第2章 第67話 工房排水
第2章 第67話 工房排水
水は低い方へ流れる。
けれど、流れた先で消えるわけではない。
フェルドの工房裏には、蓋のない古い桶が置かれていた。水面には薄い膜が浮き、底には黒い砂と白っぽい泥が沈んでいる。金属を洗った水、灰を含む水、油の付いた布をすすいだ水。いつ入れられたのか、何がどれだけ混ざったのか、今ではすぐに分からない。
ソーマは桶の前で足を止めた。
昨日まで、黄色い金属候補の小袋を見ていた。どこから採れ、何をしたかを追えるように、何度も札を確かめた。
この桶の中は、その反対だった。
何が入ったか分からない。
どこへ流すべきかも決めていない。
それでも、いつか水だけが外へ出ていくと思われていた。
「近づきすぎるな」
フェルドの声がした。
ソーマは、桶へ顔を寄せかけていたことに気づき、すぐに下がった。
「においで分かるかと思って」
「においだけで決めるな。刺激のあるものが混じっているかもしれん」
フェルドは布を口元へ当て、桶そのものには触れずに、少し離れた場所から様子を見た。
「今日は、この液の何が分からないかを記録する」
「処理はしないんですか」
「知らないものを、処理しようとするな。まず閉じ込める」
その言葉に、ソーマは頷いた。
前に宿屋の裏口で直したのは、雨水がたまる浅い溝だった。落ち葉を取り、流れを作り、あふれないようにする。それは大切な経験だった。
けれど、今目の前にあるのは雨水ではない。
流れ方の観察に役立つことはあっても、工房の廃液を扱う根拠にはならない。小さな排水の成功を、そのまま大きな問題へ当てはめるわけにはいかなかった。
ナーシャが、厚手の手袋と蓋付きの容器を抱えてやって来た。
「新しく出るお水は、今日から分けるの。普通に手を洗ったお水。灰が入ったお水。金属を洗ったお水。油がついた布をすすいだお水」
「もう混ざっている桶は?」
「そのままにして、混合済みって書くの」
ナーシャは、桶の中をかき混ぜようとはしなかった。
「浮いてるものも、沈んでるものも、今は動かさない。動かすと、もっと分からなくなるかもしれないから」
セラが新しい札を持ってきた。
混合廃液。内容未確認。
開封・排出・乾燥をしない。
相談先を確認中。
札には、内部台帳の番号だけを記す。誰が作業したかや、どの試料を洗ったかといった詳しいことは、工房の記録帳に残す。
ソーマは桶の縁を布で覆い、フェルドと一緒に蓋を置いた。密閉すると中の圧が変わるようなものかも、今は分からない。だから蓋は留め具で固定せず、風や雨が入らないよう重しを置くに留めた。
「これで、少なくとも勝手に流れません」
ソーマが言うと、フェルドは頷いた。
「今できるのはそこまでだ。次は、回収を頼める先と、工房で出す水の種類を確認する」
ボルツを通じて、工房街の廃材回収を扱う組合へ連絡することになった。薬師の工房や鍛冶場では、使い終えた灰や洗浄水をどう保管し、どこへ渡しているのかを尋ねる。
答えを自分たちだけで作らない。
それもまた、昨日までソーマが学んだことだった。
その間にできることは、新しく出る水を増やさないことと、混ぜないことだけだ。
作業台の横には、四つの容器が置かれた。
飲食物と関わらない普通の手洗い水。
灰や煤を含む水。
金属や鉱物の試料を洗った水。
油や薬品の付いた布をすすいだ水。
同じ「汚れた水」でも、どこから来たかが違う。最初から混ぜなければ、後で相談する時にも説明できる。
ソーマは、昨日使った洗浄水の容器を思い出した。
川砂の試料を洗った後、残渣と水を回収した。あの水も、いまの桶へ入れず、試料番号のある容器に残してある。
「金属候補の洗浄水は、別に分けたままです」
ソーマが言うと、ナーシャはほっとしたように笑った。
「それなら、少なくともどこから来たかは分かるの。分かるものまで、分からないものにしなくていい」
