかったけれど、私が扇の陰で「あの子の教科書、目障りだこと」と零せば、モニカが動くことくらい、分かっていて言ったのだ。


「二つ! そなたは自らの主催する茶会から、ミレーユただ一人を意図的に除外し続けた!」


 それも、した。招待状の名簿から、あの子の名前だけ線で消した。私のペンで、私の手で。


 胸の奥が、きり、と痛む。婚約破棄の衝撃なのか、罪を並べられる屈辱なのか、自分でも分からない痛みだった。指先が冷えて、震えが膝から這い上がってくる。


「三つ! そなたは先月十四日、東棟の大階段にて、ミレーユを背後から突き落とし――」


 ――は?


 その瞬間だった。


 震えが、止まった。


 頭の中で、何かが音を立てて繋がった。古い抽斗が一斉に開くように、三十八年ぶん――いいえ、六十六年ぶんの記憶が、雪崩を打って戻ってきた。


 チョークの粉の匂い。放課後の職員室。灯りを落とした廊下の見回り。「先生、聞いてください」と泣きながら駆け込んでくる子の声。保護者会。学年集会。何百回、何千回と繰り返した、あの言葉。


 ――事実確認は、しましたか。


 私は。前世の私は、六十六年生きた。そのうち三十八年、教壇に立っていた。国語教師。学年主任。生活指導。卒業させた子は千人を超える。


 そして今、目の前で紙を読み上げている金髪の美しい王子様は。


 ……ああ、知ってる。これ、知ってるわ。


 裏取りもせずに、噂だけで生徒を全校集会で吊し上げる――絶対にやってはいけない指導の、お手本のような見本。若い先生が一度はやりかけて、職員室で私に止められるやつ。


 恐怖が、消えていた。膝の震えも、指先の冷えも、潮が引くように消えて、代わりに立ち上がってきたのは、呆れと、懐かしさと、そして骨の髄まで染みついた職業意識だった。


 背筋が、勝手に伸びる。


「四つ! そなたは身分を笠に着て、ミレーユの出自を衆目の前で嘲笑し――」


 殿下の糾弾は続いている。声は上ずり、頬は紅潮し、紙を持つ手が興奮に揺れている。ミレーユ様は俯いたまま顔を上げない。周囲の目は好奇に濡れている。


 だめね、これは。誰も止めないなら、仕方ない。


 私は、静かに片手を上げた。


「殿下」


「――なんだ! 言い訳ならば聞かぬ! そなたの罪は既に明白であり」


「殿下。一度、深呼吸なさい」


「……は?」


 殿下の口が、開いたまま止まった。広間のざわめきが、すとん、と落ちる。


「興奮している人の話は、長くなるうえに要点が飛ぶの。それでは聞いている方々も、裁かれる私も困ります。……そう、鼻から吸って、口から吐いて」


 あまりに当然のように言われたからだろう、殿下は本当に、す、と息を吸った。吸ってから、自分が何をさせられたのかに気づいて、顔を真っ赤にした。


「な……っ、貴様、この期に及んで余を愚弄……!」


「愚弄ではありませんわ。進行のご提案です」


 私はドレスの裾を摘まみ、完璧な礼を一つしてみせた。震えはもう、どこにもない。


「殿下のお怒りは承りました。罪状も、拝聴いたしました。それでは順番に参りましょう。――まず三つ目から」


「さ、三つ目……?」


「先月十四日、東棟の大階段。私がミレーユ様を突き落とした、というお話」


 私はまっすぐに殿下を見た。面談室の目になっているのが、自分でわかった。


「誰が、いつ、どこから、それを見たのかしら。――お答えになれる範囲で結構よ」


 殿下の目が、泳いだ。


 紙の上を、視線がさまよう。そこに答えが書いていないことは、殿下の顔が雄弁に語っていた。


 ……やっぱり。裏、取ってないのね。


 私は内心で、深々と溜息をついた。前世で数え切れないほどついた、あの溜息を。


 いいでしょう。婚約破棄は、むしろ結構。この際、喜んで受けて差し上げます。


 けれど殿下。人を裁くおつもりなら――まずは生活指導から、始めましょうか。


   ◆


「誰が、いつ、どこから見たのか――お答えいただけないようですので、質問を変えますわ」


 私は一歩、殿下に歩み寄った。囲む人垣が、息を呑む気配がする。


「先月十四日。私がどこにいたか、お調べになりまして?」


「……そ、それは」


「王妃陛下のお茶会ですわ。午後のあいだ、ずっと。同席の方々が、この広間にも五人はいらっしゃるはず」


 人垣のどこかで、扇の陰から小さく「……ええ、確かに」と声が漏れた。伯爵夫人のどなたかだろう。一人が認めれば、あとは折れた堤だ。ざわめきが、今度は殿下のほうへ流れていく。


