第1章 第11話 雨の日の失敗
第1章 第11話
雨の日の失敗
雨は、洗い場の水よりずっと乱暴だった。
夜のあいだに降った雨は屋根を叩き、樋のない庇から糸のように落ち、宿屋の裏口へ斜めに吹き込んだ。朝になるころには、浅鉢のまわりに落ち葉が張りつき、枝で作った粗い受けは泥と葉で塞がれていた。昨日まで水を通していた砂利の隙間も落ち葉と泥で詰まり、黒い水が溢れている。
ソーマはその光景を見て、足元から熱が引いていくのを感じた。洗い場の水を見ていた。油を見ていた。泥を見ていた。けれど空から落ちる雨を、彼はまだきちんと見ていなかった。
《鷹のくちばし亭》の裏口には、朝の仕事の音が戻っていた。濡れた薪を運ぶ音、鍋の底を洗う音、女将の低い叱声。けれど今日は、いつもの匂いに雨の冷たさが混じっている。濡れた木、潰れた葉、薄く広がった油膜。黒い水たまりは、曇った空を映して鈍く光っていた。
リナは浅鉢の前で立ち尽くしていた。腰紐には藁係の板が挟まっている。だが今日は、藁の長さを測る余裕はなさそうだった。
「昨日は、ちゃんと流れてたのに」
その声は小さかった。
「はい」
ソーマは答えた。喉が乾いていた。
グレッグは腕を組み、浅鉢から溢れた水が果樹の根元へ広がるのを見ている。怒鳴らない。それがかえって重い。
「雨の分の水が入ったな」
「はい」
「葉も詰まってる」
「はい」
同じ返事しかできなかった。
昨日作った仕組みは、洗い場の水を基準にしていた。桶何杯分か。朝と夕方の流し方。油が浮く量。泥の溜まり方。けれど雨は、人の都合で量を調節してくれない。落ち葉も連れて来た。
観察が足りなかった。いや思考が足りなかった。
その事実が、胸の内側を強く押した。
トマは裏口の隅で、濡れた薪束を抱えていた。
彼は下働きとしてこの宿に入って半年になる。年はリナより少し上だが、仕事はまだよく叱られる。昨日、藁の量を小皿で測る役を任されたときは、少し得意だった。リナに底まで混ぜろと言われたのは悔しかったが、最後には自分の作った試験片も悪くないと言われた。
だから今朝、詰まった枝受けを見たとき、トマは自分が何か間違えたのかと思った。
昨日、枝を組むときに斜めになっていたかもしれない。落ち葉を取るのを忘れたかもしれない。リナのように板を持っていない自分は、やっぱり雑なのかもしれない。
だがソーマは、誰も叱らなかった。
黒い水の前にしゃがみ、落ち葉を一枚、木片で押し分けている。濡れた葉は枝の隙間に吸い付くように絡み、そこへ細かな泥が詰まっていた。
「これは、僕の見落としです」
ソーマが言った。
トマは思わず顔を上げた。
貴族の坊ちゃんが、そんなふうに言うとは思わなかった。大人たちは、失敗するとだいたい下の者のせいにする。少なくともトマは、そういう叱られ方に慣れていた。
リナがすぐに言った。
「でも、雨は急に降ったし」
「急に降るものです。だから見ておくべきでした」
ソーマの声は静かだった。静かすぎて、トマにはかえって痛そうに聞こえた。
ソーマは浅鉢の水面を見た。
観察。
落ち葉は上流から来ている。庇の端、壁沿い、果樹の下。雨が地面の葉を排水溝へ押し流した。浅鉢の入口で葉が止まり、そこへ泥と油が絡んだ。油膜は水面に浮いているが、葉に付着すると薄い膜を作り、水が通りにくくなる。枝受けは大きな汚れを止めるはずだったが、葉が面で塞ぐと、水の道そのものがなくなる。
そして容量。
浅鉢は洗い水の一時受けには足りたが、雨水を受けるには小さすぎた。砂利も同じだ。水が一度に来ると、染み込む前に溢れる。
仮説を立てよう。
雨水と洗い水を同じ道に入れない方がいい。少なくとも、庇から落ちる水や地表を流れる雨水は別へ逃がす必要がある。落ち葉は浅鉢に入る前に止める。詰まっても水が別の道へ逃げることができるように越流させたい。
越流。
溢れることを失敗として隠すのではなく、溢れる場所を決める。
だが、どこへ逃がすか。
人が歩く裏口へ戻してはいけない。果樹の根元へ集中させてもいけない。通りへ流せば迷惑になる。掘れる場所は狭い。木枠や陶片も限られている。
「まず、詰まったものを取ります」
ソーマが言うと、グレッグは頷いた。
「トマ、棒を持ってこい。リナは水桶を脇へ下げろ。滑るぞ」
