表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

じゃあ、娘なんて産まなきゃ良かったのでは?

作者: 風谷 華
掲載日:2025/08/05

薔薇の香りが風に乗り、庭園のレースが軽やかに揺れる。その控えめな華やかさは、セリーナ・フォン・アグリスの世界そのものだった。白磁のカップを口元に運びながら、彼女は柔らかな笑みを浮かべる。


「今朝の紅茶はいかが?」


母、アグリス公爵夫人の声には慈愛が満ちていた。セリーナは微笑み、裕福に整えられた指先でティーカップを優雅に置く。


「とても美味しいですわ。まるで伯爵夫人のお屋敷でいただいた紅茶のよう。」


母は微笑み、セリーナの髪を軽く逸らした。


「あなたはこの家の誇り。公爵家と王室を繋ぐ未来そのものなのよ。」


其の言葉は、セリーナの胸に静かに刻まれていた。三人の兄たちからの優しい視線、父の誇らしげな微笑み、そして王子との約束――すべてが「揺るがない絆」として彼女の人生を支えていた。


しかし、完璧に見えたその日常に、小さな違和感が忍び寄っていた。


夕方、妹や兄たちと談笑する庭先で、侍女たちの間から囁き声が漏れ聞こえてきた。


「最近、あの新しい侍女、陰の方でじっとセリーナ様を見ているって…」

「お顔が姫君そっくりだって噂ね」

「まさか、そんなこと…」


セリーナは聞こえなくてもいい言葉を、確かに心の奥で受け止めてしまった。

「似ている」——その一言がなぜか、胸に石のように沈んで引っかかった。


その夜——薔薇と灯籠の鍵がかかった庭を、彼女は一人歩いていた。月は柔らかく冷たく、白い光を落とす。


(どうして、胸がざわつくのかしら……)


そんな思いの中、薄暗いアーチの陰から一人の影が現れた。細身の長いシルエット、その顔はセリーナと瓜二つだった。違いは、目の下にある小さな泣きぼくろだけ。


「似てるでしょう?」と、少女は声を落とし、月光に照らされた髪を揺らした。

そしてゆっくりと笑う——セリーナの心は、その瞬間から“揺らぎ始めた”。


「……たまに、入れ替わったりしてみない?」


その言葉は、月の冷たい光と共に、セリーナの耳に滑り込んだ。


「……何を言っているの?」


彼女はゆっくりと問い返す。自分と瓜二つの少女は、真っ直ぐに見返してくる。怖くはなかった。むしろ、不思議と懐かしいような——だが、確実に「不気味な」何かが、その視線にはあった。


「貴女、名前は?」


「リディア。新しく雇われた侍女よ。でも、覚えてくれなくていいわ。どうせすぐ、忘れられるから」


それは、笑って言うにはあまりに哀しい台詞だった。


「あなた、私に似ているって、よく言われるの?」


「ううん。言われたのは、今日が初めて。でも……前から鏡を見るたびに思ってたの。私、本当はあの窓の中にいてもおかしくないって」


彼女が顎で示したのは、公爵家の三階にある、セリーナの寝室の窓だった。


セリーナは息を呑む。どこかで、この子が冗談を言っているのだと信じたかった。でも、目の前のリディアは、少しもふざけていなかった。


「ねえ、セリーナ様。いつか、お互い、入れ替わってみない?」


「……どうして?」


「貴女は、きっと退屈してる。綺麗なドレスを着て、貴族の娘として愛されて……それだけで、本当に満たされてる?」


その問いに、すぐには答えられなかった。セリーナは確かに愛されていた。でも、王子との最近のすれ違い、兄たちの視線の変化、そして——


(私の顔をしたこの子は、私が言えないことを、代わりに口にしてくれている)


「ほんの少しだけなら……」


自分でも信じられない言葉が、唇からこぼれた。


リディアが口元に手を当てて、微笑む。


「ふふ。ありがとう、セリーナ様。いつか、わたし、貴女になってみるね」


そう言って、リディアは踵を返し、庭の闇に溶け込むように姿を消した。


セリーナはその場に立ち尽くしたまま、空を仰いだ。月が、じっと彼女を見下ろしていた。


その夜、眠れなかった。


胸がざわついたまま、目を閉じてもリディアの笑みが浮かんでくる。まるで、心の奥を覗き込まれたような気がしてならなかった。


(あの子は、なぜ……私に、似ているの?)