「東棟の大階段とやらに、私は近づいてすらおりません。――殿下。人が階段から落ちたなら、医務室の記録が残りますでしょう。……殿下、ご確認は? なさっていて?」


 殿下が、勢いよくミレーユ様を振り返った。ミレーユ様の肩が、びくりと跳ねる。俯いた顔は、もう血の気がなかった。


 ……ああ、この子。


 嘘に嘘を重ねられるほど、器用な子ではないのね。それはあとで、ゆっくり聞きましょう。今この場で問い詰めては、この子は二度と本当のことを言えなくなる。


 私はミレーユ様から目を外し、殿下の手の中の紙へ向けた。


「その罪状のお紙、拝見しても?」


「な……だ、駄目に決まって」


「そう。では遠目に失礼して――四行目、『階段』の綴りが違いますわね。それと二行目と七行目にも一つずつ。……あら、殿下の字ではないでしょう、それ。殿下はもう少し、丁寧に字をお書きになるもの」


「……っ」


 殿下が紙を隠すように胸に引き寄せた。図星、と。ならばあの紙を書いたのは誰かしら――疑問を、私はいったん胸の抽斗にしまった。今は、先にやるべきことがある。


「四つ目の罪状に参りましょう。私がミレーユ様の出自を、衆目の前で嘲笑した、というお話。……これは」


 私は、そこで一度、言葉を切った。


 広間が静まり返る。次はどう切り返すのか。観客たちの目が、そう言っている。冤罪をまた一つ、鮮やかに斬って捨てるのだろうと。


「――これは、いたしました」


 ざわ、と空気が揺れた。


「殿下が読み上げた一つ目、教科書の件も。二つ目、お茶会の件も。事実です。私がやったことですわ」


「み……認めるのか!」


 殿下の声が跳ね上がる。勝ち筋を見つけた、という顔で。


 ええ、認めますとも。認めない理由が、どこにもないもの。


 私はミレーユ様に向き直った。そして、声を――落とした。ここから先は、演説ではないから。


「ミレーユさん」


 様、ではなく。ミレーユ様が、弾かれたように顔を上げた。


「教科書を隠すよう仕向けたのは、私です。茶会の名簿からあなたの名前を消したのも、皆の前であなたの出自を嗤ったのも、私。……言い訳のしようもないわ。あなたが学園で過ごした日々を、私は確かに、削り取った」


 息をひとつ。


「申し訳ありませんでした」


 私は、頭を下げた。


 侯爵令嬢が、男爵令嬢に。衆目の前で、深く。


 広間のざわめきが、今夜いちばん大きくなった。ありえない、という声が聞こえる。正気か、という声も。ええ、正気よ。間違えたら謝る。子どもたちに千回言わせてきたことを、自分がやらないでどうするの。


 顔を上げると、ミレーユ様は泣きそうな顔で、小さく首を横に振っていた。違うんです、と唇が動いた気がした。……ええ、分かってる。あなたの話は、あとで。


「――認めたぞ! 皆の者、聞いたな! ヴィオレッタは罪を認めた! ならば階段の件も洗いざらい白状……」


「殿下」


 私は背筋を戻し、声も戻した。先生の声に。


「私が認めたのは、私がした三つです。していない一つは、認めません。……いいこと、殿下。本当の罪が三つあるからといって、嘘の罪を一つ混ぜていい理由には、なりませんのよ」


