三月《みつき》で離縁する契約結婚のはずが——氷の辺境伯は、わたくしの夕餉《ゆうげ》の席でだけ、口を閉じてくださいませんの
結論から言う。わたくしの夫は、たぶん壊れている。
婚礼の夜だというのに、長い卓の向こうの男は、こちらを一度も見なかった。灰を溶かしたような銀の髪。氷の色をした目。声は、ない。給仕が皿を置いても、蝋燭が一本折れて煙を上げても、彼の眉はぴくりとも動かない。
“氷の辺境伯”。北の民は畏れをこめてそう呼ぶらしい。獣も隣国も、この男の前では口をつぐむのだと、輿入れの道中で聞いた。
なるほど、噂に違わぬ無口ぶりですこと。
わたくしは冷めた蕪の煮汁を匙で突きながら、心のなかで拍手した。だってこの人、婚礼の宴のあいだ、たったの一言も喋らない。「ようこそ」もない。「腹は減っているか」もない。彫像とだって食事ができそう。
婚礼の広間は、しんと冷えていた。祝いの席だというのに、飾りらしい飾りもない。招かれた客も、数えるほど。北の寒村の顔役が幾人か、居心地悪そうに末席に並ぶだけ。
王都からは、誰も来なかった。父も、姉たちも。厄介払いにした娘の婚礼に、馬を仕立てる値打ちもないと踏んだのだろう。
ミラベル・アシュレイ、十九。没落した伯爵家の末娘。王都では厨房の隅が居場所だった。それが今日から、北の辺境グラウフェルト領の、辺境伯夫人である。
ただし、三月のあいだだけ。
「三月、形だけ夫婦をつとめれば、あとは穏便に離縁してよい」。父がそう持ちかけ、この男がうなずいたと聞いている。要するに、荷物の受け渡しだ。わたくしは荷物のほう。
それでも、と冷めた蕪をひとかけら含んで、わたくしは眉を寄せた。
……この煮汁、塩を入れすぎている。蕪の甘みが死んでいる。北の水はあくが強いのだから、下茹での湯を一度替えればいいだけの話。
気づけば、匙を置いていた。
「あの、辺境伯さま」
初めてかけた声に、氷の目がこちらを向いた。射抜くような視線だった。給仕がびくりと肩をすくめる。ああ、なるほど、これで皆黙るわけね。
けれど、わたくしは料理人だ。刃物より熱い鍋のほうが、よほど怖い。
「厨房を、少しお借りしてよろしいかしら」わたくしはにっこり笑った。「嫁いだ初日から言うのもなんですけれど。この蕪、あんまりにもかわいそうですの」
厨房は、寒々しかった。
火は落ちている。竈には灰。棚には塩漬けの肉。干した根菜。麦。北の茸が少し。砂糖はない。新鮮な菜も、香辛料もない。王都の宮廷厨房を知る身には、拷問のような品揃えだ。
でも、と袖をまくって、わたくしはにやりとした。乏しい食材ほど、腕の見せどころ。
塩漬け肉を薄く削ぐ。湯にくぐらせて塩を抜く。硬い水で下茹でした根菜を、抜いた肉の脂で炒める。干し茸を戻した汁を出汁にして、麦を放り込む。ことこと煮る。最後に、棚の奥で見つけた蜂蜜をひとさじ。甘みは砂糖でなくてもいい。
湯気が立つころには、寒い厨房が、少しだけ人の匂いになっていた。
一椀、器によそう。まだ湯気を立てるそれを盆に載せ、食堂へ戻る。
辺境伯は、まだ卓の同じ席にいた。動いていない。離縁予定の妻を待っていたわけでもないでしょうに。
「お口に合うかは、わかりませんけれど」
わたくしは、彼の前に椀を置いた。麦と根菜と塩漬け肉の、ただの雑炊だ。
男が、匙を取った。ゆっくりと、ひと匙。
その瞬間を、わたくしは今もよく覚えている。氷の目が、わずかに——ほんのわずかに、見開かれたのを。
「……塩を抜いたのか」
声だった。低く、掠れた、けれど確かに言葉になった声。
「湯に二度くぐらせましたの」わたくしは驚きを顔に出さないよう努めた。「北の塩漬けはしょっぱすぎますから。そのまま煮ると、しょっぱさで舌が疲れて根菜の甘みまで届きませんのよ」
「この麦は備蓄の下等品だ。粥にしても粘るだけで、皆残す」
「戻した茸の汁で炊けば、粘りが旨みに化けますの。ほら、粘るのも悪いことばかりじゃありませんわ」
「蜂蜜が入っているな」
「よくお気づきで。ひとさじだけ」
「北の蜂蜜は夏の花が短い。だから香りが濃い。南の甘ったるいのとは違う。祖父の代に、崖の巣を採る老人がいてな。命綱一本で岩棚まで下りて、それはよく肥えた巣を採ってきた。あの蜜で焼いた菓子を、昔は北でも——」
……あら?