その言葉は、ソーマの胸に残った。
作業場の片づけは、きれいに見せるためだけではない。分かるものを分かるまま残し、分からないものを勝手に増やさないためでもある。
ロッカは、流し場の下にできかけていた浅い溝を見て、手を腰に当てた。
「ここを廃液用に使うのはやめよう」
「清水で、流れだけを見るのはどうですか」
ソーマは尋ねた。
「それならいい。ただし、工房の排水をつなぐ前に、回収の人間と相談する。水が流れるからって、何でも流していいわけじゃない」
ロッカは土魔術を使わず、板と桶だけで小さな模型を作った。そこへ清水を少量流し、どこであふれるか、どこが見えにくいかを見る。
実際の廃液は一滴も使わない。
ソーマは、水が早く流れすぎる場所を記録した。ナーシャは、点検口がなければ詰まりに気づきにくいと指摘する。ユーリは、雨が吹き込む場所には蓋が要ると言った。
けれど、それらは将来の設備を考えるためのメモだ。
今の仮の仕組みが、廃液を安全に流せる証拠ではない。
フェルドは、模型の脇にこう書き加えた。
清水による流路確認。
実廃液には未接続。
設置・運用は回収先と管理者への相談後。
午後、工房街の回収組合から返事が来た。
成分の分からない混合廃液は、沈殿させたり乾かしたりせず、そのまま保管すること。金属粉を含む可能性のある洗浄水も、同じく容器を分けて保管すること。回収の日まで、容器を動かさず、口を開けず、熱を近づけないこと。
フェルドは返事を二度読みし、工房の皆へ伝えた。
「底の泥を乾かす話はなしだ。再利用もなし。正体が分かるまで、湿ったまま保管する」
「でも、そこに金属の粒が残っているかもしれません」
ソーマは言いかけて、すぐに自分で首を振った。
「……今は、それを取り出すために開けるべきではないですね」
「そうだ。価値があるかもしれないからこそ、危ない扱いをしてはいかん」
ソーマは、鍵のかかる棚に置いた黄色い候補粒を思い出した。
あれは由来が追えるから、比べられる。
桶の底の泥は、何が混ざっているか分からない。金属があるかもしれないという期待だけで、乾かし、砕き、風にさらすのは、試料管理でも安全管理でもなかった。
セラは台帳に、新しい欄を作った。
由来。
混合の有無。
保管場所。
開封してよいか。
相談先。
回収予定。
「処理済み」という欄は、まだ作らなかった。
今は、処理できていないことを、はっきり残す方が大切だった。
回収組合の者は、翌朝に工房裏を見に来るという。
フェルドは、その前に皆で保管場所を確認した。容器を置く棚は、炉や食料庫から離れた壁際にある。雨が吹き込まないか、子どもや来客が触れないか、万一に倒れた時に他の容器へ流れないかを、一つずつ見た。
ソーマは、容器を増やすことが後ろ向きな仕事のように感じていた。
新しい試料を見つけた時は、棚に小袋が増えることが嬉しい。けれど廃液の容器が増えると、工房が汚れに囲まれていくような気がする。
「増えたものを、見えないところへ追いやる方が怖い」
フェルドは、ソーマの表情を見て言った。
「置き場を決め、札を付ければ、次に使う者が迷わない。容器を増やしたのではない。今まで見えなかったものに、名前をつけただけだ」
ソーマは、古い混合桶の札を見た。
混合廃液。内容未確認。
そこには、まだ答えがない。
だが「何だか汚い水」として流してしまうより、ずっと正確だった。
ナーシャは、普通の手洗い水用の容器を指した。
「これも、最初は工房の外へ出さない方がいいの?」
フェルドは少し考えた。
「今すぐ分け方を変えすぎると、かえって間違える。回収組合に、どこまでが普通の水として扱えるかを聞く。薬や粉に触れた手の水は、普通と決めず確認する」
ソーマは、その言葉を台帳へ写した。
自分たちに分かることと、外の人へ確認すべきことを、同じ欄に混ぜない。
