第2章 第39話 捨てた水の底
第2章 第39話
捨てた水の底
捨てるはずだった水は、夜のあいだに姿を変えていた。
フェルド老師の工房へ入ると、昨日の受け皿が窓際の棚に並べられていた。川上、橋下、市場排水口。それぞれの名を書いた木札が皿の横に置かれている。
濁っていた水は半分ほど乾き、縁に白や灰や黒の輪を残していた。
ソーマは、その光景を見て喉の奥が少し詰まるのを感じた。昨日、皿を傾けて流した水だ。捨てるものだと思っていた。
けれど、皿の底には細かな粉と黒い粒が確かに残っている。
得たものだけでなく、失ったものも数えろ。
フェルド老師の言葉は、乾いた皿の上で急に重さを持った。
「触る前に書け」
老師は作業台の向こうから言った。
ソーマは三つの紙束を開いた。まず、条件の紙束へ書く。
受け皿三枚。昨日の洗い水。窓際で一晩乾燥。完全には乾いていない。今朝まで操作なし。
次に、観察の紙束へ、目で見えることだけを書いた。
川上の皿。縁に白い輪。底に灰色の粉と黒い粒。
橋下の皿。縁と底に灰黒い粉。黒い粒と茶色い粒が見える。
市場排水口の皿。縁に褐色の輪。艶のある薄い膜。白い粉と黒い粒が膜に付着。
「匂いは」
フェルド老師が言った。
ソーマは条件の紙束に書き足す。
皿には触れない。顔を近づけない。手で仰いで匂いを確かめる。
川上の皿から順に、手で空気を送った。
川上は、ほとんど匂いがない。
橋下には、湿った石と煤に似た匂いが残っている。
市場排水口の皿には、魚の脂と古い果物を思わせる甘い匂いがあった。昨日より弱いが、古い布の中から立ちのぼるように残っている。
ソーマは、それぞれを観察の紙束へ加えた。
「昨日、黒い粒をどれだけ失った」
フェルド老師が問う。
「数えていません」
「なら、今日は数えろ。ただし全部数える必要はない。まず見える範囲でよい」
ソーマは頷いた。
川上の皿から始める。
黒い粒、三つ。灰色の粉、多い。白い粉、縁に薄く残る。
橋下。黒い粒状物、多数。煤のような黒い粉と混じる。茶色い粒、少数。肉眼では粒数を数えられない。
市場排水口。膜に付着する粒、多数。黒い粒の一部は膜の上、一部は底。白い細片、少数。
書きながら、胸の中に小さな後悔が沈んでいく。
昨日、洗い皿に残った黒い粒を見て、少し進んだと思った。だが、受け皿の底を見ると、その進歩は片側だけだったことが分かる。
残ったものだけ見れば、成功に見える。
流れたものを見ると、成功の形が変わる。
ソーマは市場排水口の皿を見た。
油膜の下に、金色に見える細い欠片が一つあった。光の角度で淡く光るが、すぐに褐色の膜に隠れる。
胸が跳ねた。
金かもしれない。
そう思った瞬間、手が動いた。
竹串で、その欠片だけを掬おうとする。油膜の皮は思ったより粘り、周囲の粉と粒を巻き込んで丸まった。金色の欠片は、褐色の膜の中へ消えた。
「あ」
フェルド老師の視線が、背中に刺さる。
「今、何をした」
「金色の欠片を取ろうとして、油膜を壊しました」
「記録は」
「していません」
「では昨日と同じだ」
声は低かった。怒鳴られてはいない。だが、その分だけ逃げ場がない。
ソーマは唇を噛み、三つの紙束を開いた。
観察の紙束に書く。
市場排水口の受け皿。金色に見える欠片一つを確認。竹串で触れた後、油膜が破れた。周囲の粉と粒が膜へ巻き込まれ、欠片の位置を失った。
条件の紙束に書く。
記録前に竹串を使用。触れた位置、力、時間は記録なし。
解釈の紙束には、まだ何も書けなかった。
書くと、失敗が紙の上で固定される。
恥ずかしい。だが、見失った欠片よりも、記録せずに触れたことの方が重い失敗だった。
「修正案を書け」
「先に位置を描きます。皿の縁を基準に、場所を記録してから触ります。可能なら、油膜ごと切り取る方法を試します」
「よい。だが今日は市場排水口の皿には触るな。お前は今、見たいものに引っ張られている」
ソーマは反論できなかった。
金色。
たったそれだけで、手順が崩れた。昨日、錬金術は無から金を作る術ではないと学んだばかりなのに、金色の欠片を見た瞬間、心は市場の噂と同じ方向へ動いた。
フェルド老師は小さな紙片を三つ出した。
「川上からやり直す。まず損失を拾う。見えた粒だけでよい。土魔術は、まだ使うな」
ソーマは、粒を移す前に条件の紙束へ書いた。
竹串を使用。川上の受け皿。紙片三枚。土魔術は使わない。戸口は開いている。ユーリは戸口の外側に立つ。風魔術は使用しない。
黒い粒を一つずつ、竹串の先で紙片へ移す。粉が紙へまとわりつき、息を強く吐くだけで飛びそうだった。
ユーリが戸口で息を止めるような顔をしていた。
「風、使わない方がいい?」
「使わないで。粉が飛ぶ」
「だよな」