わたくしは、匙を宙に浮かせたまま固まった。
喋っている。この人が、喋っている。
崖の蜜から、祖父の話へ。祖父の話から、昔は北にも菓子職人がいたという話へ。話は次から次へと出てくる。低い声。たどたどしい。それでも止まらない。さっきまで彫像だった男が、今は雑炊の椀を前に、少年みたいに喋っている。
給仕が、盆を取り落としかけた顔でこちらを見ていた。たぶん、わたくしも同じ顔だった。
……この人、絶対、自分が喋ってることに気づいていない。
翌朝の食堂で、その仮説は確信に変わった。
朝の卓についた辺境伯は、また彫像に戻っていた。
「おはようございます、辺境伯さま」
「……ああ」
それきり。朝の挨拶さえ惜しむ無口ぶり。昨夜の饒舌が幻だったのかと、疑いたくなる。
けれど、わたくしは料理人であると同時に、少々の悪戯者でもある。仮説は検証しなければ、気が済まない。
だから昼、わたくしはまた厨房に立った。干し肉と根菜。川で獲れたという小魚。焼いて、香草を散らし、酢を効かせた一皿。
卓に出す。男が、ひと口食べる。
「……この酢は林檎か」
来た。
「よくおわかりで。北の酸っぱい林檎を醸したものを、蔵で見つけましたの」
「北の林檎は甘くならん。だから昔から酢か酒にする。この酸は、東の谷のものだ。あの谷は日当たりが悪くて、実が硬い。硬い実ほど、醸すといい酸になる」
……また、喋りだした。
その日から、わたくしのささやかな観察日誌が始まった。
朝の卓、無言。昼の卓、料理を出すと饒舌。夜の卓、同じく饒舌。共通点は明白。彼は、わたくしの料理を口にした瞬間だけ喋る。それも、本人はまるで気づかぬまま。
三日目には、わたくしは意地の悪い実験を思いついた。
その昼、わたくしは同じ皿を二つ用意した。片方を辺境伯の前に。もう片方を、同席していた副官の前に。
副官は困った顔で、けれど旨そうに食べた。無言だった。
辺境伯も食べた。そして、喋った。焼いた小魚の骨の外し方。北の川がいつ凍るか。凍った川で魚を突く猟のこつ。
「なるほど?」わたくしは、匙を止めて首をかしげた。「料理が引き金……ではないのね。わたくしの作ったものを、あなたが召し上がったときだけ」
辺境伯は、不思議そうにこちらを見た。何を言っているのか、というふうに。ますます面白い。
「奥様」
その晩、厨房の戸口で声をかけてきたのは、老いた家政婦頭のマーサだった。この家でただ一人、辺境伯を少しも恐れない人。輿入れの日から、わたくしの味方でいてくれる。
「旦那様は、今朝も食堂の窓辺に立っておいででしたよ。奥様が厨房から戻る時刻の、少し前から」
「まあ。窓の外に、何かおありでしたの?」
「いいえ。奥様の足音を待っておいででしたのよ」
「足音、ですって?」
「あの方があの席に座られるのは、奥様がいらしてからです。それまで、旦那様が食堂に長居なさったことは一度もございませんでした。わたしはこの家に仕えて六十年、旦那様を赤子のころから見てまいりましたけれど」
……わたくしは、しばらく返す言葉が見つからなかった。
六十年この家に仕えたという老女の目は、若く、優しく、少し悪戯っぽく光っていた。
辺境の暮らしは、王都とはまるで違った。
朝は凍える。井戸の水は歯が痛むほど冷たい。街道の要衝ゆえに、旅人と荷が絶えず、そのぶん争いも絶えない。北の森からは、季節の変わり目に魔物が下りてくる。熊よりひとまわり大きい、獣に似た災いだ。領兵はそれを狩り、村を守る。辺境伯は、その先頭に立つ男だった。
わたくしは厨房から、少しずつ領を知った。
塩漬けと干物ばかりの食卓に、飽きた顔をしている兵たち。冬を越すだけで精一杯の村。砂糖を知らない子供たち。ここには、料理人の仕事が山ほどある。