「な……に……?」


「むしろ逆ですわ。あなたは本物の罪を三つも握っていた。それだけで私を裁けたのに、確かめもしない四つ目を足したせいで、罪状ぜんぶの信用が傾いた。――人を叱るとき、やってもいないことまで盛ったら、その時点で指導は失敗なの。相手に『嘘を混ぜる人』と思われた瞬間、届く言葉も届かなくなるのだから」


 殿下の顔から、勝ち誇った赤みが引いていく。自分が何を間違えたのか、輪郭だけは掴めてしまった――そういう顔だった。素直なのよね、この子。本当に。


 と、そのとき。


「――発言を求めます」


 低く、よく通る声がした。


 人垣が割れる。壁際の柱にもたれていた長身の男が、ゆっくりと歩み出てきた。夜会の華やぎから一人だけ外れた、飾り気のない濃紺の礼服。ジルベール・アルノー宰相補佐。今夜は国王陛下の名代として臨席している、と開会の折に紹介された人だ。


 そういえばこの人、さっきから――私が「深呼吸なさい」と言ったあたりから、ずっと口元を袖で隠していたわね。咳でもしていたのかしら。


「国王名代として、一点だけ確認いたします」


 ジルベール卿は殿下の前で立ち止まり、恭しく、しかし逃げ場のない角度で一礼した。


「殿下。本日の断罪について――裏付け調査の責任者は、どなたですか」


「…………」


「王族による公式の断罪は、王家の名で行われる裁きです。裁きには記録と調査が伴う。伴っていないのであれば」


 卿は顔を上げた。口元は礼儀正しく、目だけが笑っていなかった。


「これは断罪ではなく、殿下の私的な癇癪として記録することになりますが。よろしいか」


 殿下の手から、罪状の紙が、ひらりと落ちた。


   ◆


 夜会の喧噪が、扉一枚で遠くなった。


 控えの間。燭台がふたつ。国王名代の指示で「当事者からの聞き取り」の時間が設けられ、最初に呼ばれたのが私、次がミレーユ様――の予定を、私が入れ替えてもらった。正確には、聞き取りの前に二人で話す時間をいただいた。ジルベール卿は「十五分だけ」と言って、扉の外に立った。


 ミレーユ様は入ってくるなり、部屋の隅で立ち止まった。俯いて、両手を前で握って、続きの断罪を待つ姿勢で。


「座ってちょうだい。……ああ、違うの。詰めるために呼んだんじゃないわ」


 私は先に座って、卓の茶器を引き寄せた。


「怒っていません。それだけ、先に言っておくわね」


「……でも」


 言いかけて、ミレーユ様は黙った。


 私も、黙った。


 茶葉の缶を開ける。匙で二杯。湯を注ぐ。砂時計を返す。落ちる砂を、ただ見る。……この銀の砂時計、三分計かしら。ちょうどいいわ。


 砂が半分落ちた頃、向かいの椅子が、小さく軋んだ。座ったのだ。


 砂が落ち切る。私はお茶を注いで、一杯を彼女の前へ滑らせた。手はまだ膝の上。いいのよ、飲まなくて。両手の置き場所ができれば、それで。


 (急かさない。子どもが口を開くのは、訊かれた時じゃないの。大人が黙った時よ)


 果たして。


「……わたし」


 小さな声だった。


「わたし、嘘をついたつもりは、なくて」


「ええ」


「教科書がなくなったのも、お茶会に呼ばれなかったのも、ほんとうのことで」


「そうね。あれは私がしたことだわ」


「……っ、でも、階段のことは……殿下が……他にもされたことはないのかって、何度も、お訊きになるから……」


「それで?」


 殿下が、の先を、私は拾わない。拾えば、この子は殿下のせいにして楽になる。楽になった告白は、途中で止まるのだ。


「階段のときは……その、ヴィオレッタ様が後ろにいらしたのは、ほんとうで。わたし、足がもつれて、三段くらい……怖くて。あのときは、ほんとうに、押されたと……思ったんです。思って……」


 言葉が、止まった。


 目が、自分の膝の上で泳ぐ。指が、スカートの布を握る。


 時系列を、自分の口で並べてみて――気づいたのだ。あのとき自分が何を「思った」のか、何を「言った」のかの、あいだにある隙間に。


「……押されて、いません。わたし、あのとき、振り返っても、いなくて。ただ怖かったのを、あとから、あとから何度も話すうちに……」


「いいのよ。続けて」


 (気づいたわね。なら、私の仕事はもう、ほとんど終わり)


