表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/78

第1章 第16話 父の試料箱

第1章 第16話


父の試料箱


 アルディス家の庭は、宿屋の裏口よりずっと静かだった。


 雨上がりの朝、アルディス家の庭には薄い霧が残っていた。果樹の葉から落ちる雫が、低い草を揺らす。土の表面は湿っている。数日前までソーマの感じていた宿屋の匂い、油と灰と野菜屑の混じった重さは、ここにはなかった。


 けれどソーマは、その静けさが怖かった。鷹のくちばし亭の裏口は、一応使える形になった。リナの藁係の板、トマの雨の日板、グレッグの水の終わり板。人が見て、手を入れれば保てる仕組みになった。成功と呼んでもよいのかもしれない。


 でも、本当に、自分がやったのだろうか。


 いや、ソーマひとりではない。リナが藁を揃え、トマが雨の日を見て、グレッグが油をすくい、オルグが白石と砂の使い方を教えてくれた。父は記録する紙と、小さな秤を貸してくれた。


 それでも、始まりは彼の土属性だった。


 土属性。


 判定の日、広間に落ちた沈黙を、ソーマはまだ覚えている。父の目に浮かんだ一瞬の落胆。母の優しい慰め。判定師の「堅実な属性です」という言葉。あの日から、彼は土で何ができるのかを示したかった。


 示したかったのだと、今なら分かる。


 ただ役に立ちたかっただけではない。土属性でも失望しないでほしい。自分の中の前世の知識が無駄ではないと、自分自身に言いたかった。だから時々、焦った。白石に近づきすぎた。試験片を強く押しすぎた。表面だけ整えようとした。


 認められたい心は、余計な力を入れさせる。


 オルグの言葉が、まだ指先に残っていた。


 ソーマは庭の端にしゃがみ込んだ。


 宿屋の裏口から持ち帰ったわけではない。ここにあるのは、アルディス家の庭の土だ。湿った黒土、少し奥の粘る土、さらに端の砂っぽい土。以前ならただ「違う」と思うだけだった。今はその違いを、少しだけ言葉にできる。


 観察。


 黒土は軽く、草の根と腐葉が混じっている。水を含むが、押すと崩れやすい。粘る土は指にまとわりつき、形を保つ。砂っぽい土はさらさらと逃げ、圧をかけてもまとまりにくい。


 ソーマは三つの土を小さく分け、木板の上に並べた。


 今日の目的は、土魔法の基礎練習だった。


 成形。


 圧縮。


 そして、分離。


 宿屋の裏口では、現場の問題に追われていた。水が流れ、葉が詰まり、白い壁材が割れた。土魔法はいつも補助であり、観察の道具だった。今日は違う。自分の属性そのものに向き合う。


 仮説を立てよう。


 土魔法は、ただ土を固める力ではない。粒の隙間を詰め、形を与え、余分な水や粗い粒を分ける助けになる。だが材料の性質を無視して形だけ作っても、崩れる。魔法で押さえている間だけしか保てないのであれば、実用品にはならない。


 まず、黒土。


 ソーマは小さな団子を作ろうとした。掌の上で丸め、土魔法を流す。粒の隙間を無くすように意識した。強くは押さない。宿屋で何度も学んだことだ。


 その結果、表面はまとまった。


 だが、置いた瞬間に崩れた。


 失敗。


 黒土は根や腐葉が混じり、均一に圧縮できない。水分も多い。表面を寄せて固めても、内部で草の繊維が邪魔をしていた。ソーマは崩れた土を見つめ、ため息をついた。


「土なら何でも成形できるわけではない、か」


 独り言は霧の庭に拡散していった。


 次に、粘る土。


 こちらはよくまとまった。指の跡が残り、形を保つ。土魔法で軽く圧をかけると、小さな円盤になった。だが少し強くすると、縁にひびが入る。中心が湿ったまま、外側だけ締まったのだ。