ある日、余った蜂蜜と麦で、素朴な焼き菓子を作った。厨房の子供たちに配ると、目を丸くして頬張った。
「奥様、これ、なあに」
「お菓子よ。甘いでしょう?」
「あまい……」
その顔を見ていたら、胸の奥がじんと温かくなった。ああ、そうだ。わたくしはこの顔が見たくて、料理人になったのだった。厄介払いされた身でも、それだけは、誰にも取り上げられない。
夜、その焼き菓子を、辺境伯の卓にも一つ置いた。
男は、それを食べて、また喋った。来年の畑をどう増やすか。北の冬をどう越すか。低い声だけれど、その横顔は、いつもよりずっと機嫌がよさそうだった。
「奥様」給仕が、信じられないという顔で、こっそりわたくしに耳打ちした。「旦那様が……あんなに楽しそうなお顔を、なさっています」
「壊してしまったかしら?」
「いいえ。むしろ、直っているのだと思います」
魔物が下りてきたのは、その数日後だった。
夜半、館の鐘が鳴った。けたたましく、緊迫して。わたくしは飛び起きた。廊下は松明の火で赤い。兵が駆けていく。
「奥様、下がっていてください!」若い兵が叫んだ。「北の森から、大熊が三頭。村の柵を破りました!」
「辺境伯さまは?」
「先頭で、もう出られました!」
わたくしは、寝間着の上に上着を羽織り、厨房へ走った。逃げるためではない。こういう夜に、料理人にできることが、ちゃんとあるからだ。
竈に火を熾す。大鍋を据える。塩漬け肉と根菜を、片端から放り込む。手負いの者が戻る。凍えた者が戻る。そういう夜に、温かいものが一杯あるかないかで、人の生き死には変わる。宮廷では学べなかったことを、わたくしはこの辺境で学んでいた。
「マーサ、湯をありったけ! 布と、あの北の根を持ってきて!」
「はい、奥様!」
夜明け前、兵たちが戻ってきた。泥と血にまみれて。ひとりは肩を裂かれ、ひとりは足を引きずっていた。それでも、皆、生きて。わたくしは鍋の前で、一杯ずつ椀を配った。
「食べて。冷えた体に、これがいちばん効きますの」
「……あったけえ」髭面の兵が、椀を両手で抱えて呟いた。「奥様。おれ、こんな夜にあったかい飯が食えるなんて、思ってなかったです」
「これからは毎回ですわ。生きて帰ってきさえすれば」
最後に戻ったのが、辺境伯だった。
右腕を、浅く裂かれていた。血が乾いて、袖に貼りついている。それでも背筋は伸び、目は氷のまま。兵たちが、彼を見て、はっと居住まいを正す。この人が先頭に立つから、この領は保っている。ひと目で、そうとわかった。規格外、というのは、こういうことを言うのだ。
わたくしは、何も言わずに彼の腕の傷を布で拭った。北の根を潰した汁を塗る。しみるはずだ。けれど彼は、眉ひとつ動かさない。
そして、椀を差し出した。
「お座りになって。血を流したあとは、体が甘いものを欲しますの」
男は、椀を受け取り、ひと口含んだ。
「この根菜は南の畑のだな。甘みが違う。北の畑も土を入れ替えれば、こういうのが穫れる。子供のころ、一度だけ、旅の男が土の作り方を教えてくれた。あれを、ちゃんと覚えておけば——」
あれだけの血を流して、大熊を三頭も狩って帰って、この人は、わたくしの椀を前にまた喋りだすのだ。疲れも痛みも、忘れたみたいに。
髭面の兵が、こっそりわたくしに囁いた。
「奥様。閣下が戦のあとに口をきくの、初めて見ました。おれたち、いつも労いのひと言もねえもんで」
「あら。今夜からは、ひと言くらいあるかもしれませんわよ」
わたくしは笑って、けれど鼻の奥がつんとした。
労いの言葉さえ知らずに、この人はずっと一人で、北を守ってきたのだ。
