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第2章 第65話 掘るな、読むだけにしろ

第2章 第65話 掘るな、読むだけにしろ


 地図にある薄い点線を、ソーマは何度も見直していた。


 崖下の黒い露頭。道から見た小さな露頭。曲がり角にたまる黒砂。


 点は増えた。けれど、それを太い線で結べるまでは、分かっていない。


「今日は掘らない」


 工房を出る前に、フェルドは皆へ言った。


「昨日と同じく、危ない斜面には入らない。黒い層へ触れない。調べるのは、道から見える露頭と、安全な場所にすでに落ちている欠片だけだ」

「読むだけ、ですね」


 ソーマが言うと、フェルドは頷いた。


「読むことも、範囲を決めてからだ。地面の下を全部知ろうとするな」


 同行するのは、フェルド、ソーマ、ロッカ、ユーリ、セラ、そしてボルツだった。今日は水車組合へも危険を伝えるため、ボルツが先に使いの者を出している。


 崖下を通る人が近づかないようにすることと、そこで何かが採れると知らせることは別だ。


 フェルドたちは、露頭の具体的な位置や試料の内容を広く公にしないと決めた。工房の地図には詳しく記す。だが、外へ出す案内は「崩れやすい斜面があるため、道から外れないでほしい」という注意だけにする。


