表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/16

010 「それじゃ、しよっか?」


 その日の放課後、俺は何故か刹菜の家にお邪魔していた。俺が今居るのは彼女の部屋。

 どういう理論か、どういう法則か……俺は物凄く気になっていた。

 ――この部屋の至る所からいい匂いがする、ということについて。

 なんだろう、香水とは違うフルーツの香り。鼻腔をくすぐる……じゃなくって!


「ん?」


 対峙する刹菜が身動きした拍子に、俺は現実に引き戻された。

 そして彼女は眼前で唐突にブレザーを脱ぎ始める。官能的な手つきで脱ぎ終わり、


「それじゃ、しよっか?」


 などと訳の分からないことを言いながら、次にワイシャツの第一ボタンを開ける。

 しよっか? それは――伝説の……(?)。


「まずいだろ。それは駄目だ……。冷静に考えろ……」


 俺はチキンなので、思わず後ずさり、中国で会得した太極拳を構える(嘘)。

 すると刹菜は分かりやすく笑いをこらえた顔で可愛く告げる。


「勿論、数学をね?」

「ス、スウガク――? あ、ああ……まあ、だよな……俺は分かってたぞ。ほら、あれだろ……非可換環の自己同型群における内在的対称性が、数理構造の深層に隠された調和を暴いて……」


 俺は恥で体が熱くあるのを感じながら、動揺を隠すように頭を掻く。いやだがしかしどう考えても、そういう言い方じゃなかったろ!とツッコミたいが、まあそれは我慢した。


「なに言ってるかわかんないでーす」

「いや、つまり……その」


 彼女ははち切れたようににったりと笑い、小首を傾げる。


「なーにー、もしかしてエッチな事考えたぁ?」

「いや別に考えてません。これっぽちも考えてません。あり得ません」

「リントって何かを誤魔化すとき敬語になるよね。じゃあ、やっぱり考えてたんだ?」

 

 嵌めやがったなこいつ。


「でもさー、自意識過剰なんじゃない? そ・れ・は」


 そう言って繊細な人差し指を俺の胸に当て、鳩尾まで滑らせる。

 俺はその手を半ば強引に掴んで、


「それより……数学教えてほしいんだろ?」


 色々誤魔化すようにそう言い、すっと近づくと、


「えっ。へ、へぇ……けっこう来るんだ……ふーん」

「何の話だ?」

「ううん……それより数Ⅱの虚数の範囲教えて。あれ分かんないんだよね。飯島先生の授業分かりづらいんだもん。なんか、今のうちに数Ⅲも教えておくとかワケワカメのこと言い出してさ。がうす、へいめん? とか言ってて……」

「虚数? そんなのマイナスのルートだ。以上終わり」

「ねぇテキトーじゃん! もっとちゃんと!」


 そう言って端正な顔つきに微笑を浮かべる刹菜……ちくしょう可愛い。

 なんだろう。心境の変化ってほどじゃないが、密室に二人は環境としてまずいな。それだけは確信できる。あと二日ここで暮らせば無条件でこの可愛い生き物に恋をしてしまいそうだ。なんつって。


「そう言えば鈴乃は?」


 俺は座り、数学Ⅱの教科書を開きながら尋ねた。


「剣道あるって。折角ならうちあがってけば良かったのにね」


 その台詞に多少の違和感を覚えた。敵対というか毛嫌いしてる印象が少なからず存在したからだ。


「刹菜、鈴乃のこと嫌いじゃないのか?」

「ん、別に? 嫌いじゃないよ。まー好きでもないけどね。……ただ、同類って意味では、そうだね……宿敵だとは思うかな」


 そう言って彼女はブレザーをハンガーにかけ、丸机の前に座る。


「同類?」

「分かんないの? 鈍男にぶおくん」

「すまんがさっぱりだ」

「ほんっと鈍いよね。リントはかなり敏感なほうって思ってたけど。周りのことよく見てるし」


 確かに彼女が言うように俺は敏感なほうだ。それは事実だろう。説明は難しい。簡単に言えば俺は、「鈍い」ふうに振舞っているだけ。

 

「ぼうっとしてないで早く数学教えてよ」

「え、ああ……」

「それともぉ――そういうことしちゃう?」

「しねーよ。馬鹿なこと言ってないで早くノート開け」

「ちぇー」


 そう漏らし、顔を背ける刹菜。


「ちぇ、じゃねーんだよ」


 

◇ ◇ ◇



 二時間後。刹菜も進学校の生徒。成績はそこそこいい。数学は苦手と言っていたが、の割に教えている感触、理解が早いし論理的な思考も完成している。

 しかし二時間集中して勉学に勤しむ性格でもなく、


「ねぇ……凛斗ってあのクラスの中だと誰が好き?」


 などと関係ない雑談をさっそく開始。


「敬」

「うわ即答。しかもリントってホモなわけ? ちょっとないわー」

「俺は性格を正確に知りもしない相手を好きになるほど暇じゃないんだ。つまりそういうことだ」

「性格を正確にってダジャレ?」

「なわけないだろ、あほか」


 そう言いながら込み上げてくるおかしさと共に笑い合った。

 ここでふと思ったことがあった。俺は女子と話すこと自体が苦手ではない。しかし女子と気が合う、もしくは仲良くなれそうだと思ったことは一度もない。むしろ嫌いだと思う人の方が何倍も多かった。それは俺の生理的な反射が関係しているだろう。

 けど、刹菜は少なくとも俺の嫌いな部類にはない。

 