トマは慌てて薪を置き、細い棒を取りに走った。戻る途中、足が泥に滑りかける。冷たい水が靴の中に入り、思わず顔をしかめた。
自分の足元が滑る。
昨日まで直ったと思っていた場所が、雨でまた危なくなっている。そのことが、トマには急に怖く感じられた。これはただの泥遊びではない。自分たちが転ぶかどうか、鍋を落とすかどうか、果樹が枯れるかどうかの話なのだ。
ソーマは棒で落ち葉を引き上げた。葉は黒く濡れ、油でぬめっている。リナが古布を差し出し、グレッグがそれを受けて汚れを包む。
「これ、昨日の油で汚れた布と同じ場所に置いとくの?」
リナが尋ねた。
「はい。ただ、雨が当たるとまた流れるので、覆いが必要です」
「汚れ置き場にも屋根?」
「小さくても」
問題がまた増える。
ソーマは唇を噛んだ。
失敗の片付けだけで朝が過ぎていく。作るより、直す方が手間がかかる。昨日の仕組みを見て少し安心した自分が、今は恥ずかしかった。
観察を続ける。
庇の端から落ちる雨だれは、ちょうど排水溝の近くに落ちていた。雨の日にはそこから水が増える。屋根の水を横へ逃がせれば、浅鉢に入る量は減るかもしれない。
だが樋はない。木材で作るには手間がかかる。仮に作っても、葉で詰まるだろう。今日すぐできるのは、庇の下に浅い雨水用の溝を掘り、洗い場の排水とは別方向へ逃がすことくらいだった。
実験。
小さく行う。
ソーマは水の地図を描き直した。洗い場からの水。雨だれ。地表を流れる水。落ち葉の来る方向。炭の線が木板に増えていく。リナが横から見て、指で雨だれの位置を示した。
「ここ、いつもぼたぼた落ちる」
トマも言った。
「風があると、もっとこっちまで来ます」
ソーマは顔を上げた。
「昨日も、そうでしたか」
「雨の日はだいたい。俺、薪を置く場所で濡れるから知ってます」
言ってから、トマは少し身構えた。余計なことを言ったかと思ったのだ。
だがソーマは真剣に頷いた。
「助かります。雨の日のことは、トマさんの方が見て詳しいです」
トマは耳のあたりが熱くなった。
役に立った。
リナが藁の長さを見つけたとき、あんな気持ちだったのかもしれない。
修正案は三つになった。
一つ目、庇から落ちる雨水を浅い別溝で横へ逃がす。
二つ目、浅鉢の手前に落ち葉止めの粗い柵を置く。詰まってもすぐ外せるようにする。
三つ目、浅鉢の縁に低い越流用の出口を作り、容量を超えた水を人の通らない石敷きへ逃がす。
ただし、全部を大きく作らない。まず一雨分の試験にする。
グレッグは聞き終えると、低く唸った。
「また仕事が増えるな」
「はい」
「だが、溢れる場所を決めるのは分かる。勝手に広がるよりはましだ」
「はい」
作業は昼前から始まった。
庇の下の雨水溝は、指二本ほどの浅いものにした。深いと足を引っかける。底に陶片を置くと危ないため、丸い石を選び、土魔法で周囲の土を軽く締めるだけにした。トマが雨だれの落ちる位置を教え、リナが石を選ぶ。
落ち葉止めは、細い枝を並べた簡単なものだった。枝を密にしすぎるとすぐ詰まる。粗すぎると葉が抜ける。ここでも加減が必要だった。
最初の柵は密にしすぎた。
試しに桶の水と葉を流すと、水が柵の前で止まり、すぐ横へ溢れた。
失敗。
トマが「あ」と声を出した。リナも顔を曇らせる。
ソーマは柵を見つめた。
落ち葉を止めることだけ考えて、水を通す余裕を忘れた。詰まりを防ぐものが、詰まりそのものになっている。
「枝を減らします」
「葉が抜けるよ」
リナが言う。
「少し抜けても、浅鉢で取れる方がいいです。全部止めようとして詰まるより」
「全部は無理?」
「はい」
その言葉は、今日何度も胸の中で響いた。
全部は無理。
だから、どこで何を諦めるか決める。
枝を半分に減らし、斜めにした。水が当たると葉は枝に引っかかるが、水は隙間を抜ける。葉が溜まったら上から持ち上げて捨てられる。
越流口は、浅鉢の縁を一箇所低くすることで作った。そこから溢れた水は、粗い石を敷いた小さな受け場へ流れる。受け場は人の通り道ではなく、果樹から少し離れている。そこにもいずれ問題は出るだろう。だが少なくとも、裏口へ戻るよりはましだった。
再実験。
グレッグが桶二杯分の水を一度に流した。洗い場の水より多め、雨の日を想定した量だ。リナが落ち葉を一掴み入れる。トマが横で息を止めて見ていた。