「黒砂のことまで書かないんですか」


 ソーマが尋ねると、ボルツは革袋を抱え直した。


「今の段階で書けば、危ない場所へ人を呼ぶだけだ。発見したかもしれないことと、誰に知らせるかは分ける。土地の管理者と利用している人たちには、危険を先に伝える」

「掘るかどうかは」

「発見者だけでは決められない。ここは川と道と水車の近くで、関わる人が多い。権利や工事の判断は、管理者が調べることだ」


 ソーマは頷いた。


 前なら、せっかく見つけたかもしれないものを隠すようで、少しもどかしかったかもしれない。


 だが、まだ確かめていない情報を広げれば、誰かが危ない場所へ向かうかもしれない。今は、知らせないことも安全のための仕事だった。


 川沿いの道へ着くと、ロッカが斜面から離れた場所を指した。


「ここから先は道を外れない。土が新しく落ちている。今日は近づくな」

「分かりました」


 赤土の斜面には、前日より細かな土が増えていた。見える黒い帯は、遠くからなら指で隠せるほど細い。あれを確かめたくて近寄れば、か危険である。


 ロッカは斜面へ土魔術を使わなかった。


「固めないんですか」


 ソーマが聞くと、ロッカは首を振る。


「下がどうなってるか分からない。表面をいじって、別の場所へ力がかかったら困る」

「前にも、触らない方がいい土があると言っていましたね」

「若い頃、一度だけ、乾いた土壁を早く固めようとして失敗した。中の湿りを見ないまま触って、荷車一台分の土を落としたんだ」


 ロッカは斜面を見たまま続けた。


「だから、今は自分にできることより、やらない方がいいことを先に考える」


 ソーマは、その言葉を記録帳へ書きかけ、やめた。これは現地の観察欄ではない。自分の手帳に、あとで短く残せばいい。


 現地の台帳には、見たことだけを書く。


 崩れた土が増えている。

 斜面への近接なし。

 露頭は道から観察。

 採取は行わない。


 ソーマは安全な道の端に立ち、黒い帯の周辺へ土魔術を向けた。深く探ろうとはせずに、目で見える層と、指先に返ってくる手応えに違いがあるかを確かめるだけだ。


 灰色の土と比べると、黒い帯のあたりでは、少し沈むような手応えがあった。


 それ以上は分からない。


 その手応えが、重い粒によるものか、湿りや層の違いによるものかも決められない。


 ソーマは、そこまで書いて手を離した。


「昨日より、読めたことは少ないです」

「だが、昨日より安全だ」


 フェルドの答えは短かった。


 道の向こうから、見覚えのある男が歩いてきた。露店で金色の石を売っていたクレイグだ。


 男は崖を見るなり、足を止めた。


「ここ、何かあったのかい」


 ソーマの胸が少し固くなった。昨日の黒砂の地図を見た人がいるのかもしれない。あるいは、ただ斜面に人が集まっているから気になっただけかもしれない。


 ボルツが一歩前へ出た。


「崩れやすい斜面の確認だ。道から離れないでくれ」

「黒い筋が見える。少し削れば分かるだろう」


 クレイグは軽く言った。


 ロッカが、低い声で答えた。


「削らない。崩れるかもしれない場所だ」

「ちょっと触るだけだ」

「その『ちょっと』を、ここではやらない」


 声は強かったが、脅すためのものではなかった。


 フェルドは、クレイグにも聞こえるように言った。


「水車組合と土地の管理者へ、斜面の危険を連絡している。確認が済むまで、近寄らない方がいい」

「じゃあ、何かあるんだな」

「あるかどうかを、今は調べている。だから掘らない」


 クレイグは、しばらく黒い帯を見ていた。


 興味が消えたわけではないだろう。けれど、彼は道から外れず、やがて肩をすくめて去っていった。


 ユーリは、その背中を見送りながら息を吐く。


「人が来るだけで、落ち着かないな」

「人を悪く考えすぎる必要はない」


 フェルドが言った。


「ただ、情報が人の行動を変えることは覚えておけ。だから、何をどこまで知らせるかを決める」


 セラは、台帳の別紙へ短く記した。


 第三者が危険箇所へ関心を示した。

 危険を説明し、管理者へ連絡中であることを伝えた。

 詳細な試料情報は共有しない。


 個人名は書かなかった。今回必要なのは、誰かを責めるための記録ではない。似た状況があった時に、どう対応したかを振り返るための記録だ。


 昼前、使いの者が水車組合から戻った。組合の代表が午後に道を見に来るので、それまで斜面へ近づかないよう、道沿いへ注意の札を付けてよいという。


 札には、管理者へ連絡済みであることと、崩落のおそれがあることだけが書かれている。


 ソーマは札を見て、少し安心した。


 工房が止めているのではない。土地を使う人と、その場所を守る人に、危険管理を任せたのだ。


 午後は、崖から十分に離れた川原で、すでに落ちていた小さな石を二つだけ拾った。斜面へ触れず、道の上にあったものだ。


 セラが小袋に札を付ける。


 崖下近くの道上。落下物。採取位置は安全な道。

 観察日。後で台帳と照合。


 雨や人の靴で運ばれたものかもしれない。


 フェルドは、地図の点線を指した。


「この線は、今のところ、黒い露頭と黒砂の位置が近いという印にすぎん」

「下流の砂が、あの露頭から来た可能性はあります」

「ある。だが、それを確かめるには、別の安全な露頭、落下物、川砂の比較が要る。今日の石二つだけでは足りない」


 ソーマは、点線の横へ書き加えた。


 仮説線。露頭と下流の黒砂に関係がある可能性。

 根拠は限定的。地表観察と試料比較を継続。

 採掘・掘削・位置の一般公開には用いない。


 その一文を読んで、ボルツが静かに頷いた。


「商売のためには弱い。しかし、次に調べる人には役に立つ」

「今は、それでいいと思います」


 以前なら、黒い筋があると聞いただけで、胸が高鳴っていた。


 今も、興味が消えたわけではない。土の下に何があるのか、知りたいと思う。


 けれど、知りたいことと、すぐに掘ることは同じではない。


 水車組合の代表が来たのは、その日の夕方だった。


 代表は斜面の手前まで行かず、ロッカの示した安全な道から、落ちた土とひびのある表面を見た。フェルドは黒い層の可能性には触れず、崩れやすそうな箇所があり、人が近づかない方がよいことだけを伝える。


「崩れたら、水車の道にも影響が出ます」


 代表は言った。


「明日、道の見回りと一緒に確認します。詳しい調査をするなら、組合と土地の管理者に話を通してください」


「そうします」


 ボルツが答えた。


 その場で、採掘の話はしなかった。どんな鉱物があるか、何が取れるかも言わない。今のソーマたちが持っているのは、危険な露頭を見たという記録と、黒砂との関係を考えるための仮説だけだ。


 代表が去ったあと、ソーマは小さく息を吐いた。


「全部話さないのは、隠しているみたいで少し苦しいです」


 フェルドは、道の端の札を見た。


「隠すことと、確かめていないことを広げないことは違う。必要な相手には、必要なことを伝えた。今はそれでよい」


 ユーリが、さっきクレイグのいた道の向こうを見ている。


「あの人、また誰かに話すかな」


「話すかもしれない」


 ボルツが言った。


「だから、噂を止めようとするより、聞かれた時の答えをそろえる。崩れやすい場所で、管理者が確認中だ。確かめられていない話はしない。それだけだ」


 言葉をそろえることも、安全策の一つなのだと、ソーマは思った。


 工房へ戻る前に、皆は安全な道の上で拾った石を、もう一度確認した。二つの小袋は、最初に書いた番号と一致している。落下物と見なした理由、採った位置、崖に触れていないことも台帳に残っている。


 小袋の中身は、答えではない。


 それでも、どこから来たかを追えるようにしておけば、後で別の石と比べることはできる。


 ボルツは小袋を革袋へしまい、口を固く結んだ。


「これをは人に見せるな。持ち帰ったら棚へ入れる。鑑定を頼む時も、管理者と相談してからだ」


「まだ、売り物でも証拠でもないからですね」


「そうだ。期待を持たせる品でもない。今は、観察を続けるための記録付きの石だ」


 ソーマは、その言い方を気に入った。


 石に大きな名前を付けなくてもいい。次に比べるために残す石だと分かれば、それで十分だった。


「知りたいから拾うんじゃない」


 ソーマは、札を結び直しながら言った。


「次に確かめるために残す」


 ロッカが、短く頷いた。


「それなら、現場で慌てずに済む」


 今日、ソーマは崖の前で立ち止まった。近寄らず、土魔術を狭く使い、見えたことと分からないことを分けて書いた。


 それは、何かを手に入れたような成果ではなかった。


 だが、土を傷つけず、人を危ない場所へ呼ばずに、次へ進むための一日だった。


 帰り道、フェルドが言った。


「読む力は、掘る理由を増やすためにあるのではない」

「掘らない理由を見つけるためにもある」


 ソーマが続けると、フェルドはわずかに笑った。


「その通りだ」


 工房へ戻ったソーマは、地図を鍵のかかる棚へしまった。


 詳しい地点の地図は、必要な人だけが見られる場所に置く。


 線の横には、止まる理由が書いてある。


 それを残せたことが、今日の一番大きな収穫だった。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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