 なんだろう、その事実が物凄く怖かった。今の俺という存在にとって。


「じゃあ女子の中でって条件付きで考えてよ」

「女子の中? まあ性格知ってる人を前提に考えたら、消去法で刹菜と鈴乃になるか?」


 瞬間、刹菜がジト目になる。消去法は失言だったかと思ったがしかし。


「へぇー、堂々と浮気宣言するんだー。へぇー」


 そっちか。


「いや、そうは言ってないだろ」

「じゃあ……浮気しない? それともどっちか選んでくれる?」

「ん?」


 俺の瞼は思わずピクリと微動した。


「ね、リント、あたしはやだよ。どっちか決めてほしいからね。……ワガママだし、何言ってんだって思うかもしんないけど。夜中に目が覚めて、ふと、リントが今も鈴乃とこっそり会ってるんじゃないかって。そう思う時がある」


 刹菜は意味不明にも接近してくる。円形の机に沿って徐々にこちらにじわじわ近づいてくる。


「あたしじゃ、駄目なの? あたしって魅力ない……?」


 俯き、悲しそうな目元は横の髪で隠れた。


「……ごめん、忘れてリント。重い質問してごめん」

「いや、重いのはいいよ。重いってことはそれほど人を大事に思える証拠だ。そして人に期待できる証拠だ。俺には、できなことだからな……」


 俺はまた、彼女の頭を撫でた。柔らかい髪の感触、さらさらの髪の感触が手に伝わってくる。


「……?」


 潤んだ瞳と紅潮した頬、刹菜は今にもキスし出しそうな表情だったが、その後何かが起こることはなかった。



◇ ◇ ◇



 帰り時間。七時を越え、辺りは暗闇に包まれている。

 玄関で刹菜に新妻のように送られ、そのまま外に出ると誰かの気配を感じた。

 夜風の中、俺は気にせずそのまま進み門柱を抜けたところで、その石造に寄りかかり腕組みしている黒髪ロングの女子を見た。


「待ってたわ」


 まるで「遅い」と言いたげなクールな眼差しを向けてくる。


「随分と遅かったわね。既成事実でも作っていたのかしら」

「何の話かさっぱり。それより冗談だろ。ずっと待ってたのか? もう寒いんだから、そういうのはよしてくれ。こっちの気が引けるじゃん?」

「別に、好きでしてるんだし問題ないでしょう? それに、すごくあなたに会いたかったの」


 そう言って内に秘める感情を誤魔化すように帰り道を歩き出し、先頭を進んだ。

 俺はその背に思わず尋ねる。


「鈴乃、いきなりで悪いんだが質問してもいいか?」

「何かしら」


 暗いからこそ答えてくれることもある。

 なぜならば、人の潜在意識というのは「視覚」に大きく影響を受けるからだ。花火大会や映画館などがいい例だろう。周りは暗く、集中したい対象だけが明るいため容易に集中できる。

 さらに、自分の容姿を隠してくれる安心感から、他人との距離が近くなる。

 これを「暗闇効果」なんて言う。キャンプファイヤーなどで感じる一体感もこれの一種だ。


「お前、本当に俺の事が好きなのか?」

「え――」


 彼女はその足を止めた。


「それともあっち側の人間なのか?」


 聞くと、少しの間があった。それは彼女が言い訳を考えている最中だったのかもしれないし、もっと他の懸念材料があったのかもしれない。それは俺には分からない。

 だが俺が本当はどういう人間か、鈴乃だけは理解している気がした。


「……もっと面白い質問かと思ってたわ。申し訳ないけど、どちらの質問にも答えないわ。その意味を感じないもの」


 そうか、やはり少しくらいは知ってたんだな、と答えようとしたがそのセリフが喉を通過する寸前でそれを保留する。

 なぜなら――。


 俺は数人の邪悪な気配を気取り、立ち止まった。

 そうして前を歩いていた鈴乃の左腕を強引に掴み、申し訳ないが少し強めに引き寄せた。


「はっ、え?? なにっ、なにかしら!」


 瞬きほどの時間、女子からしたら圧倒的な俺の腕力で引かれた鈴乃は、驚いた様子で咄嗟に振り向き、こちらの顔を伺ってきた。

 しかし程なくしてその心配顔は俺の胸に埋められることになった。俺が彼女を抱いたからだ。


「鈴乃……君はここから動くな」

「えっ、な、な、なんの話……」


 胸の中で何故か若干嬉しそうに喋る鈴乃をよそに、俺は固めの表情で、少しずつ周囲を観察していく。

 すると、


「この男子、一人潰せば金もらえんのか?」

「いかにも弱そう。勝ち確じゃん。あの嬢ちゃん随分気前いいのな」


 そう言って同い年くらいの高校生が多数、多勢に無勢とばかり現れ、俺達を包囲する。

 数は五人。


「あんたら、誰に雇われた?」


 演技する余裕もなくなり、俺は素の自分を出すしかなかった。低めのトーンで質問を投げると、


「そんなん言うわけないだろアホなんか?」

「悪いが、多数相手に手加減する余裕はない」

「あ? おま、何いきがってんだ陰キャ君がよ」


 俺が陰キャだと知ってるってことは、学校内の人間か。


「もう一度言う」


 ここが人気のない路地であることを念頭に、俺はネクタイを緩めていく。

 メガネ陰キャでもなく、また刹菜や鈴乃が知っている俺でもなく……どこまでも透明で、無機質な「自分」をさらけ出し、静かに告げた。


「多数相手に手加減はできない」

「はっ、おま、俺らがお前相手に負けるとでも思ってんのかァ? ウケるな」

「ああ。俺も笑いそうだ。この場の五人だけで俺に勝った気になってる、あんたらに」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