翌朝、鏡の前で自分の顔を見た。目の下には何もない——そう、泣きぼくろさえなければ、あの子と自分の違いは誰にも分からない。


そしてセリーナは、初めて気づいた。


自分という存在が、誰かと“取り替えられる”可能性があるのだということに。


ーーー


「セリーナ様、こちらにお茶を」


朝の光が差し込むダイニングで、侍女の一人が丁寧に紅茶を注いだ。銀のポットの動き一つを取っても、この家の侍女たちは完璧だった。セリーナ・フォン・アグリスはいつものように微笑み、軽く礼を言う。


けれど——その日から、何かが違った。


すれ違う侍女たちの視線。言葉にせずとも、誰かが何かを知っている気配。


「ねえ、あの新しい侍女のこと、見た?」


「本当に似てるのよ、セリーナ様に」


「私、一瞬見間違えたわ……顔も髪も、あんなにそっくりってある?」


廊下の陰で囁かれる噂。それは、セリーナの耳にもはっきりと届いていた。


(“似ている”……?)


心に冷たい水が一滴落ちたような感覚。


あの夜、月下の庭で出会った少女——リディア。

自分と瓜二つの顔。唯一の違いである、左目の下の小さな泣きぼくろ。


けれど、誰もそのことを言わない。気づいている様子もない。

——泣きぼくろを見たのは、自分だけだ。


(じゃあ……このままなら、本当に“わたし”と入れ替わることも……)


考えたくないはずの思考が、頭の奥でひたひたと這い寄ってくる。


その日の夕刻、またセリーナは一人で庭へ出た。気持ちを整理するため、ではなく——あの子に、会いたかった。


そして、まるで待っていたかのように、彼女は現れた。


「……来てくれると思ってた」


月明かりの下で笑う少女。リディア。やはり似ている。

まるで、セリーナの心の奥を映す鏡のように。


「今夜、入れ替わろう?」


「……ほんの少しだけよ」


セリーナは頷いた。自分でも信じられないほど、あっさりと。


「ありがとう。じゃあ、これ着て」


差し出されたのは、侍女服。着慣れたドレスを脱ぎ、質素な生地に腕を通す。背筋に小さな恐怖が走った。


(これは、わたしじゃない)


鏡の中の自分が、知らない“使用人”に見えた。


リディアはすでにセリーナのドレスを着ていた。立ち姿、笑い方、手の上げ下げ——完璧な模倣だった。


「すごいわね……あなた、どうしてそんなに……」


「練習したもの。毎日、あなたを見てた」


悪びれずに言うリディアの瞳には、どこか嬉しさすら滲んでいた。


「でも、一つだけお願いがあるの。あなた、侍女の仕事できないでしょ?」


「……ええ」


「だから、わたしのそばにいて。ただ黙って立っててくれればいい。動かなくていい。話しかけられても答えないで」


「どうして?」


「あなたにバレてほしくないの。誰にも。誰にも私たちが入れ替わったって、気づかれたくないから」


セリーナはうなずいた。


それはただの「遊び」だと思っていた。でも、リディアの目に浮かぶ光は、決して冗談ではなかった。


彼女は本気だった。

そして——自分の居場所を、心の底から欲していた。


数分後、セリーナは“リディア”として廊下に立っていた。


すれ違った年若い侍女が、眉をひそめて言った。


「何ぼんやりしてるの、リディア。お嬢様の付き人でしょ?しっかりしてよ」


「……はい」


ぎこちない返事しかできなかった。普段使い慣れた敬語が、こんなにも重いとは思わなかった。


足音を消して歩くのも、腰を折って礼をするのも、想像よりずっと難しい。


何より辛かったのは——


「公爵様が今夜お戻りとのこと。今のうちにお部屋を整えておきなさい」


という侍女長の命令だった。


(父上に、侍女として頭を下げるの?)


喉の奥がきゅっと締めつけられるようだった。


その時、リディアの声が背後から届く。


「大丈夫よ。今日はお顔を見せに来ないわ。……いつもそうだから」


彼女の言葉に、ほの暗い諦めが滲んでいた。


それが何よりも恐ろしかった。


(どうして、こんな……)


セリーナは胸に沈む重さを抱えながら、リディアのそばにぴたりと立った。誰にも気づかれないように、黙って。静かに。


そして思った。


——この子は、わたしになろうとしている。


その夜、屋敷に小さな影が忍び込んだことに、誰も気づかなかった。


それが、この家を飲み込む嵐の“始まり”だったのに。


ーーー


(ヴァレリア視点)