隣国も、この隙を狙っている。魔物に領が削られれば、つけ込まれる。だからこそ、来たる同盟の宴が要なのだと、わたくしはこの夜、はっきりと理解した。あの宴はただの晩餐ではない。この人が一人で背負ってきた北を、分かち合うための生命線なのだ。
嵐が来たのは、その翌週だった。
北の嵐は、王都のそれとは比べ物にならない。屋根が唸る。窓が軋む。蝋燭の炎が横倒しになる。領の者は慣れた様子で戸を閉ざし、灯りを絞り、夜をやり過ごす。
わたくしは眠れず、厨房で湯を沸かしていた。こんな夜は、体の芯が冷える。温かいものを一杯、と思って回廊を歩いていて、気づいた。
辺境伯が、暗い食堂に一人で座っていた。
灯りもつけず、卓の同じ席に。片手で右の脇腹を押さえている。その手が、かすかに強張っている。稲光の一瞬で、それが見えた。
「……辺境伯さま?」
答えはない。無言だ。けれど、それが痛みを堪える無言だと、料理人の目にもわかった。人が痛みを隠すときの、あの息の詰め方。
わたくしは、何も訊かずに厨房へ戻った。
生姜に似た北の根を薄く刻む。蜂蜜と、少しの酒を落とし、湯を注ぐ。体を内から温め、痛みをやわらげる椀。宮廷では、王が古傷に悩む夜に、こういうものをよく作った。
湯気の立つ椀を、暗い食堂の彼の前に置く。
「薬ではありませんの。ただの温かい飲み物。飲まなくても、手を温めるだけでも」
長い沈黙のあと、大きな手が椀を包んだ。ひと口。ふた口。
「……古い傷だ」ぽつりと、声が落ちた。「隣国との境の戦で。もう痛まないはずが、嵐の夜だけ疼く」
「そう」わたくしは、向かいには座らず、彼の斜め後ろに立ったまま、うなずいた。
「俺は、北で生まれた」
声は、途切れ途切れだった。それでも、止まらなかった。夜の暗さが、彼の何かをほどいたのかもしれない。
「子供のころ、冬になると、いつも腹が減っていた。父は戦に出ていた。母は早くに死んだ。旨いものなど、食べた記憶がない」
稲光。彼の横顔が、一瞬白く浮かぶ。
「食卓というのは、皆が黙って腹を満たして、すぐ立つ場所だった。誰もそこで喋ったりはしない。喋る、という習慣を、俺は持たずに育った」
彼は、椀を見つめたまま、続けた。
「だから、わからないんだ。お前が来てから、俺はなぜか、食卓を立ちたくない。理由が、わからない」
わたくしは、息を止めた。
この人は、たぶん気づいていない。自分がわたくしの前でだけ喋りたがること。それが何なのか。まだ名前を知らないのだろう。生まれてこのかた、誰も教えてくれなかったのだから。
わからないふりを、しておくことにした。まだ名前を知らないほうが、いいこともある。
「……お飲みになったら、お休みくださいませ」
わたくしは、それだけ言った。胸のなかが妙に温かくて、軽口がひとつも出てこなかった。
「三月で、離縁だったな」
背を向けたわたくしに、彼がふいに言った。声が、少し硬い。
「ええ。契約ですもの」
「……そうか」
辺境伯は、それきり黙り込んだ。今度の沈黙は、いつもの氷の無言とは、少し違う色をしていた。わたくしには、それがなぜだか、わかってしまった。
異変に気づいたのは、その数日後の朝だった。
厨房の棚に、見慣れないものが並んでいた。
艶のある南の菜。白い、きめの細かい小麦粉。小さな壺には、本物の砂糖。そして、乾いた香辛料が幾種類か。北の辺境の厨房には、あるはずのないものばかり。
わたくしは、砂糖の壺を手に取って、ぽかんとした。
「マーサ。これ、どうしたの?」
「さあ」マーサは、素知らぬ顔で竈を磨いていた。素知らぬ顔が、下手すぎた。
「マーサ」
「……昨日、旦那様が」老女は、とうとう観念して口を開いた。「街道を通りかかった隊商を呼び止めて、南の品を根こそぎ買い上げられたのですよ。北の値で南の菜を買うなんて、正気の沙汰ではありませんのに」
