第3章 第95話 燃料費の現実
第3章 第95話
燃料費の現実
白硬材候補という仮名が決まった翌朝から、ラウゼンの街はいつもより白く見える気がした。
実際に街が変わったわけではない。石畳の目地に残る砂、荷馬車の轍に溜まった灰色の泥、工房街の屋根から流れる薄い煙は昨日と同じだった。ただ、ソーマの目が変わっていた。名を得たものは、試験棚の中だけに留まらない。これから人の噂にのぼり、袋の札に書かれ、職人の耳へ届くかもしれない。
だが、その先に、立っていたのは輝かしい発明の喜びではなく、薪の山だった。
イヴァンの石灰焼き窯は、ラウゼンの南端、風下に置かれた窯場の一角にあった。朝早くから男たちが薪を割り、炭袋を運び、炉口の灰を掻き出している。火の匂い、湿った土の匂い、焼けた石の乾いた匂いが混ざり、喉の奥にざらりと残った。
ソーマは窯の前で足を止めた。
白硬材候補は、白灰と焼き粘土粉を必要とする。どちらも、ただ地面から掘ってくれば済むものではなく、焼かなければならない。熱をかけ、時間をかけ、燃料を使う。
「来たか、候補の先生」
イヴァンが炉口の横から顔を出した。煤で額が黒く、髪の先には灰がついている。
「先生ではありません。しかも候補です。材料としてはやらなければならないことがあります」
「そこを直すあたり、フェルドの弟子だな。まあ、候補でも薪代は安くならんが」
その言葉は冗談めいていたが、ソーマにはこたえた。
今日は大量の焼成試験をしに来たのではない。
むしろ、老師に止められた。
仮名が決まったから試験を増やしたい、とソーマが言った時、フェルド老師は「燃料表を見てから言え」とだけ答えた。メイナは粉塵の記録を持ってきて、ナーシャは洗い水の沈殿表を机に置いた。
つまり、増やす前に必要量を数えろ、ということだった。
窯場の作業台には、イヴァンが用意してくれた古い焼成記録が並んでいた。
石灰石の量。
石の大きさ。
薪の束数。
炭の量。
火入れの時刻。
冷ましの時間。
歩留まり。
未焼成で戻した石。
焼きすぎて使いにくかった石。
文字として見れば簡単だった。だが、その一つひとつの後ろには人の手と金がある。
「白硬材候補を、試験片一枚ではなく、壁一面分に増やすなら」
「薪が足りないな」
イヴァンは即答した。
「森もな」
その一言で、ソーマの胸の奥が冷えた。
便利な材料を作ることは、どこか別の場所から何かを持ってくることでもある。白硬材候補が雨に強い壁を作れるかもしれないとして、その代わりに薪が減り、炭が減り、運ぶ人が増える。炉は熱くなり、粉は舞い、煙は街に落ちる。
発明は、箱の中で完結しない。
ソーマは記録帳を開いた。
「まず、今日見るのは既存記録だけにします」
「珍しく賢い」
イヴァンが笑った。
「試験したい顔に見えます」
「してるな」
「でも、条件を決めないまま燃やすと、薪を燃やしただけになります」
メイナが窯場の入り口から口を挟んだ。
「粉も増えるよ」
彼女は首元に布を巻き、粉を払うための小さな刷毛を腰に下げている。
「昨日から白い粉が増えてるって。風下の洗濯屋が眉を吊り上げてた」
その後ろにはナーシャもいた。水瓶を抱え、いつもより真面目な顔をしている。
「洗い水も増えてます。粉を流せば消えるわけじゃないです。沈みます。底に溜まります。水の子たちは、そういうのを忘れられると困ります」
白硬材候補は名前を得たばかりなのに、すでに周囲では広まりつつあるようだ。
ソーマは、既存記録の横に費用表を作った。
白灰。
焼き粘土粉。
砂。
水。
燃料。
人手。
粉塵対策。
洗い水処理。
廃灰。
保管場所。
最初は材料費だけを書こうとしていた。
けれど、それだけでは足りないことが分かった。袋を運ぶ人の賃金がいる。粉を吸わないための布がいる。洗い水を沈ませる桶がいる。濡れ布を清潔に保つ手間がいる。燃やした後に残る灰をどこへ置くかも決めなければならない。
イヴァンは、作業台に小さな木札を並べた。
「壁一面、と言うと簡単だが、実際にはこうだ」
木札一枚が白灰一袋。
別の札が焼き粘土粉。
薪束、炭袋、荷運び、炉番、粉を払う布、洗い水桶、保管棚。
札が増えるたび、作業台は狭くなっていった。
「試験片なら、この端っこで済む」
イヴァンは指で小さな区画を示した。
「だが壁になると、机の上を埋める。橋だの水路だのと言い出せば、机どころか窯場が埋まる」
ソーマは木札の数を見つめた。
数字だけで見るより、多く感じる。