14になった日、姉が嫁いだ公爵家に、私は侍女として送り込まれた。

父が決めたことだった。

「お前は、あの子の足元で生きればいい」と。


姉は美しかった。聡明で、誰からも愛された。

同じ父の血を引きながら、私は“庶子”として隠されるように育てられた。

名前すら知らない異国の女の腹から生まれた、影の娘。


私は、姉が羨ましかった。

羨ましくて、憎くて、それでも……愛されたいと思っていた。


誰かに、触れてほしかった。

誰かに、「生まれてきてよかった」と言ってほしかった。


だから——


公爵が寝室を間違えた夜、私は黙って灯りを落とした。

その日、姉は疲れていた。三人目の男の子を産んだばかりで、寝室には戻らなかった。

私は彼女の寝間着を纏い、香を焚き、黙って布団の中に横たわった。


公爵は名を呼ばなかった。

私は目を閉じて、すべてを受け入れた。


——それだけでよかった。


一夜限りの夢。

それでよかったはずだったのに、私は孕んだ。


運命が微笑んだと、思った。


姉の夫に抱かれ、姉の家で娘を産むことができた。

公爵がすべてを知ったとき、私は追い出されると思っていた。


でも——


「娘を連れて、屋敷の侍女として働け。ただし、二度と俺の前に現れるな」


それが答えだった。


あの人は、私を抱いたことも、娘を産ませたことも、「汚点」として処理した。


それでも私は残った。

娘を連れて、屋敷に住み、見上げる生活を選んだ。


あの子だけは、愛されると思ったから。

私を選んでくれなかったあの人が、せめて娘には、手を伸ばしてくれると信じた。


でも、違った。

公爵はあの子にも触れなかった。

姉の子どもたちには笑いかけるのに、あの子には目もくれなかった。


だから私は、教えたの。


「リディア、あなたは美しいわ。お母様に似て、男を虜にする顔をしている」

「あなたは誰よりも強い。誇りを持ちなさい。セリーナ様に負けてはいけない」


私は娘に、誇りと憎しみを混ぜて与えた。


愛されるためには、媚びることを恐れてはいけない。

欲しいものは、自分で奪うのよ。


それが、この世界で、私たちが生き残るための方法だから。


ーーー


「……レオン様」


微かな灯りが落ちる応接室の片隅で、リディアはそっと頭を垂れた。

彼の婚約者“セリーナ”として。


——だが、王子は、その瞬間に悟っていた。


「……君は、セリーナじゃない」


その言葉に、リディアはわずかに肩を揺らした。けれど動揺の色は見せない。

静かに顔を上げ、王子の目をまっすぐ見つめ返す。


「……どうして、そう思うのですか?」


「目の下に、泣きぼくろがある」


即答だった。

リディアはわずかに目を伏せ、唇をつり上げる。


「本当に、それだけですか? ……だったら、取ってしまえばいいのにね」


「君は、誰だ?」


「リディア。侍女です。でも、今日は“セリーナ様”として参りました。

王子様が……本当にお望みなら、私はセリーナになります」


王子は、唇を噛んだ。


目の前にいる少女は、確かにセリーナではない。

けれど——


(声も、仕草も、香りまでも、あまりに似ている)


「セリーナは……僕の大切な婚約者だ。軽々しく、その名を使うな」


「……じゃあ、セリーナ様の代わりに、あなたに触れてはいけないの?」


リディアは、椅子の肘掛けを指先で撫でるように、王子との距離を詰めた。


「本物の彼女は、いつまでたっても触れさせてくれない。

手も、キスも、なにも。あなたが求めても、ただ黙って拒むだけ。

……それって、本当に“愛”なんですか?」


「それは……彼女の考えで、僕は——」


「私は、違うわ」


リディアは小さく笑った。その笑みは、あまりに艶やかで、あまりに孤独だった。


「私は、愛されたくて仕方がないの。

だから、なんでもしてあげられるわ。あなたが望むこと、全部。

それが“愛される”ってことだと、教えられて育ったから」


王子は息を呑んだ。


胸の奥がざわめく。

目の前の少女は、違う——と知っているのに、なぜか心が、身体が、抗えない。


「それでも、僕は……セリーナを……」


「いいのよ。忘れて。今夜だけ、私を“彼女”だと思って」


リディアの指が、彼の手に触れる。


その熱に抗えないまま、レオンハルトは、セリーナではない少女の唇に口づけた。


その夜、二人の間に起きたことは、誰にも知られなかった。

——けれど、確かに“何か”が壊れた音を、月だけが知っていた。


ーーー


「今日は違うんだね」


王子の言葉が、いつもより低く響いた。

セリーナは花園のアーチをくぐりながら、その言葉の意味を理解できなかった。


「え……?」


レオンは彼女の手を取ろうとした。だが、セリーナは本能的に身を引いた。

その反応に、彼はわずかに苛立ったように目を細めた。


「この前は、あんなにキスをしたのに」


心臓が止まったような錯覚。


「……なにを、仰っているの?」


「とぼけなくてもいい。君があれほど求めてくれたのは初めてだった。

熱くて、甘くて、まるで夢のようだった——君のほうから、触れてくれたじゃないか」


セリーナは、息を呑んだ。


(私のほうから……?そんなこと、していない)