「なぜ、そんなことを」
「奥様が、先日おっしゃったでしょう。砂糖があれば、もっと甘いお菓子が作れるのに、と。ひとりごとのように」
わたくしは、その日のことをたしかに覚えていた。誰に言うでもなく、鍋の前でふとこぼしただけ。
「あの方は、聞いておられたのですよ。奥様のひとりごとを、ぜんぶ」
その夜、わたくしは砂糖を使った焼き菓子を、辺境伯の卓に置いた。ついでに、少しだけ意地悪をしたくなった。
「辺境伯さま。この砂糖、どちらから?」
「……備蓄だ」
「あら。北の辺境に、砂糖の備蓄が?」
「……たまたま手に入った」
「たまたま、隊商を呼び止めて、根こそぎ?」
男の手が、ぴたりと止まった。氷の目が、わずかに泳ぐ。喋りたがりのくせに、こういうときだけ言葉を失うのだ。
「わたくし、南の菜が欲しいなんてお願いしましたかしら?」
「……していない」
「では、なぜ?」
「……お前が、あの朝そう言った。厨房で。菓子が作りたいと」
ほら、覚えている。ぜんぶ。
わたくしは、笑いを堪えるのに苦労した。堪えきれずに、ひとつ口笛を吹いてしまう。辺境伯が、また不思議そうな顔をした。ごめんなさい。あなたのことが可笑しくて、少しだけ愛おしいんですの。とは、まだ言えなかった。
あの氷の辺境伯が、隊商の荷を前に、どれがいちばん甘いかと難しい顔で悩んでいる。その姿を想像したら、また笑いがこみ上げてきて、わたくしはしばらく肩を震わせていた。
「奥様」帰り際、マーサがそっと囁いた。「旦那様はあの砂糖の壺を選ぶのに、隊商の前でたっぷり半刻も悩んでおられたそうですよ。どれがいちばん甘いか、と」
同盟の宴は、それから半月後に迫っていた。
隣領の領主一党を招き、街道の護りを分かち合う盟約を結ぶ。グラウフェルトの生命線となる宴だ。厨房を任されたわたくしは、乏しい食材と半月かけて格闘した。隊商から手に入った南の品は、菓子の仕上げにいくらか回せた。けれど、大勢の膳を支えるのは、やはり北の乏しい蓄えだ。塩漬けを塩梅する。干した実で甘みを組む。北の茸で出汁の層をつくる。貧しさを、工夫で覆い隠す。それが料理人の戦だ。
宴の招待客の名簿を見て、わたくしは小さく笑ってしまった。
末席に、アシュレイの名。父の名代として、遠縁の男が来るという。厄介払いにした娘が辺境でどう朽ちたかを、見物に来るのだろう。ついでに、わたくしを「地味な出戻り予備軍」と嗤って婚約を切った、あの家の者まで、隣領の縁に連なって列席するらしい。
まあ、いいでしょう。せいぜい、辺境の飯の旨さに驚いていってくださいまし。
宴の夜。長い卓に、北の恵みが並んだ。辺境伯は上座に、無言で座している。招かれた隣領の領主は、上機嫌だった。盟約は、滞りなく結ばれるはずだった。
「これはこれは、アシュレイの末の姫君」
末席の遠縁の男が、わざとらしく声を張った。皆に聞かせるために。
「辺境で鍋など振っておられるとか。伯爵家の名も地に落ちたものだ。姫君みずから前掛けとは、いやはや」
くすくす、と幾人かが笑った。わたくしを切った家の者も、扇の陰でこちらを見て嗤う。
わたくしは、前掛けの紐を結び直しながら、にっこり笑った。
「あら、ご心配なく。この前掛けは、伯爵家の名よりよほどわたくしを守ってくれますの」
「ほう。前掛けが何を守ると?」
「今にわかりますわ」
言い返しながら、わたくしは卓の間を給仕とともに動いていた。目と鼻を、休めずに。宮廷の厨房で叩き込まれた癖だ。王の卓に出る皿は、すべて自分の目を通す。毒味は、料理人の仕事のうち。
異変に気づいたのは、給仕が、隣領の領主の前に一皿の酒煮を運んでいったときだった。
その皿から、ふわりと立ちのぼった匂い。
……あら?