ユーリは両手を上げ、壁際へ下がった。
フェルド老師は、皿の上の粉を見てから言った。
「戸を閉めろ。立ち位置も書け。何もしないことが条件になる日もある」
ソーマは条件の紙束へ、戸口を閉めた時刻とユーリの立ち位置を追記した。
橋下の皿では、黒い粒状物を数えようとして途中で手を止めた。
多すぎるからではない。煤のような粉と粒状の物が混じり、肉眼では境目を決められない。
ソーマは観察の紙束に書いた。
橋下。黒い粒状物多数。煤状の粉と混じる。肉眼での粒数測定は不可。
「土魔術をここからは使って良い。条件を書け」
土魔術を使う前に、条件の紙束を開く。
ソーマが実施。土魔術を弱く使用。手は皿の縁から指二本分の距離。試料に触れず、動かさない。使用時間は砂時計の砂が四分の一落ちるまで。
手をかざすと、黒い粒の一部には、周囲より沈み込むような感覚があった。だが、黒く見える部分すべてが同じ感覚ではない。
観察の紙束には、見出しを付けて書いた。
土魔術による感覚。沈み込むように感じる点は、目に見える黒い部分より少ない。
黒く見えるものが、すべて同じではない。
市場排水口の皿は、今日は観察だけにした。
金色の欠片は見失ったままだが、油膜の破れた部分に褐色の粉が集まっている。竹串で触れた痕も、皿の上に残っていた。自分の失敗が、試料の状態として残っている。
ソーマは観察の紙束へ書く。
油膜の破れあり。褐色の粉が破れ目の周囲に集まる。竹串で触れた痕が残る。
解釈の紙束には、短く書いた。
初期状態を失った。以後の観察は操作後の試料について行う。
書きながら、ソーマは苦いものを飲み込むような気持ちになった。
初期状態を失った。
たった一行だが、取り返しはつかない。昨日の濁水はもう昨日の濁水ではなく、今朝の市場排水口の皿も、金色の欠片を触る前の状態には戻らない。
実験は、時間を戻せない。
だから記録する。
フェルド老師は、最後に三つの受け皿を並べ直した。
「今日分かったことを一つだけ言え」
ソーマは少し考えた。
流れた粒がある。油膜は厄介だ。黒く見えるものすべてが同じではない。金色に見えるものは判断を狂わせる。
言いたいことはいくつもあった。
だが、一つだけなら。
「捨てた水は、捨てた後も試料です」
フェルド老師は、目を細めた。
「よい」
その一言で、ソーマの肩から少し力が抜けた。
「次はどうする」
「受け皿の残渣も、洗い皿に残したものと分けて記録します。流した水の中に残った粒状の物を、回収できるか試します。ただし、市場排水口の油膜は別に扱います」
「水は」
「同じ井戸水を使います。量を決めます。乾燥時間も書きます」
「風は」
ソーマはユーリを見た。
「戸を閉めます。ユーリには、風魔術を使わないでいてもらいます。立ち位置と、戸を開けた時間も書きます」
「俺、何もしない係か」
フェルド老師が淡々と返した。
「何もしないことが条件になる日は多い」
ユーリは複雑そうな顔をしたが、反論はしなかった。
昼を過ぎ、工房の窓辺には新しい皿が並んだ。今度は洗い皿に残ったものと、受け皿に流れたものを分けて乾かす。
木札も増えた。
川上、残したもの。
川上、流したもの。
橋下、残したもの。
橋下、流したもの。
市場排水口、操作後。
市場排水口、流したもの。
木札の名前は長くなった。
その代わり、どの試料を、どの段階で分けたのかは前より分かるようになった。
工房を出る時、ソーマは市場排水口の皿を一度だけ振り返った。金色の欠片はもう見えない。
けれど、それでよかったのかもしれない。もしすぐに拾えていたら、自分はきっと喜んだ。喜んで、手順を崩したことを軽く見た。
失ったものは、粒だけではない。
判断も、状態も、時間も失われる。
そのことを記録しなければならない。
外に出ると、ラウゼンの風は冷たかった。ユーリがようやく大きく息を吐き、少し大げさに肩を回す。
「風を使わないで立ってるの、意外と疲れるな」
「ありがとう」
「礼を言われることか?」
「条件を守ってくれたから」
ユーリは少し照れたように視線を逸らした。
「じゃあ次から、何もしない料金も取る」
「記録しておく」
「そこは笑うところだろ」
ソーマは少し笑った。
宿へ戻ったら、今日の記録を三つに分ける。観察、条件、解釈。
それから、失ったものの欄を新しく作る必要があるかもしれない。
窓辺で乾いていく皿の底には、明日また別の事実が残るだろう。
そしてその中には、金色に見えるものもあるかもしれない。
けれど次にそれを見つけた時、ソーマはすぐには触れないつもりだ。
そうできるかどうかが、次の課題だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