頭の中が真っ白になる。


「……わたしは、そのようなこと、一度も——」


「……セリーナ?」


王子が不審そうに首をかしげる。


その瞬間、セリーナはすべてを悟った。


(入れ替わった夜。あのとき……リディアが……)


胸の奥がざわつき、怒りとも恐怖ともつかない感情が喉元をせり上げる。


「リディア……なぜ?」


声に出したのは、無意識だった。


王子は眉をひそめた。


「……リディア?どういう意味だ?」


セリーナは何も答えられなかった。

頭の中では、リディアの笑顔と囁きが、ぐるぐると渦を巻いていた。


——“私がセリーナになってあげる”

——“黙って、そばにいてくれればいい”


あれは、冗談ではなかった。

リディアは本気で“自分の居場所”を奪おうとしていたのだ。


それも——王子の腕の中で。


セリーナは、ただ一歩、後ずさるしかなかった。

彼の手が、恐ろしくて、汚れて見えた。


ーーー


その夜、セリーナは一人で使用人棟へ向かった。

灯りの消えた廊下を、怒りと混乱だけを胸に、無言で歩く。


リディアはいた。

誰もいない物置部屋の片隅で、静かに鏡を見つめていた。


「——リディア」


セリーナの声は、冷たい鋼のようだった。


リディアは驚いた様子もなく、ゆっくりと振り返った。


「セリーナ様。どうしましたの?こんなところに……」


「あなた、王子と何をしたの?」


一拍の沈黙。

そして、リディアは笑った。


「あなたが拒んだから、私が抱かれただけよ」


「……なんてことを」


セリーナの拳が震えた。


「どうして……私の顔で、私のふりをして、私の婚約者と……っ!」


「だって、私には他に何もないから」


リディアの目には涙のような光が浮かんでいた。

だが、声はあくまで淡々としていた。


「私は、あなたの“代用品”なの。母様がそう言ったの。“あの顔なら、男は抗えない”って。

だから私は、あなたの顔を借りて、愛されようとしただけ」


「愛されたいから……盗むの?」


「“愛される資格”があると思ってるの?あなたが?」


リディアの声が鋭くなった。


「貴族の娘として生まれて、兄たちに愛されて、両親に大切にされて、王子にまで選ばれて。

全部手にしてるのに、“触れられるのが怖い”なんて、贅沢なこと言って……

だったら私が、全部奪ってあげる。私の方が、きっと上手く愛せるから」


「……!」


セリーナは言葉を失った。


この少女は、自分の顔を持ちながら、まったく違う人生を生きてきた。

愛されなかったことへの飢えが、ここまで人を歪めるのか。


「お願い、リディア。やめて。あなたは、わたしじゃない。あなた自身で……」


「違うわ。

私が“セリーナ”になるの。

あなただけが幸せになるなんて、不公平よ」


その瞬間、セリーナは初めて本気でこの少女を「恐ろしい」と思った。


自分に似ているからこそ、逃れられない。

この呪いのような鏡像から、目を背けることは、もうできなかった。


ーーー


朝、鏡の前に立ったセリーナは、反射する自分の顔を見つめていた。


(今日は、私が“セリーナ”でいられる日……)


そう確認する日々が、もう何度目になるだろう。


入れ替わりは、最初は“ほんの一度きりの遊び”のはずだった。

けれどリディアは、次第にそれを当然のように求めるようになっていった。


「明日は、またお願いね?セリーナ様」


「王子様の前で、少しだけ……」


「ほんの半日だけでいいから」


最初は断っていた。けれど、家族にも、王子にも気づかれないまま、何も起こらずに終わる日々が積み重なるたびに、

セリーナの中で「断る理由」が薄れていった。


(わたしは、いつから“許す側”になってしまったのだろう……)


それでも“完全に”譲ることはなかった。

けれど、日がな一日入れ替わる日もあれば、王子が訪れる日だけ譲る日もあった。


——それが、いつの間にか“普通”になっていた。


家族は気づかない。


兄たちの視線も、母の微笑みも、すべては“本物のセリーナ”に向けられていた。


ただ一人、三男のエドガーだけが、ずっと静かに観察していた。


「最近、お前……香りが変わった?」


ある日、食事中、何気なく言われた一言に、セリーナの手が止まった。


「香水? いや、違うな。振る舞い……?いや、空気だ」


彼の目は笑っていたが、冗談ではないとわかる。


セリーナは咄嗟に「気のせいよ」とだけ答えた。


それ以降、エドガーはことあるごとに彼女に話しかけてくるようになった。


「最近、本を読まなくなったね」


「好きだった紅茶、飲まなくなった?」


「“お前”って、こんな喋り方だったっけ?」


いずれもさりげなく、しかし確実に“違和感”を探っている。


セリーナは笑顔を崩さずに答えるしかなかった。


(お願い、もう気づかないで……)


心の中でそう祈る一方で、セリーナの中に“もう一人の自分”が叫んでいた。


——なぜ、誰も気づかないの!?