わたくしの鼻が、先に動いた。甘い、けれどどこか金気を帯びた、青くさい香り。北の茸の出汁にはない匂い。わたくしが仕込んでいない匂い。
気づけば、前掛けの下で、指が見えない包丁を小さく刻んでいた。厨房で剣呑なものに出くわしたときの、わたくしの癖だ。
わたくしは前掛けのまま、卓の間を滑るように進み、給仕の盆に手をかけた。
「お待ちになって」
場が、ざわりとした。辺境伯夫人が、宴の最中になぜ給仕を止めるのか。末席のアシュレイの男が、待ってましたとばかりに嗤う。
「これだから料理女は。躾もなっておらん。宴をなんと心得る」
わたくしは、皿を持ち上げた。匂いを嗅ぐ。そして、舌の先で、煮汁をほんのひとしずくだけ確かめた。
舌の奥が、しびれた。ほんの少量。それでも、心の臓がとくりと跳ねる。指先が、冷たくなっていくのがわかった。
「……この皿には、鈴蘭の根が煮込まれておりますわ」
静まり返った食堂に、わたくしの声だけが響いた。
「鈴蘭は可憐な花ですけれど、根も葉も強い毒を持ちますの。少量で、心の臓を狂わせます。北の茸の甘みに紛れて、匂いはほとんど消えている。わたくしの舌でなければ、気づけなかったでしょうね」
わたくしは、顔を上げた。そして、青ざめて腰を浮かせた隣領の領主に、静かに言った。
「あなたに供される、はずでしたの。あとひと口で」
「わ、わたしは……危うく……」領主が、椅子の背をつかんで喘いだ。
わたくしは、皿を給仕の盆に戻し、その盆が通ってきた道を、指で辿ってみせた。
「この皿だけ、わたくしの仕込んだ出汁と匂いが違いますの。厨房を通っていない。この盆は、東の廊下から運ばれましたわ。厨房は西。——宴の途中で、あとから差し込まれた一皿。同盟を結ばせたくない誰かが、この場にいらしたようですわね」
その東の廊下から盆を受け取った給仕を、辺境伯の目が、ぎろりと射た。給仕は震える指で、末席近くに座す隣領の従者を指した。衛兵が、その男を取り押さえる。宴が、凍りついた。
「……盟約さえ、流れてくれれば」取り押さえられながら、従者が呻くように漏らした。それきり、口をつぐむ。この盟約を疎む一派が、隣領の内にいるらしい。——わたくしにわかったのは、そこまでだった。誰がこの男を動かしたのかは、まだ闇のなか。
わたくしを嗤ったアシュレイの男は、ぽかんと口を開けていた。毒を仕込んだ従者とは、面識もなさそうだった。地味な娘を見物に来ただけの男には、この場で何が起きているのか、まるでわかっていない様子だった。
そして。
「——よくやった」
上座から、低い声がした。氷の辺境伯が、立ち上がっていた。
彼はゆっくりと卓を回った。ざわめく客の間を抜けて、わたくしの前に立つ。皆の見ている前で、大きな手が、わたくしの手を包んだ。毒を確かめて、まだ冷たく強張っていた、わたくしの指を。
「震えているな」
小さく、彼だけに聞こえる声で言った。それから顔を上げ、広間じゅうに響く声で告げた。
「この女の舌が今夜、俺の領と客の命を救った」
辺境伯は、言葉を探すように、区切りながら言った。喋ることを教わらずに育った男が。衆目の前で。
毒を盛った従者は、もう衛兵の手の中にある。その裏に誰がいたのか、始末は、あとでいい。——氷の目が、今度は、毒とは何の関わりもない末席へ、まっすぐに向いた。娘の婚礼に、馬一頭寄越さなかった、あの家の者たちへ。
「アシュレイの縁者が、そこにいるな」
末席の男が、ひっと喉を鳴らした。
「聞いておけ。お前たちが厄介払いにした娘は、俺の食卓を、俺の領を、俺の命を、その手で守った。俺は生まれて一度も、飯の席で喋ったことがなかった。この女が来るまでは」
広間の誰もが、静まり返っていた。壁際で、マーサがそっと目元を押さえたのが見えた。
辺境伯は、わたくしの指をそっと握り直した。そして言った。
「この女の飯を、三月で手放す気は、俺には最初からなかった」
わたくしを地味だと嗤った家の者たちが、扇を握ったまま、呆然と立ち尽くしていた。厄介払いにした娘が、氷の辺境伯にただ一人選ばれ、衆前で守られている。その光景を、ただ見ているしかなくて。扇はもう、誰の口元も隠していなかった。
いい気味、とまでは言わない。言わないけれど。
