第4章 第103話 フェルドの古い知人
第4章 第103話
フェルドの古い知人
フェルド老師は、その朝、工房の奥にある古い棚を開けた。
棚は普段ほとんど使われていない。白灰の粉も、砂の試料も、黒砂の瓶も置かれていない。奥まった壁に背を向けるように立ち、長い年月の埃をかぶって、そこだけ時間が止まっているようだった。
老師が鍵を差し込むと、乾いた金属音がして、ソーマはなぜか息を止めた。
中にあったのは、古い木箱だった。
王立錬金院の天秤印が焼き付けられている。だが、金具は黒ずみ、角は擦り減り、かつて白かっただろう布紐は黄ばんでいた。フェルド老師はその箱を作業机の上に置いたが、すぐには蓋を開けなかった。
冬に向かうラウゼンの朝は冷たい。窓の外では、工房街の煙が低く流れている。炉に火を入れる音、遠くの石畳を馬車が通る音、ナーシャが水桶の薄氷を割る音が、工房の沈黙を余計に際立たせていた。
ソーマは机の向かいに立ち、木箱とフェルド老師の手を見ていた。
老師の指は、いつも通り大きく、節ばっている。白硬材候補の試料を摘まむ時も、黒砂を皿で洗う時も、迷いのない手だった。だが今、その指先は蓋の縁に置かれたまま、全く動かない。
「オルセイン先生は、老師の師匠ですか」
ソーマが尋ねると、フェルド老師は短く息を吐いた。
「師ではない。友でもない。だが、若い頃は同じ部屋で学んだ」
その言い方は、近いようで遠かった。
「古錬金術の記録係だ。光属性で、紙と記憶を読むのがうまい。王立錬金院では珍しく、派手な成果より古い失敗を好む男だった」
古い失敗を好む。
ソーマはその言葉に、少しだけセラを思い出した。失敗片に札をつけ、誤読された記号を記録し、白い流出線を消さなかった彼女の姿。光属性は治癒や明かりだけではない。情報、記録、痕跡を扱う力でもある。
フェルド老師は木箱を開けた。
中には、薄い冊子が数冊、古い光札、割れた硝子管、黒く焼けた金属片が入っていた。どれも丁寧に布で包まれている。けれど、その丁寧さがかえって痛々しかった。
「これは」
「事故のあと、持ち出せたものだ」
工房の空気が冷えたように感じた。
ソーマは過去に聞いた話を思い出す。王立錬金院で起きた爆発事故。フェルド老師は失敗を隠さなかった。記録を残し、危険を報告し、結果として追放された。
だが、その場にいた人間は老師だけではなかったはずだ。
「オルセイン先生は、その事故の時も?」
「いた」
フェルド老師は焼けた金属片を布の上に置いた。
「ただし、事故の現場にはいない。記録保管室にいた。事故後の調査で、わしの記録を読んだ」
「老師を助けてくれたんですか」
口にしてから、ソーマは少し後悔した。
助けたなら、老師は追放されていない。そんな単純な話ではないはずだった。
フェルド老師は怒らなかった。
「助けようとはした。だが、錬金院の判断は変わらなかった」
その声に、恨みは薄かった。少なくとも、表面には出ていない。けれど、まったく消えているわけでもなかった。
ソーマは観察した。
老師はオルセインを責めているわけではない。だが、信じ切ってもいない。古い知人という言葉は、親しさではなく、時間の長さを示している。
仮説を立てるなら、オルセインは敵ではない。けれど味方とも限らない。王立錬金院に残った人間であり、同時に失敗の記録を捨てなかった人間。
そこに、今回の封書の意味がある。
セラが静かに工房へ入ってきた。手には記録帳と、白硬材候補の仮登録写しを持っている。
「老師、昨日の訪問記録を清書しました。鉱山仲買人の件も入れてあります」
「置け」
セラは机に置き、古い木箱の中身を見て少しだけ目を見開いた。
彼女の視点では、それは資料であり、傷でもあった。
焼けた金属片。歪んだ硝子管。焦げ跡のある光札。失敗の現物が、これほど長く保存されている。光属性の記録係として、セラはその意味が分かった。
捨てなかったのだ。
怒りも、悔しさも、責任も。
「この光札、まだ読めますか」
セラが尋ねると、フェルド老師は首を横に振った。
「半分は焼けている。無理に読めば崩れる」
「王都へ持っていくんですか」
「持っていかん」
即答だった。
ソーマは少し驚いた。
「でも、オルセイン先生は古錬金術資料の整理に老師の知見を求めているんですよね」
「だからこそ、持っていかん」
フェルド老師は箱の蓋を指で叩いた。
「これは証拠であり、警告だ。だが同時に、危険な知識の断片でもある。王都へ持っていけば、誰の手に渡るか分からん」
ソーマは黙って頷いた。
危険な知識は、隠せば安全とは限らない。だが、広げれば危険が増すこともある。火で岩を砕く粉のようなものは、特にそうだ。言葉だけでも人を動かす。ましてや具体的な手順や再現条件が加われば、守る前に壊す道具になりかねない。