それは、鉱石の地図で仮説と観察を分けた時と同じだった。
ユーリは、工房裏の狭い通路を見て言った。
「札だけあっても、荷物を運んでぶつけたら倒れる」
「じゃあ、ここに線を引くより、棚の前を空けよう」
ロッカが答えた。
皆で、使っていない木箱を別の部屋へ寄せた。容器の周りには何も置かず、持ち上げる必要がない高さへ置く。ロッカは床を固めるのではなく、棚の脚がぐらつかないかだけを確認した。
「土に手を入れないの?」
ソーマが聞くと、ロッカは肩をすくめる。
「ここは建物の床だ。勝手に固める前に、持ち主と相談する。今日は、棚が傾いてないか見るだけ」
ソーマは笑った。
危ないものを前にすると、皆が同じように「まず触らない」と言う。少し前なら、何もしないように聞こえた言葉が、今は次の行動を選ぶための言葉に聞こえる。
夕方になって、回収待ちの容器を見回る当番も決めた。
当番がするのは、蓋と札があるかを確認することだけ。中身を開けたり、においを嗅いだり、沈殿を確かめたりはしない。変なにおいが強くなった時や、漏れが見えた時は、近づかずフェルドへ知らせる。
小さな確認表には、こう書いた。
蓋。
札。
容器の外側。
周囲の床。
相談先への連絡。
ソーマは、それを見て思った。
観察とは、いつも中をのぞき込むことではない。近づかずに見られることを確かめるのも、観察なのだ。
夕方、ソーマは工房裏の容器を見回った。
古い混合桶には、重しのある蓋と赤い札。
昨日の川砂の洗浄水には、試料番号の札。
新しく出た灰入りの水には、灰用の容器。
油の付いた布をすすいだ水には、別の容器。
どれも、以前よりきれいに見えるわけではない。
むしろ、置かれた容器が増えたぶん、工房裏は少し狭くなった。
それでも、流し場の外へ何かが流れていく不安は減った。目に見えないからといって、なくなったことにしない。見える場所に置き、札を付け、次の判断を待つ。
ナーシャが、最後の札を結びながら言った。
「水は待ってくれないけど、待たせることはできるの」
「どういうこと?」
「どこへ行くか決めるまで、容器に入れておくこと。勝手に流れないようにすること」
ソーマは少し考えてから頷いた。
水そのものを止めるのではない。
自分たちが、流したことにして忘れるのを止めるのだ。
フェルドは、薄暗くなった工房裏で言った。
「宿屋の雨水を逃がした経験は、無駄ではない。水があふれ、詰まり、流れ先を持つことを、お前は知っている」
「でも、同じやり方で片づけられる問題ではありません」
「その違いに気づけたなら、十分だ」
翌日の朝、回収組合の者が容器を確認した。
ソーマたちは少し離れた場所から、札と台帳を見せる。混合済みの桶は開けない。洗浄水の容器も、持ち上げずに番号だけを読んでもらう。
組合の者は、容器ごとの由来が分かれていることを確かめ、回収の日と、一時保管の注意を台帳へ記した。
「ここまで分けてあれば、受け取る側も困らない」
その言葉に、ナーシャが小さく息を吐いた。
処理はまだ終わっていない。
けれど、工房の外へ流して終わったことにする代わりに、次の人へ安全に渡す道はできた。
ソーマは、回収予定日の欄へ印を付けた。
自分たちが全部を片づけるのではない。分かる相手へ、分かる形で渡す。
それも、処理の途中にある仕事だった。
ソーマは新しい頁を開いた。
廃液は、混ぜない。
成分が分からないものは、流さない。
保管し、相談し、回収先を決める。
再利用は、安全が分かってから考える。
書き終えると、最後に小さく付け加えた。
今日の容器は、まだ答えではない。
けれど、答えが分かるまで、危ないものを外へ出さないための約束だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