「……話すたびに、大きくなって。殿下が、ひどいなって、怒ってくださって。それが」


 ミレーユ様は、膝の上で拳を握った。


「……殿下が、わたしの話を聞いてくださるのが、うれしくて。話すたびに、わたしのために怒ってくださるのが……わたしのために怒ってくれる人なんて、いままで、いなかったから」


 出た。一番奥のが。


 私はお茶をひとくち飲んで、カップを置いた。


「そう。……ねえ、ミレーユさん。人に大事にされてうれしいのは、罪ではないわ。あなたの罪はひとつだけ。うれしさを守るために、話を大きくしたこと。それだけよ」


「それだけ、って……」


「ええ、それだけ。だから、直せるの」


 ミレーユ様が顔を上げた。濡れた目が、意味が分からない、という形をしている。


「……今さら、訂正なんて、できません。皆さまの前で、あんなに……」


「できるわよ」


 即答した。


「明日、正式な査問の場が設けられるわ。私と一緒にいらっしゃい。入り口までは、隣を歩いてあげる。中では、あなたが一人で話すの」


「……笑われます。嘘つきだと」


「言われるでしょうね、最初は」


 私は頷いた。そこを誤魔化さないのが、大人の誠意というものだ。


「でもね、訂正は恥ではないのよ。訂正しないことが、明日から先ずっと、恥になるの。……三十八年、人を見てきて、これだけは断言できるわ。間違えた人間は忘れられる。間違いを直した人間は、覚えていてもらえるのよ」


「さんじゅう、はち……?」


 ミレーユ様が、涙の途中で怪訝な顔をした。目の前の十七歳は、たしかに変なことを言った。……いいのよ、細かいことは。


「こちらの話。――お茶、冷めるわよ」


 ミレーユ様は、両手でカップを持って、ひとくち飲んだ。それから、まだ涙の残る声で、けれど今夜はじめて、まっすぐ私を見て言った。


「……明日。行きます。話します、ぜんぶ」


 ええ。それでいいの。それだけで、いいのよ。


   *


 控えの間を出ると、廊下の柱の陰に、モニカがいた。


 私の取り巻き筆頭――いいえ、私が取り巻きにしてしまった、伯爵家の娘。夜会の会場から、ずっとここで待っていたのだろう。顔色が、蝋のようだった。


「ヴィオレッタ様……わたくし、あの、教科書のことは、わたくしが」


「あれは、私が言わせたことよ」


 遮って、私は頭を下げた。今夜、二度目。


「謝るのは私。――ごめんなさいね、モニカ。あなたに、嫌な役をさせたわ」


 モニカは声も出さず、口を両手で覆った。主が頭を下げるところなど、生まれて一度も見たことがなかったのだろう。


「もし今後、誰かに、何かの証言を求められることがあったら――覚えておいて」


 私は顔を上げ、蝋色の頬に、教室でそうしていたように微笑んでみせた。


「本当のことだけ、話せばいいの。誰のためでもなく。……あなたが、夜、ちゃんと眠れるように」


 モニカの目から、ぽろりと一粒落ちたのを見届けて、私は廊下を歩き出した。


 さて。明日は査問。長い一日になるわね。……ふふ。二度目の人生でも、結局やっていることが生活指導と変わらないのは、どういうことかしら。


   ◆


 翌日の午後。学園の大講堂は、査問の場に姿を変えていた。


 壇上に査問官が三名。国王名代としてジルベール卿。傍聴席には昨夜の夜会がそのまま移動してきたような顔ぶれが、油を差し忘れた扉のような音を立てて詰めかけている。


 査問は、淡々と進んだ。


 王妃殿下のお茶会の同席者、五名の証言。医務室の記録係の証言――先月十四日、東棟での怪我人の記録、なし。ミレーユさんの証言の訂正。彼女は約束通り、入り口まで私の隣を歩き、中では一人で話した。声は三度詰まり、三度とも、自分で継ぎ直した。傍聴席のさざめきに何度も肩を揺らしながら、最後まで。……ええ。上出来よ、上出来。花丸をあげたいくらい。