材料が増えるということは、袋が増えることだ。袋が増えれば、持つ手が増える。手が増えれば、間違える場所も増える。
「札も増やさなければいけませんね」
「そうだ」
イヴァンは頷いた。
「名前をつけた材料は、勝手に歩いていく」
「粉塵対策も材料費ですか」
ナーシャが尋ねる。
「材料費というより、作るために必要な費用」
「じゃあ入れないと駄目です」
「うん」
ソーマは頷いた。
水差しの横で、ナーシャは満足そうにした。
火属性の職人ミルカは、炉の色を見ながら記録板を覗いた。
「火魔術の欄は、どう書きますか」
ソーマは答えた。
「火をつける補助。立ち上がりの補助。炉の端が冷えすぎないようにする補助。熟練者が必要なら、その人手も費用です」
ミルカは、少し意外そうな顔をした。
「火魔術を使えば安くなる、って言われることが多いんです」
「安くなる場合もあると思います。でも、火魔術師の時間も燃料代に入ります」
イヴァンが大きく笑った。
「いいこと言うじゃねえか。ミルカの昼飯代も燃料表に入れてやれ」
「そこまでは」
「入れろ。腹が減った火術師は火を見誤る」
冗談のようで、半分は本気だった。
一般に、火の魔術は派手に燃やすものだと思われがちだった。だがラウゼンで暮らすうち、ソーマはそれが半分しか正しくないことを知った。
朝の市場では、パン焼き窯の火起こしを手伝う者がいる。湯屋では湯を冷まさないために雇われ、染物屋では煮染めの温度を保ち、鍛冶場では炉の熱を読み、料理屋では忙しい時間帯に火の勢いを整える。火を使える者は食いっぱぐれがない、とラウゼンではよく言われるらしい。
ただし、それは火球を放てるからではない。
火を安全に扱えるからだ。
薪を無駄にせず、釜を焦がさず、布を燃やさず、炉を割らず、安全に熱を動かせる。街の暮らしは、思っていた以上に熱を必要としていた。
「火を大きくするだけの人は、怖がられます」
ミルカは炉から目を離さずに言った。
「よく燃やす人より、同じ熱を保てる人のほうが雇われます。あと、毎日同じ時間に来る人。火は待ってくれないので」
それは研究にも似ている、とソーマは思った。
才能より再現性。
派手さより継続。
力より管理。
既存記録を追っていくと、白灰の問題が少し見えてきた。
石を大きく残すと、焼け残りが出る。
小さく割りすぎると、粉が増えて舞う。
炉の奥は焼けやすく、端は遅い。
急いで冷ますと、扱いにくい塊が混ざる。
燃料を削ると、芯の残る石が増える。
どれも当たり前のようで、重要である。
イヴァンは古い焼成石の見本を持ってきた。
すべて過去の作業で出たものだ。札には日付、炉の位置、処理後の扱いが残っている。
「これは芯残り」
彼は灰色を帯びた石を机へ置いた。
「見た目は白いが、中が足りねえ」
次に、妙に締まった白い塊を置く。
「こっちは焼きすぎだ。粉にしても働きが鈍い」
ソーマは触れずに観察した。
色。
割れ面。
重さの感じ。
叩いた時の音。
土魔術を使えば、内部の詰まり方の違いを手応えとして感じられるかもしれない。けれど、それで焼成状態を確定したとは書かない。焼け残りかどうかは、職人の割った断面、重さ、発熱の確認、過去記録を合わせて判断する。
ソーマは記録欄を分けた。
目視。
叩音。
職人判断。
土魔術の手応え。
未確認。
マルドに言われた通り、魔術感覚は別欄にした。
その横に、ソーマは「費用として見えにくいもの」という欄も作った。
煙。
粉で汚れた布。
作業後の咳。
炉を休ませる時間。
洗い水を置く場所。
窯場の周りの苦情。
銅貨で数えにくいからといって、費用ではないわけではない。
メイナはその欄を見て、指で「粉で汚れた布」を叩いた。
「これ、ちゃんと入れて。洗うのも乾かすのも手間だから」
ナーシャも「洗い水を置く場所」の横に丸を付けた。
「桶は勝手には増えませんよ」
「はい」
ソーマは二人の丸を見て、少し苦笑した。
発明の費用表は、思っていたより生活に近かった。
「石の大きさを揃えれば、燃料は減りますか」
ソーマが尋ねると、イヴァンは首をかしげた。
「減ることはある。だが、割る手間が増える。粉も増える。小さくしすぎれば風で舞う。大きすぎれば芯が残る」
「では、次の小試験で見るべきなのは」
「まずは親指くらいだな。拳ほどと粉ほどは極端すぎる」
メイナがすぐに言った。
「粉ほどは却下。風下の洗濯屋が本気で怒る」
「却下で」
ソーマは書いた。
次回候補。
親指大に揃える。
炉内位置は一か所から始める。
燃料量は通常。
火魔術は補助なしを基準。