——どうして“本物”のわたしより、“偽物”の彼女のほうが、上手くやれるの……!?


王子との距離はますます遠くなった。


「最近、君は随分素直だね。やっと僕を愛してくれるようになったんだね」


そう笑いながら、王子はリディアにキスをしている。


その現場を、セリーナは離れた廊下の陰から見ていた。


(あれは、私の顔をしているけれど……“私”じゃない)


でも、王子はその事実を知っているはずだった。

違いに気づいているはずだった。

それでも、求めるのは——“私の顔をした、彼女”だった。


(私はもう、必要とされていない……)


この屋敷の中で、“わたし”が“わたしでいられる時間”は、日に日に短くなっていく。


心が、声もなく崩れていくのを、誰も知らない。


その夜、セリーナの部屋をエドガーがノックした。


「入ってもいいか?」


セリーナは一瞬戸惑ったが、静かに頷いた。


エドガーは椅子に座るなり、ため息をひとつついた。


「お前……誰だ?」


セリーナの背筋が震えた。


「……え?」


「本物かどうかを聞いてるんじゃない。“誰として”ここにいるのか、だ」


セリーナは、しばらく答えられなかった。

でも、エドガーの視線は、責めるでも、追い詰めるでもなく、ただ静かだった。


「お前が言えないなら、俺が調べる」


「……お願い」


セリーナは、ほとんど声にならない声でそう言った。


「お願い、兄様。……私のこと、見つけて」


ーーー


——本物のセリーナを、俺は見ている



エドガー・フォン・アグリスは観察が得意だった。

学者として、騎士として、そして兄として、彼は常に「言葉にならない違和感」を拾い上げることに長けていた。


妹のセリーナが変わったと感じたのは、ある日の昼下がりだった。


香り。目線。言葉の選び方。

それらが微かに、だが確かに“彼女”ではなかった。


(あれは……誰かが演じているようだった)


最初は体調かと思った。けれど日によって“本物のセリーナ”に戻る日もあれば、明らかに“演技が混ざる”日もある。


——そして今日、彼は確信した。


(昨日の“セリーナ”と、今日の“セリーナ”は、まるで別人だ)


だが、公爵家の長女セリーナを演じられる人間など、他にいるはずがない。


いるとすれば——彼女と“瓜二つの侍女”だ。


エドガーはまず、使用人名簿を取り寄せた。

そこに記されていた名前、「リディア」。


出身地、両親の名、雇用日、担当区域……全ての記録は簡素で曖昧だった。


(記録に細工がある。誰かが、最初から“隠していた”)


次に、屋敷内の侍女に接触した。


「最近、“リディア”はよくセリーナ様の身の回りにおりますわ」


「似ているって評判で、まるで姉妹のようだと……」


誰も不審がっていない。

——いや、気づいていても「気づかないふり」をしているのかもしれない。


そして、夜。

エドガーはセリーナの部屋の扉を叩いた。


「入ってもいいか?」


「……はい」


中にいたのは、今日の“本物のセリーナ”だった。


兄妹としての勘がそう言っていた。


「お前、誰だ?」


彼女の表情が凍った。


言葉に詰まりながらも、セリーナはやがて呟く。


「……お願い、兄様。私のこと、見つけて」


その言葉を聞いた瞬間、エドガーの中で迷いは消えた。


この妹は、確かに“本物”だ。

そして、助けを求めている。


「分かった。お前は黙っていてくれ。俺が証明してやる。

……“本物のセリーナ”が、ここにいるってことを」


エドガーの声は静かで、しかし燃えるような意志に満ちていた。


ーーー


——泣きぼくろ、紅茶、筆跡。全てが語っていた。



使用人棟の廊下は、深夜でもどこか生ぬるい空気が漂っていた。


エドガーは、屋敷内の見回りという名目で静かに歩を進めていた。

目的はただひとつ——“リディア”と名乗る侍女の行動を見張ること。


それは決して、脅迫的な意味ではない。

彼はただ、確かめたかったのだ。


(あの子が、妹セリーナの“代わり”を務めているのかどうかを)