 これで終わり――と、誰もが思ったとき。


「――待て! 余は、まだ証人を用意している!」


 殿下だった。


 昨夜より、目の下の隈が濃い。眠っていないのだろう。追い詰められた子が一晩で考えることは、だいたい決まっている。反省か、逆転か。そしてこの子は――逆転を選んでしまったのね。


「モニカ・アシュフォード伯爵令嬢! ヴィオレッタの側近くに仕えた者として、その素行を証言せよ!」


 傍聴席の前列から、モニカが立ち上がった。


 顔色は、昨夜の廊下より、なお白い。


 ……なるほど。そういうこと。


 昨夜、廊下で私を待っていたあの後――あるいはその前に、殿下の側から、声がかかっていたのね。哀れなほど分かりやすい筋書きだった。悪役令嬢の側近中の側近が、主の悪行を暴露する。断罪のやり直しには、たしかに一番効く駒だわ。


 モニカは証言台に立った。手の中に、小さな紙片が見えた。


「わ……わたくしは、ヴィオレッタ様の、お側に仕えて、まいりました」


 声が、紙の上を滑っていく。


「ヴィオレッタ様は、日頃より、ミレーユ様を害する意図を、周囲に、公言しておられ……階段の一件も、事前に、その、計画を……わたくしは、聞いて……」


 読んでいる。誰かに書かれた文章を。あの子の言葉は、あんな官僚の作文みたいな並びをしていない。


 査問官の一人が眉を寄せた。傍聴席が、ざわ、と揺れる。噓の証言は、耳が知っているのだ。本当の言葉と、音の温度が違うから。


 モニカの目が、泳いだ。


 紙と、殿下と、査問官と――それから、私のところへ来た。


 昨夜の廊下の、蝋色の顔がそこにあった。助けを求める目。指示を求める目。どうすればいいのか、誰かに決めてほしい目。教室で何百回も見た目だ。


 私は、何も言わなかった。


 ただ、ひとつ。頷いた。


 あなたはもう、どうすればいいか知っているでしょう、と。昨夜、渡してあるでしょう、と。それだけの頷きを。


 モニカの目から泳ぎが消えた。


 彼女は手の中の紙片を、証言台の上に、裏返して置いた。


「……申し訳、ございません」


 最初の一言は、査問官にではなく、講堂ぜんぶに向けられていた。


「今の証言は、すべて、偽りです。わたくしは、ヴィオレッタ様から階段の計画など、一度も聞いておりません。そのような計画は、存在しませんでした」


 講堂が、爆ぜた。


「この証言の文面は――昨夜、王太子殿下の側近、バルロ様より、渡されたものです。このとおりに読み上げよ、と。読めば、アシュフォード家の醜聞を、表に出さずにおいてやると」


 殿下が、椅子を鳴らして立ち上がった。


「モ……モニカ嬢!? そなた、何を――バルロ! どういうことだ!」


 その顔は、演技ではなかった。殿下は、知らなかったのだ。脅しの部分は。側近が気を利かせて汚れ仕事を抱えた――よくある構図。けれど殿下、指揮する者は、部下の汚れごと責任を負うのよ。それが上に立つということ。


 査問官が身を乗り出す。


「アシュフォード伯爵令嬢。偽証の用意を認めた上で翻すのは、あなた自身の立場も危うくする。……なぜ、今になって翻すのです」


 モニカは、少しのあいだ黙った。


 それから、まっすぐに顔を上げて、言った。


「……夜、眠れるようになりたいので」


 ――ああ。


 昨夜、廊下で渡した言葉が、一晩かけてあの子の中を通って、いま、公衆の面前に返ってきた。誰のためでもなく、あなたが眠れるように。私的に渡したはずの小さな言葉が、講堂の高い天井に、思いがけないほど響いた。


 私は膝の上で、そっと拳を握った。……花丸。今日二つ目の、特大のを。


   *


 そこから先は、早かった。


 側近バルロの喚問。罪状文書の提出――昨夜、殿下の手から落ちたあの紙は、ジルベール卿が拾って保管していた。筆跡の照合、一致。誤字三つの綴りの癖まで、バルロの直筆の書類と重なった。証言の脚本も、罪状の作文も、書いた手は同じ。