 また、表面だけ。


 ソーマは眉を寄せ、円盤を割った。断面を見ると中央が濃く湿っているのがわかる。外側は締まっているが、中は柔らかい。


 修正。


 厚く作らない。薄く広げる。圧縮は一度にせず、弱く何度かに分けて行う。中心から外へ逃げる水の道を意識する。


 再実験。


 今度は小さな板状にした。厚みはリナの藁係の板に描いた線より少し薄い程度。土魔法を流し、粒を寄せるというより、偏りをならす。縁を無理に整えない。表面の凹凸は残す。


 板は歪だったが、割れなかった。


 ソーマはしばらく、それを見つめた。


 小さな成果。


 宿屋の裏口よりさらに小さい。誰の役にも立たない、庭の土の板だ。だが、前ならここで強く固めて割っていただろう。今は、材料に合わせて力を弱めることができた。


 それは、土魔法の上達だった。


「ソーマ」


 背後から声がした。


 振り返ると、父のダリオが庭の入口に立っていた。朝の執務前なのだろう。外套は羽織っていないが、靴は庭へ出られるものに替えている。


「父上」


「また土を見ているのか」


「はい」


 ソーマは思わず、土の板を隠しかけた。


 だが、やめた。


 判定の日から、自分はずっと土を触ってきた。泥で汚れた手を見られるのが、どこか恥ずかしかった。土属性しかない子供だと思われることが、苦しかった。


 けれど今は、同じ気持ちではもうない。


 土属性は、宿屋の裏口を支えた。


 リナの足元を安全にし、グレッグが鍋を落とさずに歩けるようにした。完全ではない。だが前より大丈夫になった。


 ソーマは土の板を父に見せた。


「練習です。土魔法で、どこまで形を保てるか見ています」


 ダリオは近づき、しゃがんだ。父が庭の湿った土の上に膝を折る姿は、珍しい。


「これは、宿屋の白い補修材とは違うのか」


「はい。ただの庭の土です。粘る土はまとまりやすいですが、厚くすると割れます。黒い土は軽いですが、形を保ちにくいです。砂っぽい土は圧縮だけではまとまりません」


 言いながら、ソーマは少し話しすぎたかと思った。けれどダリオは遮らずに聞いていた。


「土にも向き不向きがあるのだな」


「はい」


「土属性なら、どの土でも同じように扱えるわけではない」


「……はい」


 その言葉は、ソーマにとって少し救いだった。


 できないのは、自分が未熟だからだけではない。材料にも理由がある。もちろん未熟でもある。だが、できないことをすべて才能不足で片付ける必要はない。


 ダリオはしばらく土の板を眺めていた。


「宿屋の件で、グレッグから礼を言われた」


「まだ完全ではありません」


「そう言うと思った」


 父の口元がわずかに緩む。


「だが、あの裏口は以前より安全になった。宿の者たちが、自分たちで見て直せるようにもなっている。あれは、よい仕事だ」


 前にも聞いた言葉だった。


 よい仕事。


 今度は、少しだけ受け取れた。


「ありがとうございます」


 ソーマは頭を下げた。


 胸の奥の硬いものが、ゆっくり緩んでいった。父の期待を完全に取り戻したわけではないだろう。風や水の属性なら、もっと分かりやすく家の役に立ったかもしれない。土属性への世間の評価も変わっていない。


 だが父は、土でできた仕事を見た。


 それだけで、ソーマには十分だった。


 ダリオは庭の端の水はけを見た。五歳のソーマが最初に手を入れた場所だ。今も少し湿っているが、以前のような水たまりにはなっていない。


「最初は、庭の水たまりだったな」


「はい」


「私は、あの時、少し驚いた」


「落胆したのではなく?」


 言ってから、ソーマはしまったと思った。


 五歳の子供が言うには、少し鋭すぎる。だが言葉は戻らない。


 ダリオは黙った。


 霧の中で、果樹の葉から水滴が落ちる音がした。


「落胆した」


 父は静かに言った。


 ソーマは胸を締めつけられた。


 知っていた。知っていたはずだ。それでも、言葉にされると痛い。


「だが、それは土属性そのものを知らなかったからだ」


 ダリオは続けた。


「今も、すべてを分かったわけではない。正直に言えば、私はまだ、お前が見ているものの半分も理解していない。だが、知らないものを低く見てしまったことは、私の誤りだった」