説明しなければ危険が伝わらない。
説明しすぎれば再現される。
その境界をどう引くか。
課題はすでに工房の中に入ってきていた。
「では、何を持っていきますか」
ソーマは尋ねた。
フェルド老師は、木箱の中から一冊だけ薄い冊子を取り出した。
「事故そのものの記録ではない。事故後に書いた管理案だ」
「管理案」
「扱うべきでない粉を、どう扱わないかという管理案だ」
ソーマはその言葉を心の中で繰り返した。
扱うべきでない粉を、どう扱わないか。
それは矛盾しているようで、矛盾していなかった。
危険だから触れない。ただ遠ざける。それだけでは、誰かが別の場所で同じものを作る。危険を理解し、保管を禁じ、問い合わせを記録し、代替案を示す。そのためには、最低限の輪郭を知っていなければならない。
冊子の表紙には、古い字でこう書かれていた。
可燃性の混合粉類の事故予防覚書。
ソーマは中を開こうとして、手を止めた。
「読んでもいいですか」
「今は駄目だ」
フェルド老師の声は硬かった。
「お前は知識を拾いすぎる癖がある。今読むと、危険の形より、中身を見ようとする」
ソーマは反射的に言い返しそうになり、口を閉じた。
図星だった。
研究者としての前世がある。現象を見れば、どうしてそうなるのかを知りたくなる。白硬材候補では、その好奇心が役に立った。
だが、危険な粉では同じ姿勢が危うくなる。
ソーマは息を吐いた。
「分かりました。今は読みません」
「読みたければ、まず目次だけ写せ」
「目次だけ?」
「何が書かれているかを知ることと、中身を知ることを分けろ」
フェルド老師は冊子を閉じたまま、ソーマの前へ置いた。
「観察、条件、解釈を分けたように、危険知識も層を分ける。題名。危険分類。管理方針。事故例。代替案。最後に、必要なら詳細。お前が王都で触れるのは、前半だけだ」
ソーマは背筋を伸ばした。
これは新しい記録法だった。
白硬材候補では、失敗を隠さないことが重要だった。だが危険な粉では、失敗を公開するにも範囲を選ばなければならない。事故の教訓は共有する。再現条件は渡さない。
技術を広げるための記録から、危険を広げないための記録へ。
セラはその横で、光札を三色に分けた。
白は、同行者全員が読める札。
青は、王都の管理者と発明登録局の担当者だけが読む札。
黒は、封じる札。
「この三つを、最初から混ぜないようにします」
セラは言った。
「白の札には、避けるべき行動と連絡先。青の札には、保管責任者、開封条件、返却手順。黒の札には、持ち出さない原記録の所在だけを書きます」
「所在だけですか」
「はい。中身を書けば黒ではなくなります」
その言葉に、ソーマははっとした。
どこに何があるかを記録することと、何が書かれているかを写すことは違う。記録を残すという言葉の中にも、さらに細かな線引きがある。
ハンナは、王都発明登録局へ渡す添付目録を作り直した。
《危険粉類の具体的な材料名、作成手順、実演要求には応じない》
という最初の一文が目を引く。
ソーマはまず目次を写し始めた。
一、可燃性の混合粉の一般危険。
二、湿気、摩擦、火花、保管場所。
三、事故時の退避。
四、採掘に用いない方針。
五、代替採掘案。
六、記録封印。
その先に細かな項目があったが、老師が手で押さえた。
「そこから先はまだいい」
「はい」
ソーマは筆を置いた。
目次だけでも、十分に重かった。
そこには、何かを作る喜びがなかった。新しい材料が形になった時の胸の高鳴りも、炉から取り出した試験片を割る緊張もない。
あるのは、事故を起こさないための言葉ばかりだった。
湿気を避ける。
火から離す。
人を退ける。
保管しない。
試さない。
使わない。
白硬材候補の記録帳には、失敗の先に次の試作があった。だが、この冊子の失敗の先には、次の試作を行わないという判断があった。
それもまた、技術なのだとソーマは思った。
少し悔しさがあった。
同時に、安堵もあった。
知りたいという欲求を止めるのは、自分で思っていたより難しい。すでに危険な輪郭を知っているからこそ、なおさら不用意に繋げてしまいそうになる。
知らないふりではない。
作らないために、あえて踏み込まない。
フェルド老師はそれを教えようとしていた。
昼前、ハンナが王都側へ返す返信案を持ってきた。
王都の書状は、ラウゼンの職人同士の会話とは違う。どの言葉も磨かれ、練られ、責任の所在が曖昧にならないよう組まれている。
「ここです」
ハンナが一箇所を指した。
「王立錬金院からの古錬金術資料整理への協力について。フェルド老師は、どこまで応じますか」