 裁定は、その日のうちに下りた。


 婚約の解消は成立。ただし事由は「王家側の調査義務の懈怠、および側近による証言工作」。ランメルト侯爵家への公式な謝罪と、賠償。私自身の三つの罪については、被害者ミレーユ・フォスター男爵令嬢への謝罪が既に成され、当人が受け入れを表明したことをもって、学園内の懲戒に留める――。証言を自ら翻した二名については、不問。査問官の一人が、記録に残らない声で付け加えた。「自浄を罰しては、次から誰も翻さなくなる」と。


 読み上げを聞きながら、私は思っていた。


 私は昨日から今日まで、誰のことも、攻撃していない。謝って、話を聞いて、お茶を淹れただけ。それだけのことが全部、こうして返ってくる。


   *


 散会した講堂の外、人気のない廊下で、殿下は壁にもたれて立っていた。


 側近は連行され、婚約者ではなくなった女が目の前を通る。廃嫡の二文字が、明日の王宮を駆け回るだろう。十八歳が一人で抱えるには、少し重い夜になる。


 通り過ぎかけて――私は、足を止めた。


 ……ええ、分かってるわ。もう他人よ。放っておけばいい。でもね、目の前に落ち込んでいる子どもがいて素通りできるなら、三十八年も続けていないのよ、あんな仕事。


「殿下」


「……嗤いに来たのか」


「いいえ。ひとつだけ、言い残したことを」


 殿下は顔を上げなかった。構わず、続けた。


「あなたの間違いは、ミレーユさんを守ろうとしたことではありませんよ。あの子の話を聞いて、あの子のために怒った。それ自体は――婚約者としては最低でしたけれど、人としては、悪くなかった」


「…………」


「あなたの間違いは、確かめなかったこと。それだけです。守りたいものがあるときほど、人は確かめなくなる。……次は、確かめなさい。怒る前に、一つでいいから裏を取る。それができたら」


 私は、昨日までの婚約者に、教え子に言うのと同じ声で言った。


「あなたは、いい王になりますよ」


 殿下が、ゆっくりと顔を上げた。何か言おうと口が開いて、閉じて、もう一度開いて――結局、言葉は出てこなかった。


 いいのよ。返事は今じゃなくて。


 私は一礼して、歩き出した。廊下の窓から差す夕陽が、ずいぶんと優しい色をしていた。


   ◆


 三日後。ランメルト侯爵邸に、来客があった。


「裁定書の正本と、王家からの謝罪状をお届けに上がりました。受領の署名を、ご本人から頂く決まりですので」


 応接間に通されたジルベール・アルノー宰相補佐は、あの夜と同じ濃紺で、革の書類鞄から紙の束を取り出した。宰相補佐が自ら配達とは、ずいぶん人手が足りないのね、王宮は。


 私は署名した。卿は書類を検め、鞄に収めた。仕事の所作は、綴じ目のように正確だった。


「以上が、公務です」


「ご苦労さまでした。お茶でも――」


「ここからは、私用になります」


 卿は、座り直した。姿勢は変わらないのに、空気の目盛りがひとつ動いた気がした。


「ヴィオレッタ・ランメルト侯爵令嬢。あなたに、結婚を申し込みに参りました」


「…………」


 ……ん?


「順を追ってご説明します。第一に、私は二十六歳、アルノー伯爵家の次男で、王宮勤めは八年目。俸給と資産の明細は後日、書面で提出します。第二に、この申し込みは私個人の意思によるもので、王家の慰撫工作や政略の類ではありません。疑わしければ調査していただいて結構です。第三に――」


「ちょ、ちょっとお待ちになって。あの、話が」


「第三に、理由を申し上げます」


 卿は、そこで初めて、書類を読む目をやめた。


「あの夜会で、あなたは断罪の只中に立って、誰の助けも求めなかった。私は国王名代として、必要とあらば介入する権限を持って、あの場にいました。……最後まで、出番がなかった。あなたは一人で場を鎮め、一人で謝り、翌日には偽証を予定していた娘の心まで、頷きひとつで返してみせた」


「あ、あれは、あの子が自分で」


「ええ。あなたは、いつもそう言うのでしょうね。生涯」


 卿は、少しだけ目を細めた。あの夜、袖で隠していた口元が、隠されないまま緩んでいた。


「私は生涯、隣であれを見ていたいのです。以上が理由です。ご返答は急ぎません。書面でも結構です」


 ――手が、滑った。


 持ち上げかけたカップが指の上で傾いで、受け皿に、がちゃん、と派手な音を立てて着地した。紅茶が跳ねて、テーブルに小さな島をつくる。


 嘘でしょう。私、いま、お茶を零しかけた? この私が?


