012 凛斗は強烈な不意打ちを食らう模様です【2】
「それであなた……何者なの? それを教えてくれないかしら」
鈴乃の瞳がまっすぐに俺を捉える。
元ヤンだったとか空手を習ってたとか答えて誤魔化そうとしたが、彼女のその問いには、ただの好奇心だけではなく、確信めいたものが滲んでいるように思えた。
元ヤン、空手経験者……そんな次元のものではない、という本能の警告だろう。
「霧咲凛斗。ただのガリ勉陰キャだよ。あー、自分で言ってて悲しくなってきたわ」
しかし鈴乃は釈然としない雰囲気のまま、地面を見つめていた。
「……あなたがあんなに強いなんて知らなかったわ。さっきの……普通の身体能力じゃなかった。あの俊敏な動きも、人間のものとは到底思えない。どう考えてもおかしい。あなた何者なの?」
俺は苦笑しながら首を傾げる。
「人間とは思えない、か。……そう! なーんとワタクシ! 霧咲凛斗は宇宙人だったのです!! 彼は十三年前に火星に降り立ちました。そこで火星人の修行をした彼でしたが、なんと火星が破壊され、脱出するしか道はない! 彼は命からがら逃げ伸び、そして現在に至るのです。おーしーまい。ちゃんちゃん」
冗談めかして言うと、鈴乃はジト目になった。
「ふざけてるの? よくそんな妄想が口をついて出るわね」
「ふざけてなかったら、マジで俺が宇宙人ってことになるけどな?」
鈴乃は呆れたようにため息をつき、腕を組んだ。
「でもそうね。今思えば、某東北大の数学で満点を取るなんて宇宙人じゃなきゃ不可能よね」
「いや、それは買いかぶりすぎだ。スポーツと違って勉強はやった分だけ成長する。それに……俺はこう思うんだ。――人間に不可能はない――ってね。なんせ人間は翼がないのに月まで行った生き物なんだからな。なんだってできるさ。知らんけど」
俺がふざけてそう言うと、鈴乃はじっと俺を見つめる。
「……さっきの格闘術も?」
「別に不可能じゃないだろ、知らんけど」
俺が軽く流すと、鈴乃は少し唇を噛んだ。
「何か習っていたんでしょう?」
「んいや、何も。モデルならやってたけどな」
しかし鈴乃は聞く耳を持たず推理を始めた。
「空手のような構えと合気道の技……截拳道とかかしら……いやでも、背負い投げしてたわよね……? じゃあ古武術の一種……?」
截拳道は、伝説の武道家ブルース・リーが創始した武術。特定の型に縛られず、その時々、最も効率的な動きで敵を制する――実戦性と直接性を極めた、自由で合理的な武の道。
なるほど。この一言で、確信に至った。
この少女は「無害」だと。
ただひたすらに美しい、そして俺に(おそらく)好意を抱いてくれている、クールビューティーな女子高校生なのだと。
この真実を探るため、あえて様々な技を繰り出し、彼女の反応を探ってたんだが。
「それがどうした。そんなことどうでもいいだろ。もう終わったことだ」
「だって……私にも分からないのよ……。あなたの動きに凄み以上のものを感じた。素人なら凄いの一言で終わらせてたかもしれないけれど、私には武の心得がある。だからこそ……」
「剣道か?」
「ええ、そうよ。実は小さい頃からやってたの。初めは両親に言われて仕方なくやっていたのだけど、気付いたら得意になってたわね。中学では主将だったわ」
「あいつらにビビりまくってた鈴乃に、武の心得とか言われてもなあ~。説得力ね――いでっ、いたいたいたい!」
彼女は俺の頬をちぎれそうなほどつねるのでつい大声をあげてしまったではないか。こんな夜中に……近所迷惑すみません。
鈴乃がムッとした表情で手を腰に当てる。
「ビビってなんかないわよ!」
「ほんとにい?」
「本当よ! 竹刀があれば――」
頬を膨らませる鈴乃。いつもの凛々しさとは違う、可愛らしい姿。
そんな彼女を見て、俺は思わずふっと笑ってしまった。彼女も同じくふっと口角を上げた。
「でも――正直、竹刀がなくて良かったわ」
「……ほう? その心は?」
「だって、あなたのかっこいい姿が見れたもの。……特等席で」
低い声が、耳元で微かに震えた。
「え……?」