粉塵対策を先に確認。
今回は燃料を減らすための試験ではない。
まず、通常条件で石の大きさがどれだけ揃うかを見る。
燃料削減は、その後でなければ意味がない。
イヴァンは「つまらん試験だな」と言った。
「はい」
「だが、いいつまらなさだ」
ソーマは顔を上げた。
イヴァンは炉口の灰を棒で寄せながら続ける。
「いきなり薪を二割減らして、火魔術で補って、石の大きさも変えたら、成功しても失敗しても次が分からん。窯場は派手な成功より、同じ失敗を繰り返さない方がありがたい」
「同じ失敗を繰り返さない」
「そうだ。芯残りを見つけたら、次の炉で減らす。粉が舞ったら、割り方を変える。窯は一回ごとに金が燃えてるようなもんだ。分からん試験は高くつく」
その言葉は、費用表のどの数字より重かった。
ソーマは記録帳へ、試験費用の横にもう一つの欄を作った。
分からない試験の費用。
そこには銅貨の数字を入れられなかった。
代わりに、薪、時間、粉塵、やり直し、信用、と書いた。
分からない試験は、薪だけではなく信用も燃やす。
午後になると、窯場の外では街の音が増えていた。鍛冶場から槌音が響き、風属性の荷運びが大きな布を膨らませて荷車の煙を避ける。水属性の女が市場の魚屋の前で桶の水を澄ませ、土属性の作業員が石畳の浮いた部分を押さえていた。
魔法は特別な英雄だけのものではなく、ラウゼンでは仕事の中に組み込まれている。
白硬材候補も、もし使われるなら、その中へ入っていくのだろう。
けれど、そのためには安く、同じように、安全に作れなければならない。
イヴァンは燃料表を見て、渋い顔をした。
「試験規模を広げるだけでも金がかかる。壁一面分なら、もっとだ。金持ちの屋敷にしか使えない材料になったら、水路や橋には届かんぞ」
「公費が必要になりますね」
「そういう話になる」
フェルド老師が、いつの間にか背後に立っていた。
「発明が高価すぎれば、救える場所を選ぶことになる」
「はい」
「安くしようとして質を落とせば、救う前に壊れる」
「……はい」
「では、次は何を見る」
ソーマは費用表と焼成記録を見比べた。
「白灰と焼き粘土粉を、試験に必要な量だけ、同じ条件で作れるかを見ます。燃料を減らす話はまだ後です。まず、通常条件のばらつきと粉塵対策を記録します」
フェルド老師はわずかに目を細めた。
「よい」
その一言で、ソーマは少しだけ肩の力を抜いた。
夕方、窯場の煙突から上がる煙は細くなっていた。街の西側に日が沈み、石畳の凹みに赤い光が溜まる。火属性の術者たちはまだ忙しい。パン屋の窯を落とし、湯屋の火を保ち、夜の食堂へ向かう者もいる。
ソーマは燃料表を見下ろした。
白硬材候補は、まだ高い。
まだ危うい。
それでも、名前を得た昨日より、今日のほうが少しだけ現実に近づいていた。
そして、その現実は次の反発を連れてくる。
新しい材料が増えるなら、誰がその火を焚くのか。誰が粉を吸わないようにするのか。誰が高い材料を買い、誰が失敗の責任を負うのか。
職人たちが黙って受け入れるはずはない。
ソーマは窯場の熱が残る空気の中で、白く乾いた指先を握った。
白硬材候補を広げるには、火をただ強くするのでは足りない。
火に使われる金と、人と、森も気にしなければならなかった。
帰り際、ミルカが炉口の赤い光を見ながら言った。
「白硬材候補って、火の材料でもあるんですね」
「壁材なのに?」
「はい。火を知らないと作れないから」
ソーマは少し考えて、頷いた。
白い壁を作ろうとしているのに、足元には火がある。
水に耐えたいのに、燃料の現実から逃げられない。
そういう矛盾を抱えたまま、白硬材候補は次の頁へ進んでいくのだった。
その夜、工房へ戻ったソーマは、費用表の一番上に小さく書き足した。
安くするために、条件を壊さない。
高くなる理由を、隠さない。
その二行は、数字ではなかった。
けれど白硬材候補を広げるなら、数字より先に必要な約束だった。
セラはその二行を見て、静かに頷いた。
「これは、費用表というより誓約欄ですね」
「大げさかな」
「いいえ。数字はあとで直せます。でも、最初に何を削らないかを決めておかないと、安くする時に一番大事なものから消えます」
ソーマは何も言えず、ただその頁を見つめた。
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
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