――そして、彼は見てしまった。


深夜、廊下に人影がふたつ。


ひとりはセリーナのドレスを着たリディア。

もうひとりは、侍女服を着たセリーナ。


ふたりは何かを短く言葉に交わし、すれ違い、入れ替わるようにそれぞれの部屋へ戻っていった。


(……本当に、やっていたのか)


この事実だけでも、充分すぎる“証拠”だった。


だが、エドガーは理屈と記録を好む男だ。

感情ではなく、論拠で真実を固めたい。


数日後、彼は以下の手順で確証を得ていく。




侍女の一人に、何気なく質問する。


「セリーナ様とリディア、間違えることはないのか?」


「まぁ……まったく同じ顔立ちでございますから、遠目には……。でも、“立ち居振る舞い”がまったく違いますので」


「顔に特徴は?」


「特には……」


——やはり。泣きぼくろの存在に気づいている者はいない。


エドガーは、図書室の望遠鏡を使い、ふたりを観察する。

正面から見ると確かに瓜二つ。だが、光の角度でわずかに見える“左目の下の小さな黒点”。


それが、リディアである証。




侍女たちから聞いた、“セリーナ様の好みの変化”。


「最近、セリーナ様がお紅茶を変えられましたのよ。前はアールグレイでしたけど、最近はカモミールばかり……」


「お菓子も、甘すぎるものは嫌っていたのに、よくレモンケーキを召し上がるの」


すべて、以前のセリーナとは逆の傾向。


リディアの個人的嗜好が“セリーナ”に上書きされている。




そして、決定的な証拠。


エドガーは、セリーナが王子に宛てた過去の手紙の控えと、最近の手紙を並べた。


「……線が甘くなっている。終筆に癖がある」


妹は書き慣れた筆圧の強い文字だった。

最近のものは、装飾は似せているが筆圧が浅く、全体的に震えている。


——完璧な偽装ではなかった。




すべてをまとめ、エドガーはひとつの結論に至った。


「……やはり、リディアはセリーナを演じている。

そして、セリーナは——消されかけている」


彼は一人、静かに呟いた。


ーーー


——これは偶然ではなく、“呪い”だ




エドガーは、公爵家の古い使用人記録と系譜書を繰り返し読み返していた。


そこには、かつて若き公爵が“姉の嫁ぎ先”として迎えた妻、

——セリーナの母マルグリートと、その妹の名前が確かに記されていた。


ヴァレリア・ル・フレール。

母と異母姉妹、父を同じくする庶子。

平民の娘として扱われたものの、姉の結婚と共に侍女として公爵家に招かれていた。


(名前は変えていたが、あの侍女リディアの母と一致する)


使用人名簿、婚姻記録、出産届——すべての紙の隙間に、ひとつの真実が滲んでいた。


リディアは——


「父と、母の腹違いの妹との間に生まれた娘だ」


つまり、リディアはセリーナにとって“従妹”でありながら“妹のような顔”を持ち、

なおかつ公爵——自分たちの父との“たった一度の夜”で生まれた存在。


エドガーは、旧家臣の一人から聞いた。


「……あの夜は、奥方がご出産の直後で、お部屋には戻られなかった。

奥様の寝所に、侍女がひとりで待っていたと聞いております。

公爵様は、灯を落とした部屋で、そのまま……」


それが、すべての始まりだった。


ヴァレリアは公爵に愛されたのではなく、“公爵夫人の代わり”として抱かれた。


妊娠を告げたとき、公爵は激怒し、使用人たちにも口止めを命じた。

そして、“生まれた娘”を公爵の娘と認めることだけは拒めなかった。


公爵は、表向きヴァレリアとリディアを“侍女として”屋敷に残し、

——その後、二度と顔を合わせなかった。


(……リディアにとって、これは呪いだ)


愛されない母。認められない娘。

屋敷の片隅で“本妻の子ども”たちを見上げて生きる人生。


そして、“瓜二つの顔”を持つセリーナの存在。


リディアが「セリーナになりたい」と願ったのは、偶然でも気まぐれでもなかった。


それは、母が捨てられた夜から続く、長い長い“復讐”だった。


「……俺たちの家族の中に、ずっとひとつ、火種があったんだな」


エドガーは静かに、拳を握りしめた。


「セリーナを、守らなければ」


ーーー

王子レオンハルトの執務室へ向かう道すがら、セリーナの胸は静かに軋んでいた。


今日こそ、終わりにしよう。

何もかも、黙ってはいられない。


彼は、私を裏切った。

私の顔をした誰かを抱き、それを“私”だと信じたまま、愛を語った。


そんな関係に、意味なんてない。


(……本当に、終わらせられるの?)