避けようとしたがしかし、間に合わなかった。ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐる。それはシャンプーの香りだろうか、それとも彼女自身の持つ、もっと奥深い香りだろうか。
柔らかな何かが頬に触れた。
熱い、というのとは違う。もっと微かで、繊細で、まるで生まれたての羽毛がそっと撫でるような感触。しかし、その奥には確かに熱が宿っている。
彼女の吐息が、触れた部分の皮膚をじわりと温めていく。
意識が、その一点に集中する。
普段は隙のない委員長の、ほんの少しだけ開かれた唇の形が、脳裏に焼き付く。その輪郭を想像しただけで、喉が渇いてくる。
どれくらいの時間が経っただろう。ほんの一瞬だったかもしれないし、永遠にも感じられた。
離れていく感触は、名残惜しいほどゆっくりとしていた。まるで、大切な何かを置いていくみたいに。
頬に残った微かな湿り気と、消え入りそうな温もり。
「これはただのお礼よ。キスもしたことない童貞君には少し刺激が強すぎたかしら」
俺の思考が停止する。何が起こったのか、理解が追いつかない。
鈴乃の顔を見ようとしたが、彼女はすでに身を翻し、門の前に立っていた。
澄ました横顔。余裕の笑みが、夜の灯りにかすかに揺れる。
「とにかく今日はありがとう……おやすみなさい」
それを最後に、彼女は大きな門をガラッと開けると、何事もなかったかのように家の中へ駆け込んでいった。
「え? あ、ああ……おやすみ……」
俺は頬に手を当てたまま、しばらく動けずにいた。
じんわりとした温もりが、そこに残っている。
「ってか……あいつマジか」
どくん、と胸が高鳴る。遅れて熱がこみ上げ、指先まで痺れるような感覚に襲われた。
くっそ……なんであいつは、あんなことしておいて涼しい顔してんだよ!
俺だけがテンパってるとか、なんか癪なんだが……。
――にしても。
「人間とは思えない……ね」
鈴乃の言葉を反芻し、俺は小さく笑った。
――いや。
「人間ではあるけどな」
そう、人間《《では》》、な。
俺はこれからも表向き「ガリ勉」「陰キャ」の冴えない男子として生活していく。「彼女不要! 勉強第一!」を掲げながら。
まあ、今は髪切っちゃったから少し目立ってるかもだけど、支障はない。
俺はポッケに手を入れ、帰路についた。
しかし、頬に残る感触だけはどうにも誤魔化しようがなかった。
◇ ◇ ◇
扉が閉まる。
乾いたカチリという音と同時に、全身から力が抜け落ちた。まるで、繋ぎ止められていた糸がぷつりと切れたみたいに、その場にへたり込んでしまう。
「……だめ、もう無理」
喉が締め付けられ、息がうまく吸えない。冷たい玄関の扉に背を預け、ゆっくりと膝を抱えた。
心臓が、まるで暴れ馬のように激しく脈打っている。こんなにも強く鼓動するなんて、まるで自分の身体ではないみたい。
――凛斗が、刹菜の家から出てきたのを見た、あの瞬間。
心の奥底が、きゅうっと締め付けられた。
別に何か具体的な出来事があったわけじゃないのに。ただ、胸の奥がざわついて、どうしようもなく不安になった。
……奪われたくない、と強く思った。
でも、それはただの嫉妬だと、そう言い聞かせていた。
私の中の何かが、本当に音を立てて壊れたのは、その直後だ。
五人の不良に囲まれ、恐怖で声も出せなかった私を。凛斗は一瞬の迷いもなく飛び込んできて――信じられないほどの力で、私を守ってくれた。
怖くて、足が震えた。けれど、それと同じくらい、胸の奥が熱いもので満たされていくのを感じて……気づいたら、もうどうしようもなくなっていた。
「ほんとバカよね。私らしくもない。衝動で……あんなことをするなんて……」
ぽつりと呟いた声は、冷たい玄関に吸い込まれていく。
頬が熱い。指先がかすかに震えている。
「すきよ」
この溢れ出す気持ちを抑えることはできなかった。どうしても。
独占欲と、あなたへのどうしようもない気持ちの爆発が――あの瞬間、私の理性という壁をやすやすと壊してしまっただけ。
「……かっこよかったわ。おやすみ、秘密だらけの凛斗」
でも、この夜が――ただの一度きりの通過点ではかったことを。
この時の私は、まだ何も知らなかった。