 ソーマは父を見た。


 謝罪ではない。慰めでもない。けれど、それは父が自分の認識を変えようとしている言葉だった。


 目の奥が熱くなる。


 ソーマは慌てて視線を土へ落とした。


「僕も、まだ分かっていません」


「そうだろうな」


「でも、探し続けます」


 ダリオは頷いた。


「なら、記録も続けなさい。土属性の子としてではなく、ソーマ・アルディスとして」


 その言葉は、不思議に胸へ残った。


 土属性の子。


 それは、少し前まで重い言葉だった。期待に届かなかった子。地味な属性の子。補助しかできない子。


 だが今は、完全に嫌ではなかった。


 土属性の子。


 土を見て、触れて、失敗し、少しずつ形にする子。


 それなら、自分であってもいい。


 ダリオが屋敷へ戻ったあと、ソーマは練習を続けた。


 次は砂っぽい土だった。


 観察。


 指の間から逃げる。粒が粗い。粘りがない。水を少し加えればまとまるかもしれないが、水だけでは乾いたあと崩れるだろう。粘る土を少量混ぜれば、つなぎになるかもしれない。


 仮説。


 砂っぽい土に粘土を少量混ぜ、土魔法で圧縮すれば、小さな試験片として形を保てるかもしれない。ただし粘土が多すぎると乾燥収縮で割れる。


 実験。


 砂っぽい土を3、粘る土を1。正確ではない。小さな匙で量る。水は一滴ずつ。木片で混ぜ、指で触れ、土魔法を細く流す。


 最初の試験片は、縁から崩れた。


 砂が多すぎた。つなぎが足りない。


 修正。


 粘る土を少し増やす。水は増やしすぎない。厚みを薄くする。圧縮は外からではなく、全体を均すように。


 再実験。


 今度は、小さな角の丸い板ができた。歪んでいるが、持ち上げても崩れない。表面には砂粒が見える。押すと少しざらつく。完全ではない。


 だが、形になった。


 ソーマはその板を木陰に置いた。


 乾いたあと、どうなるか見るためだ。


 この待ち時間が、以前より嫌ではなくなっていることに気づいた。待てば、材料が答えてくれる。急げば、答えが出る前に壊れてしまう。宿屋の裏口で何度も学んだことだった。


 午後、リナが届け物に来た。


 香草と、昨日の礼だという焼き菓子を持っている。彼女は庭にいるソーマを見つけると、足元を気にしながら近づいてきた。


「また土?」


「はい」


「宿の次は、庭?」


「自分の練習です」


 リナは木陰に並べた小さな土の板を覗き込んだ。黒いもの、灰色のもの、砂っぽいもの。どれも歪で、商品には見えない。


「これ、何になるの?」


「今は、何にもなりません」


「何にもならないの?」


「はい。練習なので」


 リナは少し考えたあと、真面目な顔で言った。


「でも、裏口も最初は何にもならなそうだったよ」


 ソーマは言葉に詰まった。


 確かに、最初は泥を見ていただけだった。陶片を砕き、灰を失敗し、白石でひびを作り、枝の柵を詰まらせた。何かになる前には、何にもならない試験がたくさんあった。


「そうですね」


 リナは少し得意げに笑った。


「じゃあ、これも何かになるかも」


「なるかもしれません」


「何になる?」


「まだ分かりません」


「また分からない」


 彼女は笑ったが、もう馬鹿にする響きはなかった。


 ソーマは、リナが土の板に触れようとして手を止めたのを見た。以前なら触っていただろう。今は乾くまで待つことを知っている。


「触ってもいいです。これは危なくありません」


「でも、乾くまで待つんでしょ?」


「はい」


「じゃあ待つ」


 その言葉が、妙に嬉しかった。


