【短編小説】汝赤口、入滅せよ
汝赤口、入滅せよ!
朝から火をふんだんに使った和定食が腑に落ちた。
煤けた背中を搔きかながら家を出る。
咥え煙草で北風に逆らい、駐車場へと降りる。
寝起きの悪いSDRは五回目のキックでようやく不機嫌な欠伸をした。
「お前、そんなに低血圧だったか?」
単車に話しかける気狂い。
令和じゃ通報案件らしい。
単気筒2ストロークのリズムはやけに優しく耳をくすぐり、チョークを引いて濃いめになった混合比率は社外製のチャンバーを通して白い煙になる。
カストロールの甘い香りが鼻をからかう。
暖気と言う前戯が終わってSDRに跨る。
クラッチを切りシフトペダルを踏む。
アクセルを開く。
SDRは、やはり不機嫌な声で応える。
「グズるなって、俺も働きたくなんか無いんだから」
単車と話す気狂い。
SDRは仕方なしに動き出す。
お前が調子の良い時を教えてくれ。
中年は無機物有機物の分別無く、調子は悪いものらしい。
電動ブロワーを持った駐車場の清掃夫たちが道を開ける。
恐らく全員が何らかの疾患持ちだ。
そのうち一人はレックリングハウゼン。
俺と同じエレファントマンだ。だが病状は俺の方がマシだ。
あそこまで酷くなったらと考える。
俺なら死ぬ。耐えられない。
拾う希望や喜びよりも、突きつけられる絶望の方が多いはずだ。
それとも練炭を焚く気力すら無くしちまうんだろうか。
それこそ絶望だ。
人生はそこまでして生きるもんじゃないだろう。
ウインカーを点滅させながらSDRと共に駐車場を出る。
サイドミラーの中のエレファントマン。
ゴムタイヤが踏んだ砂利が飛んですれ違う高級車に当たる。
人生に転がっている不愉快な小石と糞のほとんどは他人のものだ。
エレファントマンは小さくなる。
だが奴の腫瘍は小さくならない。
俺の腫瘍だってそうだ。
SDRのスピードが上がる。単気筒2ストロークは激しく回転する。振動する。
空気が粘り気を含んでまとわりつく。
俺は身体の輪郭を知覚する。
エレファントマン!
耐えられない。
景色と音が小さくなる。
狭窄した視野の中で希望が光る。
飛び降り、飛び込み、首吊り、練炭、入水、明、イカ焼き、風呂なんでもこい。
死を持ってこい。
それだけが最後の救いだ。
それだけが最後の希望だ。
赤い信号が光る。
SDRはスピードを落とす。
停止線を越えずに停まる。
要するに俺は俺の死を死にたい。
労働が終わり、再びSDRに跨る。
行きと同じ道を帰り、今度は誰もいない駐車場に停める。
SDRは眠りにつく。
暗い部屋に戻りため息を飲む。
労働に俺の死は無い。
だがこの部屋にだって俺の死は無い。
惜しまれながら死んで行く英雄に憧れて窓を開ける。
広がる一面の灯り。
生活、生活、生活。
部屋に溜まった埃とため息が出ていく。
通りに散らばった諦めと希望が転がり込む。
豚の安心があるなら欲しい。
コンビニで買えるならそれに越したことは無い。
狼の不安。
憧れていたそれは俺から程遠く、だが不安ばかりが身体を蝕む。
エレファントマン。
メキシコのプロレスラーみたいなマスクをして生活するのもアリか?
それともイスラム教徒みたいに目元以外を布で隠すか。
そうまでして生きたい人生かどうかも分からないのにな。
なるべく小さな幸せとなるべく小さな不幸せをなるべく沢山集めて、全てを千切って真っ赤な夕焼けの海に棄てる。
それはイメージの問題だ。
結局は死ぬ。
それは現実の問題だ。
エレファントマン。
俺は希望を探していたはずだ。
例えば俺の手を取ってくれる人間を。
だが辿り着いたのはカーブを曲がる気すら無くして事故死するか、病死をするか、耐えきれずに狂死するかの昏い光。
「先生、自死は狂死に入りますか?」
「カーブを曲がらないのも含まれます」
「それが病気由来の成分なら病死では」
「関連性が認められません」
「さようなら」
「さようなら」
俺は単車に話しかける気狂いだ。
SDRは真っ直ぐ伸びたその道を走る気狂いだ。
120km/8500回転。
警告灯。
赤信号。
嘘だ。
割れたピストンシリンダー。
最大馬力なんてもう出ない。
内臓疾患がマシなのか表皮疾患がマシかのかは知らない。
食えない事の絶望を俺は知らないし、脳みそが上手くやれない絶望を俺は知らない。
俺が知ってるのは17th-NF1のバグだけだ。
後戻りはできない。
そして未来も無い。
SDRにバックギアは無い。
ガソリンも足りない。
ウインカー。
曲がり角。
俺はハンドルから手を。
胡蝶の夢。
嘘だ、都会に蝶なんていない。
俺は練炭を抱えて風呂場で眠っていたはずだ。
そう言えば子守唄をまだ決めていなかった。
でも窓は開けないでくれ。
暗い風呂場に虹は出ない。
俺は暗闇で虹を探している。
俺は人生の正午を探してる。
汝赤口、入滅せよ。
汝赤口、入滅せよ。
光は消えた。




