013 世界に一つしかない宝物の記憶(鈴乃視点)
◇ ◇ ◇
翌朝、私は昨晩の出来事を思い返しながら、どこか嬉しい気持ちになりながら家を出た。
かっこよかった。かっこよかった。かっこよかった。
昨日ベッドに入ってからもすぐには眠れず、頭の中はこればかり。
触れられたわけでもないのに、肌がやけに敏感になって、呼吸が浅くなって……。
強いオスに守られたメスはこんな気持ちなの?とか、私はお姫様のように助けられちゃったの?とか、いつもは考えないような変なことばかり考えてしまった。
……どうかしていた、あのときの私は。
けれど、本当に凄かった。
……彼の動き、彼の目、彼の隙のなさ。
あれは絶対に普通の人の動きじゃない。武道の心得とか、勘とか、そういうレベルでもないわね。
でも、彼がああやって冗談で返したのなら、今はきっと触れないでおくべきなのでしょう。
「秘密にしてること、いっぱいあるんでしょ」
なら、私は――
「ぜんぶ、暴いてあげるから。待ってなさい凛斗」
静かな決意をその胸に灯して桜王学院に向かおうと歩き出すと……その時。
「げっ」
金髪の憎たらしいギャルがポニテを揺らしながら、私の存在に気付いた。
「人の顔を見て『げっ』って何? 失礼だとは思わないの?」
「はいはい、すみませんでしたー」
自然と私の隣に並んでくる。
なんでこっち来るのよと思いながら、ちょうど通りかかった公園を横目に一瞥する。
その公園のベンチでいつも凛斗は読書をして私たちが登校するのを待っている。
彼が待っていないときは「一緒に登校できない」の意。
つまり今日は一緒に登校できない……か。
いつも凛斗が座っているベンチに彼の姿はなかった。
「鈴乃さんさ、昨日リントがあたしん家出た後かっさらったでしょ?」
「え? どうしてそのことを」
「あーやっぱりそうだったんだ! どうしてそのことを、じゃない! ルール違反でしょ、ルール違反!」
帰り際、窓から見られていたのかもしれない。
「あら? 元々ルールなんてなかったと思うけれど」
「沈黙の了解よ」
「それを言うなら暗黙の了解だと思うわ」
「あれ、そうだっけ――ってそうじゃなくて……抜け駆け禁止!!」
「うーん……でもそうね。昨日は大人げなかったと思うわ。ごめんなさい」
これは、キスしてしまったことに対しての謝罪。
本当に抜け駆けしたみたいになってしまったのも事実。
すると不思議そうに首をかしげる刹菜さん。素直に謝ったのが不思議だったのだろう。
しかしすぐに「大人げなかったって……鈴乃さんだってまだ子供じゃん」と吐き、子供扱いに不服そうな表情をした。
「ねえ……」と刹菜は前髪を指先でいじりながら、ちらっと私の横顔を見た。
「ん?」
「鈴乃さんはなんでリントのこと好きになったの? あたしずっとそれ気になってたんだよね」
刹菜さんは手鏡を見てリップクリームを塗りながらそう尋ねてきた。
「なんで、とは? 恋の始まりに理由なんて必要?」
「いや……鈴乃さんほどの優等生で、人気者ならより取り見取りだよね。……ほら、東川敬とかイケメンだし? リントから乗り換えたら?」
東川敬がイケメン? それが一般的な総意だったとしても、刹菜さん、あなたはそんなこと少しも思っていないでしょう。
あなたの視線を見ていれば分かるわ。凛斗が記憶を失う前から、あなたが彼を見まくってたことなんてバレバレよ。
私も同じだから……。
「ねえ、ど? 鈴乃さん」
「そんな子供っぽい誘導に引っかからないわよ」
「あっそ。子供っぽくってすみませんねー」
いー!と威嚇され、私もついカチンときて横髪を耳にかき上げる。睨み返すように。
でも……。
―――なんで彼を好きになったか、ね。
それは簡単よ。
中学校から歩いてすぐの図書館を思い出す。
エアコンのひんやりとした風。
奥の窓際、陽の光がカーテン越しに赤く染まる席。
蝉の声は遠く、ページを捲る音だけが近かった。
……あの、夏の放課後。
カラン。扉が開く音。
すぐにまた、静寂が戻ってくる。
乾いた古本の匂い。蛍光灯の微かな揺れ。
遠くから聞こえる子どもたちの笑い声――やがてそれも、遠ざかっていく。
世界から切り離された、あの場所。閉じられた静かな時間。
隣の席の誰かが、小さく咳払いをした。
『なー、そこの君。いつも図書館で勉強してて偉いね』
横を向くと、見知らぬ男子が座っていた。他校の制服。
かなり整った顔立ちだったけれど、それ以上に――妙に懐かしい空気をまとっていた。
『え……あの……どういうことかしら? どうして毎日ここで勉強していると分かったの?』
『だって君、可愛いから……よく覚えてるんだよ。俺もほぼ毎日、ここ来てるしな』
「―――ふっ」
思わず笑みが零れた。
あの瞬間のざわめき。息が詰まりそうなスリル。充満した焦げた匂い。
そして、心の奥に灯った、小さな感動。
彼を思い出すと、どうしても表情が緩んでしまう。
たぶん、これはもう、世界に一つしかない宝物の記憶。
……どっかの誰かさんみたいに、忘れたりしない。絶対に。
「え? 鈴乃さんって笑うんだ……?」
彼女は珍しいものを見たとでも言うように少し顔をしかめた。
というより、珍獣を見るような目付きを向ける。
「なに、何かおかしいの?」
「いや、だっていっつも無表情だから……」
「そんなことないわ。人間だもの」
珍獣扱いされるくらいなら、もっと笑顔をみせようかしらと、少し笑って見せるも、刹菜さんは相変わらず顔をしかめていた。
どうやら私が笑っていること自体が解釈と一致しないようね。
「今日ずっと笑ってるけど、どしたの? なんでそんなに機嫌いいわけ?」
私はわざとらしくニヤりと笑い、
「昨日、凛斗のセクシーでかっこいい姿を見てしまったからよ。あ〜、かっこよかったわ昨日の彼。汗だくで体をぶつけ合って……」
「ちょ、ちょっと待って!? どゆこと!? 完全にアウトなんだけど!!」
刹菜が思わず声を上げ、軽く身を乗り出してくる。
「だって事実だもの。仕方ないでしょう? 昨日の凛斗、獣みたいで素敵だったし」
「ケモノ!? あのリントが!?」
「ええ、体をバシンって凄まじい勢いで叩きつけて……」
「はああ、何やったの!? マジあり得ない! 犯罪じゃん! たいほ!!」
彼女は手錠で捕まったようなジャスチャーをする。
刹菜が手を伸ばしてくるので、私はくるりと身を翻して走り出す。
制服のスカートがふわりと風に揺れて、謎の追いかけっこが始まった。
「わけが分からないわ。でも楽しそうね、あなた」
「楽しいわけないでしょーが!! こら逃げるな!」
「ふふ」
私は笑って身をかわしながら、公園のベンチに目をやる。
だけど―――
やっぱり、凛斗の姿はなかった。
そのことが、どうしようもなく胸に引っかかっていることに、私はまだ気付かなかった。