 リナは土の板の横にしゃがみ、焼き菓子の包みを差し出した。


「お父さんが、裏口が前より大丈夫だからって」


「ありがとうございます」


「あと、トマが雨の日板に新しい葉っぱの絵を描いた」


「見に行きます」


「うん。ソーマがいなくても、ちょっとできたよ」


 それは報告であり、少しの自慢でもあった。


 ソーマは頷いた。


「それが一番いいです」


「一番?」


「僕がいなくても、見て直せるなら」


 リナは一瞬、寂しそうな顔をした。だがすぐに、唇を引き結んで頷いた。


「でも、見には来て」


「はい」


 その短いやり取りのあと、二人はしばらく土の板を眺めていた。


 風が吹き、葉から落ちる雫が土に小さな跡を残す。庭は静かで、遠くの宿屋の喧騒は聞こえない。だがソーマの中では、裏口の水音やリナの板、トマの声、グレッグの笑いがまだつながっていた。


 夕方、最初に作った粘土の板が乾いた。


 大きなひびはない。ただ、端がわずかに反っている。黒土の団子は崩れ、砂混じりの板は表面がざらつきながらも残った。


 成功と失敗が並んでいる。


 ソーマはそれを紙に記録した。


 黒土、形を保ちにくい。根と腐葉。

 粘土、薄ければ保つ。厚いと割れる。

 砂土、粘土を少し混ぜると形になる。

 圧縮は弱く、何度か。

 動かすより、感じる。


 字はまだ幼い。だが、そこには確かに今日見たものが残った。


 夜、ダリオの書斎に呼ばれた。


 机の上には、以前貸された小秤が置かれていた。隣には、薄い木箱がある。


「これを使いなさい」


 ダリオが木箱を開くと、中には小さな陶片、石片、乾いた土の塊を入れられる仕切りがあった。


「試料箱、ですか」


「そのようなものだ。商家では香料や鉱石見本を入れる箱を使う。古いものだが、お前の石や土を分けるには使えるだろう」


 ソーマは息を呑んだ。


 紙と小秤だけではない。今度は、土や石を残すための箱。


「ありがとうございます」


「ただし、屋敷中を泥だらけにしないこと」


「はい」


「危険な白い粉は入れないこと」


「はい」


 ダリオは息子を見た。


「土属性を恥じる必要はない」


 その言葉は、不意に来た。


 ソーマは箱を持つ手に力を込めた。


「……はい」


「ただし、誇るなら、扱い方も覚えなさい。土は人の足元を支えるが、崩れれば人を滑らすこととなる」


 宿屋の裏口のことだ。


 ソーマは深く頷いた。


「覚えます」


 その夜、ソーマは試料箱の最初の仕切りに、庭の粘土片を入れた。二つ目には砂っぽい土。三つ目には黒土を乾かしたもの。ラベル代わりの小さな木片に、拙い字で場所と日を書いた。


 箱の中に並んだ土は、宝石には見えない。


 だがソーマには、静かな始まりに見えた。


 土属性の子。


 その言葉はもう、胸を沈ませるだけのものではなかった。


 翌朝、彼はもう一度庭へ出た。


 昨日の試験片は乾き始めている。粘土の板には細いひびが一本。砂混じりの板は端が少し崩れた。黒土はほとんど形を失っていた。


 ソーマはそれを見て、落胆しなかった。


 失敗はある。


 けれど、失敗の形が見える。


 彼は掌に乾いた砂を乗せ、土魔術を通した。


 粒の粗さ。軽さ。粘土を混ぜたときの変化。以前より、ほんの少し遠くまで感じられる。


 宿屋の裏口で得たものは、排水の仕組みだけではなかった。


 土を恥じないための、最初の根だった。


 そして、その根はこれから、長い年月をかけて伸びていく。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