足が止まりそうになる。


けれど、扉の前に立ったとき、もう迷いはなかった。


「殿下、少々お時間を——」


言い終える前に、王子は立ち上がり、まっすぐセリーナに歩み寄ってきた。


「来てくれたんだ」


その笑顔があまりに自然で、あまりに甘かったから、セリーナは言葉を失った。


「昨日のこと、すごく嬉しかった。君のほうから……あんなふうに求めてくれたの、初めてだった」


(——また、リディアと間違えてる)


「……殿下、わたしは——」


言いかけたその瞬間、彼はセリーナの肩を引き寄せ、唇を重ねた。


驚きと恐怖で身体が凍りついた。


(やめて……やめて……!)


押し返す力もなく、唇が塞がれたまま、涙が零れ落ちた。


数秒後、ようやく王子が顔を離した。


「……どうしたの? そんな顔して。昨日はもっと……」


「昨日は、“わたし”じゃありません」


静かな声が、室内の空気を裂いた。


王子の目が揺れる。


「なに、言ってるの……?」


「あなたが抱いたのは、私の侍女——リディアです」


「……嘘だ」


「嘘じゃありません。

私は、あなたの婚約者であることを、誇りに思っていました。

けれど、あなたは私の姿だけを見て、心を見ていなかった」


「そんなことは——!」


「もう、触れないでください」


セリーナは王子の手を振り払い、後ろへ下がった。


その姿に、王子は初めて“本物のセリーナ”を見た気がした。


けれど——もう遅かった。


「さようなら、殿下。

……これ以上、私の名前を呼ばないで」


扉が静かに閉じられる音が、王子の耳に冷たく響いた。


ーーー



「セリーナを、ここに幽閉したと?」


エドガーの怒声に、王子レオンハルトはわずかに眉をひそめた。

まるで“なぜ怒るのか分からない”というように。


「彼女は危険だ。あれほど混乱していては、公に出すわけにはいかない」


「混乱してるのはお前の頭だ!」


扉を開ければ、薄暗い部屋の片隅にうずくまるセリーナの姿があった。


ドレスは乱れ、表情は青ざめ、まるで別人のようだった。

けれど——その目だけは、凛としていた。


「……兄様」


「セリーナ!」


エドガーは駆け寄り、妹をしっかりと抱きしめた。


「大丈夫だ。もう、誰にもお前を触れさせない」


背後から、重たい足音が響く。

公爵レイモンドがゆっくりと部屋に入ってきた。


その視線が、王子に突き刺さる。


「レオンハルト殿下。これは、誘拐です。

本物の我が娘を閉じ込め、“偽りの娘”を我が家に娶ろうとした罪、弁明はありますか?」


王子は静かに首を振った。


「彼女は……俺を拒んだんです。

初めて出会ったときから、ずっと。

なのにリディアは……リディアは“セリーナ”として、俺を受け入れてくれた」


「偽物だからだ。

お前が求めたのは、セリーナではなく、“セリーナの皮を被った都合のいい女”だったんだ」


エドガーの言葉は痛烈だった。


王子はかぶりを振った。


「違う……違う……!俺は、セリーナを愛していた。

リディアも、セリーナの一部だった。だから両方を愛そうとした。それが、何が悪い……!?」


「お前の“愛”は、彼女の尊厳を踏みにじっているだけだ」


レイモンドの低い声が、部屋の空気を凍らせた。


「お前の父王に、この件を報告する。

我が家の令嬢に対する不当な拘束、そして偽者との婚約。

婚約は破棄だ。……王位継承権の再検討も含め、しかるべき場で裁きを受けよ」


王子の顔から、ようやく“貴族”の仮面が剥がれ落ちた。


「お前たちは……彼女の何を知っている!?」


「全てだ。

俺たちは“本物のセリーナ”と共に、生きてきた。

お前には、それが分からない」


エドガーは、妹の手を引いて立ち上がる。


「行こう、セリーナ。もう大丈夫だ」




セリーナの姿が去ったあと。

王子は部屋に崩れ落ち、そこにひとりの少女が現れた。


リディアだった。


「……失敗、したの?」


「いや。君は、よくやったよ」


レオンは微笑み、床に落ちたセリーナの髪飾りを拾い上げる。


「まだ終わってない。

君は僕のセリーナだ。どこまでも、ね」


リディアの頬が紅潮し、ほんの少し笑った。


——その笑顔は、誰のものでもなかった。


ーーー


セリーナは、中庭の片隅に立つ古びた石造りの小屋に足を踏み入れた。

そこに、ヴァレリアはいた。


木箱に腰かけ、外を見ていた。

その背中は、もう“敵”には見えなかった。ただの、疲れ切った母親のようだった。


「……あなたに、聞きたいことがあるの」


セリーナの声に、ヴァレリアはゆっくりと振り向いた。