 断罪では震えなかった手が、婚約破棄では揺れなかった指が、書類みたいな求婚ひとつで。


「……し、失礼。少し、その、驚いて」


「はい。初めて拝見しました。あなたが動じるところを」


 嬉しそうに言うんじゃないの、そこで。


 落ち着きなさい、ヴィオレッタ。落ち着くのよ。相手は二十六。こちらは中身が六十六。この人が生まれたとき私は四十――いえ、やめなさい。計算しない。世界が違うんだから換算も無効よ。無効ですとも。


「……アルノー卿。ひとつ、伺いますけれど」


「どうぞ」


「私のどこが良いのか、さっぱり分かりません。私は昨日まで悪役と呼ばれた女で、実際に罪も犯していて、おまけに、その……あなたが思っているより、ずっと、年寄りくさい女ですよ」


 我ながら、変な警告だった。けれど卿は、書類を検めるときの真剣さで、少し考えて、言った。


「存じています。あなたは十七歳の顔で、時々、長く生きた人の目をなさる。……私はどうも、そこから目が離せないようです」


 ……この男、目がいいにも、ほどがあるでしょう。


「へ、返事は」


 声が、裏返った。六十六年の人生で、一度も裏返ったことのない場所で。


「……返事は、書面で、送りますから……!」


「はい。お待ちしております。――ああ、それから」


 卿は鞄を持って立ち上がり、扉の前で振り返った。


「先日の夜会から、ずっと申し上げたかったのですが。あの夜、『深呼吸なさい』の一言で、私は笑いを堪えるのに苦労しました。……あの瞬間から、あなたに敬服しています」


 一礼して、去っていった。


 残された私は、紅茶の島の浮かぶテーブルの前で、しばらく、動けなかった。


 ……深呼吸。そうね。深呼吸しましょう。誰よりも私が、いま。


   ◆


 夕暮れの庭で、私は一人、お茶を淹れ直していた。


 湯呑みに――いえ、カップに。……もう。四十年近く直らなかった癖が、こちらの人生にまで付いてきているじゃないの。


 膝の上には、書きかけの手紙が一通。宛名だけ書いて、本文が三行で止まっている。書いては消し、消しては書き。生徒の答案なら「構成から練り直し」と朱を入れるところだわ。


 風が、庭木を揺らした。


 ……不思議な数日だった。


 婚約は消えて、罪は認めて、教え子が――違うわね、ミレーユさんとモニカが二人、明日うちにお茶に来る。殿下は王宮で、廃嫡を免れる代わりに一から帝王学をやり直すと聞いた。あの子なら、たぶん、大丈夫。怒る前に一つ裏を取ることを覚えたら、きっと。


 そして私は、返事を三日も書きあぐねている。


 前の人生で、私は結婚しなかった。しそびれた、が正しいかしら。教室と職員室と家庭訪問のあいだのどこにも、そういう時間は落ちていなかった。後悔はしていない。千人の子どもを送り出した人生に、不足なんてひとつもない。


 ――ただ。


 十七歳の顔で長く生きた目をする女から、目が離せない、と言った人がいる。私が「教える」のではなく、私を「見ていたい」のだと言った人が。


 思えば二度目の人生、生活指導はもう、ずいぶんやったのよね。断罪を鎮めて、面談をして、査問で頷いて。……ええ、もう十分。十分すぎるくらい。


 だったら、今度は。


 今度は少しくらい、私が教わる側に回っても――いいのかも、しれないわね。


 私はカップを置いて、膝の手紙を取り上げた。


 四行目の書き出しは、もう決めてある。


 ――拝復。まずは一度、お茶にいらっしゃい。話はそれからよ。




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