……ふふ。少しだけ、胸がすっとしましたわ。
宴のあとの、静かな食堂で。
「契約のこと、ですけれど」わたくしは、卓の同じ席に座る夫の前に、湯気の立つ椀を置いた。「三月で離縁、というお約束でしたわね」
「……ああ」辺境伯が、身を固くした。氷の目の奥が、ほんの少し揺れた。
わたくしは、笑いを堪えるのにまた少し苦労した。この人、衆前であんなに堂々と言い切ったくせに。二人になると、途端にこれなのだから。
「先ほど、皆さまの前で大変な啖呵を切っておられましたわよね。あれ、契約違反ですわよ」
「……そうだな」
「破っておいて、いまさら黙り込まないでくださいまし」
「……すまん」
「謝るところ、そこじゃありませんわ」
辺境伯は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「……なぜだ」
「なにが、ですの?」
「お前の前でだけ、俺は口が止まらない。他の誰の前でも、こんなことはない。これは、なんだ」
まっすぐな目だった。本気でわからないのだ、この人は。喋ることを教わらずに育って、いまごろになって、生まれて初めての感情に名前を探している。
わたくしは、教えて差し上げようかと一瞬思った。けれど、やめた。
「さあ。なんでしょうね」わたくしは、わざと首をかしげた。「それはご自分で見つけるのが、いちばんですわ。ゆっくりで結構ですのよ。急いで離縁する予定も、もうございませんし」
隣領との盟約は、あのあと無事に結ばれた。毒を見抜いた辺境伯夫人の名は、宴の夜のうちに隣領まで届いたらしい。あの領には、氷の辺境伯と、恐ろしい舌の奥方がいる、と。北の護りは、その日ひとつ厚くなった。この人が一人で背負ってきた重みが、少しだけ分けられたのだ。
わたくしは、匙を彼のほうへ押しやった。
「さあ、召し上がって。今夜の献立、品数を増やしましたのよ。三月ぶんじゃ、とても足りませんもの」
男が、椀を取った。ひと口、含む。
そして、また喋りはじめた。この椀の根菜がどこの畑のものか。来る冬の蓄えをどうするか。来年こそ崖の蜂蜜を採らせようか。低い声で、けれど、もう止まらずに。自分が今どれほど幸せそうな顔をしているか、まるで気づかぬまま。
戸口で、マーサが含み笑いをしていた。
「奥様」老女は、そっと囁いた。「あの方があんなに喋るお姿を見られる日が来るとは。長生きは、してみるものですねえ」
「あら」わたくしは、喋り続ける夫を眺めて肩をすくめた。「それは大変。これからは毎晩ですわよ、マーサ」
わたくしの、壊れた——いいえ。
わたくしの、少しばかり不器用な夫は、今夜も、わたくしの夕餉の席でだけ、いつまでも口を閉じてくださらないのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、「誰の前でも一言も喋らない氷の男が、ヒロインの食卓でだけ喋りすぎる」というギャップ一本で書きました。しかも本人は、それが溺愛だと最後まで気づいていない——という、ちょっと意地の悪い構造です。
溺愛って、豪華な贈り物や甘い台詞だけじゃないと思うのです。喋ることを教わらずに育った人が、ある人の前でだけ、なぜか口をつぐめなくなる。当人は理由もわからないまま、ただ食卓を立ちたくない。その不器用さこそが、いちばん愛おしい。そう思いながら書きました。ミラの軽口とマーサの“翻訳”で、湿っぽくならず、くすっと笑って読めるようにしたつもりです。
毒を舌で見抜く一手は、ミラが「料理人」であることの必然として置きました。彼女はただ甘やかされる令嬢ではなく、腕で辺境伯の命を救う人であってほしかったので。
◇◆◇ 「溺愛シリーズ(ギャップ溺愛)」 ◇◆◇
規格外の男が、有能な令嬢にただ一人だけ甘い——。
ヒロイン視点で描く、ギャップ萌え溺愛の短編シリーズです。
冷徹も、傲慢も、人外も、政略も——一作ごとに違う「彼」が出てきます。
次は、また別の「彼」で。ツンデレでも、わんこ系でも、氷でもない、まだ見ぬギャップを探しています。
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