「あら。お久しぶりね、“私の姪”さん」


「やめて。そんな風に呼ばないで。

……リディアの母として、あなた自身の言葉を聞かせて」


沈黙。


やがて、ヴァレリアはかすかに笑った。


「……そうね。私が姉の寝所に忍び込んだ、あの夜のこと?」


「……あなたは、子供ができたらいいなって思って、そうしたのよね?」


「ええ。

“あの人”に一度でも触れられたら、私の人生が変わると思った。

貧しい家の庶子として、ずっと姉の後ろに隠されて生きてきた私が……ようやく選ばれると思ったのよ」


「……そして、リディアを産んだ」


「ええ。

あの子は、私にとって“勝利”だったの。

あの人の血を引く娘。姉の娘と同じ顔を持つ子。

あの子を使って、私はこの家に“爪”を残したかった」


セリーナは、拳を強く握った。


「……でも、その子は“愛されなかった”。

父も、兄たちも、あなたも……誰も彼女を“娘”として扱わなかった」


「……そうね。私だって、愛し方なんて知らなかったのよ。

愛されて育ったことなんて、一度もなかったんだもの」


「だったら――」


セリーナの瞳が揺れる。


「だったら、どうして産んだの……!?

どうして、“愛する気のない子”を、この世に……!」


沈黙。

風が、窓辺のカーテンを揺らした。


やがて、ヴァレリアは小さく呟いた。


「……じゃあ、産まなきゃ良かったのかしらね。

……あの子も、こんなふうになるくらいなら……」


セリーナは唇を噛んだ。


「でも、リディアは、あなたに会いたがっていた。

“誰かに愛されたかった”って、ずっと……そう言ってた」


「私に……?」


「ええ。誰でもない、“あなた”に。

それだけで、救われるって思ってたのよ。

……それすら、叶えられなかったの?」


ヴァレリアの目に、初めて涙がにじんだ。


「……ごめんなさい。

……ごめんなさい。

私は、母親になんて、なりたくなかった」


セリーナはそっと近づき、彼女の手を取った。


「リディアは、あなたの娘よ。

もう、逃げないで。

……一度でいいから、“名前”で呼んであげて」


ヴァレリアは、震える唇を噛み締めた。

そして、しばらくして――空を見上げながら震える声で言った。


「リディア……」


セリーナは静かに目を閉じた。


風が吹き抜ける中庭。

二人の女が座り込むようにして、ただ肩を寄せ合っていた。


ーーー

リディアは処刑された。

王家にとって、王族を騙した罪、王子と共謀した入れ替わり、そして正統な令嬢の抹殺未遂は、重すぎる罪だった。


その名は記録から抹消され、

リディアという少女が生きていた痕跡は、家族以外の誰の記憶にも残らなかった。


王子レオンハルトには、王位継承権の完全剥奪と国外追放の沙汰が下された。


彼の行き先は――隣国。

50人の夫を持つことで有名な、年上の女帝のもとへ、**第5番目の“婿”**として差し出された。


それは、政治的処分であり、事実上の“貴族社会からの除籍”であった。


誰もが、罰を受けた。


……でも、ひとつだけ――


私は失われなかった。


「エドガー兄さんが、気づいてくれてよかった。

私を私として、見てくれる人がいてくれた」


セリーナは、庭に咲く白い花に触れながら呟く。


「また、大好きな家族と一緒にいられる。

それだけで、もう十分だわ」


そっと風が吹き、花弁が揺れた。


全てを失いかけた令嬢が、ようやく戻ってきた場所。

それは――自分らしくいられる場所だった。



おわり



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


『じゃあ、娘なんて産まなきゃ良かったのでは?』は、

「本物」と「偽物」、「家族」と「孤独」、「愛される側」と「愛を欲しがる側」のすれ違いを軸に描いた物語です。


最初にこのタイトルを思いついたとき、

それはとても重く、切実な問いに感じました。


物語の中でセリーナも、リディアも、ヴァレリアも、

それぞれの立場で「生まれてきたことの意味」と「生きていることの痛み」に向き合っています。


誰かにとっては“生まれてほしくなかった”存在だったかもしれない。

けれど、その存在が“確かに生きた”ということ自体に、意味があるのだと、

セリーナが最後にたどり着いた姿を見て、少しでも何か残るものがあれば嬉しく思います。


苦しくて、痛くて、それでも最後には

「救われてほしい」と願いながら綴りました。


また、次の物語でお会いできますように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