フェルド老師は即答しなかった。
ソーマは、老師の顔を見た。
王都へ行くと決めた。だが、何に応じるかは別の問題だ。
「オルセイン先生が、もっと詳しく聞いてきた場合はどうしますか」
ソーマは思い切って尋ねた。
フェルド老師は、しばらく返事をしなかった。
「あいつは、聞くだろうな」
「拒めますか」
「拒む」
短い答えだった。
「ただし、黙るだけでは足りん。なぜ拒むのかを記録に残す。危険だから、では弱い。何が広がると危険なのか。誰が管理できないのか。代わりに何を提示するのか。そこまで言わなければ、ただの感情論になる」
ソーマは頷いた。
王都で必要なのは、知識ではなく態度だけでもない。
拒否を説明する技術だ。
「事故予防と保管管理については話す」
老師は言った。
「だが、再現実験には応じない。危険な混合粉類の配合、製法、実演には関与しない。採掘用途への転用も拒否する」
ハンナはそのまま書き留めた。
その横で、セラが静かに補足する。
「代替案として、爆発を使わない採掘、水割り、くさび、熱差利用、防火補強、換気改善を提示」
「よい」
フェルド老師が頷いた。
危険な粉を拒むだけではない。
代わりに作るものを持つ。
それが、未来への道になるのだとソーマは感じた。
夕方、フェルド老師は古い木箱を再び棚へ戻した。
ただし、事故予防覚書だけは別の小箱に入れた。小箱には光札が貼られ、封には老師とセラの印が重ねられた。勝手に開ければ、札が変色して記録に残る。
それを見て、ソーマはふと思った。
前世の研究所にも、危険物の管理棚があった。鍵、表示、記録、保管責任者、廃棄手順。あの頃は当たり前だったものが、この世界ではまだ人の手と魔術で組み立てられている。
設備はない。
けれど考え方は持ち込める。
ただし、危険な中身ではなく、危険を扱う仕組みとして。
夜になり、工房の食卓には温かい豆の煮込みが出た。硬いパンを浸すと、湯気と塩気の匂いが立つ。ナーシャは寒い寒いと言いながら水瓶を抱え、ユーリは王都の市場にはもっと大きなパンがあるらしいと話していた。
ソーマはその会話を聞きながら、自分が一人で王都へ向かうのではないことを感じていた。
もちろん、全員が一緒に行けるわけではない。
だが、それぞれの記録と道具と注意が荷物に入る。水の声も、風の目も、火の記録も、土の練習札も、光の封印も持っていく。
フェルド老師は食事の終わり、ソーマに一枚の古い紙を見せた。
そこには、若い頃のフェルド老師と、もう一人の青年の名が並んでいた。
フェルド・ヴァイス。
オルセイン・ヴァルム。
共同記録者。
紙の端には、二人とは別の筆跡で短い評が残っていた。
《試験者フェルド、観察に優れるが判断が早い》
《記録者オルセイン、保管に優れるが公開を渋る》
ソーマは思わず顔を上げた。
「昔から、そういう人だったんですね」
「昔からだ」
フェルド老師は、少しだけ苦い顔をした。
「俺は早く現場へ戻したがった。あいつは棚へ戻したがった。どちらも間違いではなかったが、どちらも足りなかった」
「今なら、違いますか」
「分からん」
老師は紙を畳まず、しばらく机の上に置いたままにした。
「だから会う。人間も記録も、古いまま止まっているとは限らん」
「昔は、同じ失敗を見ていた」
老師は言った。
「だが、今も同じものを見ているとは限らん」
ソーマはその紙を受け取らず、机の上で見た。
「老師は、オルセイン先生を信じていますか」
「信じたいとは思っている」
その答えは、信じている、ではなかった。
だが、信じていない、でもなかった。
長い年月を挟んだ人間関係は、試験片のように割って中を見ることはできない。表面の硬さも、内部のひびも、簡単には分からない。
だからこそ、会いに行くのだ。
王都へ向かう理由が、また一つ増えた。
白硬材候補の説明。
危険な粉を作らないための線引き。
フェルド老師の古い知人が、今どちら側に立っているのかを知ること。
ソーマはその夜、記録帳の最後にこう書いた。
オルセイン・ヴァルム。光属性。王立錬金院古錬金術記録係。フェルド老師の古い共同記録者。事故後、老師の記録を読んだ人物。
信頼、未判定。
そう書いてから、少しだけ迷った。
人間に未判定と書くのは冷たすぎる気がした。だが、今はそれ以上でも以下でもない。
ソーマはその下に、別の一文を加えた。
会ってから、観察する。
窓の外では、冬の星がくっきりと光っていた。
ラウゼンを発つ日は、近づいている。
そして王都では、白硬材候補の白い壁だけでなく、危険な火の記録もまた、彼らを待っているのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