水は排水溝を走り、枝の柵へ当たった。葉の半分ほどが引っかかり、半分は浅鉢へ入る。浅鉢の表面に油の代わりに葉が浮き、流れは少し遅くなる。水位が上がり、越流口から余分な水が石敷きへ逃げた。
砂利穴は溢れなかった。
完全ではない。
枝の柵には葉が残り、浅鉢にも葉が入った。越流先の石敷きは湿った。だが黒い水が一気に広がることはなかった。
トマは思わず息を吐いた。
「流れた」
ソーマは頷いた。
「ただ、葉を取らないと次は詰まります」
「俺、雨の日は見る」
トマは自分でも驚くほど早く言った。
リナが彼を見た。少し意外そうだったが、嫌そうではない。
「じゃあ、雨の日係?」
「そんな係、あるのかよ」
「作ればあるよ」
リナが言うと、トマは言い返せなかった。けれど、悪い気はしなかった。
ソーマは木板に新しい印を描いた。雨の日。葉を見る。枝を上げる。浅鉢を見る。越流口を見る。
「トマさんの板も必要ですね」
「俺の?」
「はい。雨の日の見方は、トマさんが一番知っています」
トマは視線を落とした。
胸の奥がくすぐったいような、怖いような感じがした。板を持つということは、失敗したら分かるということでもある。見なかったら、詰まる。忘れたら、溢れる。
役割は、褒められるだけではない。責任がついてくる。
リナが小さく言った。
「最初は一緒に見るよ」
トマは彼女を見た。
「藁係なのに?」
「雨の日も、裏口は使うから」
ソーマは二人を見て、少しだけ表情を緩めた。
その日の夕方、空はまた曇り始めた。
修正した雨水溝、枝の柵、越流口、石敷き。どれも小さく、頼りなく見える。大雨が来れば足りないかもしれない。落ち葉が多ければ詰まるかもしれない。越流先も、何日も続けばぬかるむだろう。
だが、今日の失敗は昨日より見える形になった。
見えるなら、次に備えられる。
ソーマは黒く濡れた土の端にしゃがみ、指で土の色を見た。雨で薄まった油膜は広がり、細かな泥が石の間に入り込んでいる。完全に元へ戻すには、しばらく乾かし、汚れた表層を取り除く必要があるかもしれない。
また仕事が増える。
その事実に、胸が少し重くなる。
けれど、トマが枝の柵を持ち上げ、詰まった葉を古布へ落としているのが見えた。リナが横で板に印をつけている。グレッグは少し離れて、その様子を黙って見ていた。
一人では見落とした。
雨を、葉を、庇の滴を、トマの知っていた足元の濡れ方を。
だからこそ、一人で続けてはいけないのだ。
翌朝、小雨が降った。
大きな雨ではない。けれど、試すには十分だった。庇から落ちた水は別溝を伝い、浅鉢へ入る量は昨日より少ない。枝の柵には葉が数枚かかり、トマがそれを見つけて取り除いた。越流口から水は少しだけ逃げ、砂利穴は溢れなかった。
リナが笑った。
「今日は、失敗じゃない?」
ソーマは雨に濡れた浅鉢を見た。
「今日は、まだ大丈夫です」
「まだ?」
「はい。もっと強い雨なら分かりません」
リナは呆れたように肩を落としたが、もう怒らなかった。
「じゃあ、強い雨の日も見る」
トマが小さく頷いた。
「俺も見る」
ソーマは二人に向き直った。
「お願いします」
その言葉に、トマは背筋を伸ばした。リナも、少し誇らしそうに板を抱えた。
雨の日の失敗は、消えたわけではない。
ただ、次に見る目が増えた。
昼前、オルグが宿に立ち寄った。白い壁材の試験を見るつもりだったらしい。だが裏口の雨水溝と枝の柵を見ると、しばらく黙っていた。
「水ばかり相手にしてるな、坊主」
「水が、土を壊すので」
「火も壊すぞ」
ソーマは顔を上げた。
オルグは窯場の方を顎で示した。
「次の焼きで、壁材用の砂を少し焼いてみる。混ぜ物によっては、白石の効きが変わるかもしれん。来るなら来い」
砂を焼く。
ソーマの中で、別の扉が開く音がした。
水の失敗を直したばかりなのに、火の問いがまた近づいてくる。乾燥、焼成、収縮、反応。土は水にも火にも揺さぶられる。
彼は雨に濡れた手を見た。
次は、砂そのものを見ることになるのかもしれない。
水の道は、まだ完成していない。
けれど、火の道もまた、彼を待っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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