表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

彼女観察日記

作者: スイミー

 4月7日月曜日。午前7時半。

 彼女は毎朝いつも通りの時間に真向かいに建つアパートの一室からスーツ姿で出ていった。

 左手にごみ袋を抱えながら歩き、近くの集積所に置いて緑色の網を被せる。

 肩にかかる程度の艶のあるまっすぐな黒髪とタヌキ顔らしいぱっちりとした目。

 今日もメイクはばっちりなようで相変わらず可愛い。

 でも女癖の悪い上司や先輩の毒牙にかからないか、変な男に絡まれないかと逆に不安になってしまうからもう少しメイクは地味にしてほしいとも思う。


 4月8日火曜日。午前8時前。

 しまった。

 うっかり寝坊して彼女を見送り損ねてしまった。

 急いで、なおかつ音を立てないようにそっと窓を開いて真向かいのアパートを見やるが、彼女が部屋から出てくる気配はない。

 すでに出て行ってしまったのだろう。

 寝坊してしまったことが悔やまれる。

 1日1回は彼女を見て心の栄養を補給しないと僕はどうにかなってしまいそうだ。

 夜の帰宅時間さえ分かれば夜も朝と同様に彼女を窓越しに迎えることができるのに。

 いや夜の時間だと朝以上に注意しなくてはならないのでそれは難しいか――――

 不意に物音が聞こえた気がしたので息を抑えて耳を澄ますと、薄い引き戸を隔てた隣室から布団の擦れる音がした。

 僕は音を立てぬよう窓をそっと閉めた。


 4月9日水曜日。午前7時半。

 今日もまたいつもの通りの時間に彼女はアパートを出て会社へ向かっていった。

 今日も一日お仕事頑張ってね。

 手は降らずに彼女へのエールは内心に留めいておいた。

 春先で空気は暖かく、微睡を感じたので二度寝をしようと窓を閉めかけたとき。 

 視界の端で不自然に蠢く黒い影を捉えた。

 黒のパーカーにジーンズ姿の男で、フードを被っているせいで顔はよく見えない。

 パーカー男は彼女が歩いて行った先を何度も振り返りながら、また周囲の様子もせわしなくキョロキョロ見まわしている。

 明らかに挙動不審だ。

 こんな早朝に一体何をしているのだろうかとしばらくパーカー男を注視していると、男は彼女の部屋の扉の前に立ち、インターホンを押した……と思いきや、ダッシュでアパートの物陰まで走って隠れた。

 あまりの気持ち悪さに全身が総毛立つ。

 彼女をつけ狙うストーカーかもしれない。

 あれだけ可愛い女の子なのだから、やはりこういう変な輩に付きまとわれてしまうことは多分にあるのだ。

 事態を唯一把握している僕が対処しなくてはならない。

 警察に通報するか?

 男は物陰に隠れながら彼女の部屋の方をずっと見つめ、しばらく待ってから再び彼女の部屋の前に戻ると、再度インターホンを押して、ダッシュでアパートの物陰に隠れる。

 気持ち悪くはあるが、実害が出ているかというとそれほどのことではない。

 そんな些末な事件で警察がわざわざ動いてはくれないだろう。

 第一、スマホを持っていない僕がどうやって警察に通報するというのか。

 どうすることもできず、とはいえ男から視線を外すこともなくじっと監視をしていると、男はそれ以上何かしてくることもなくその場を立ち去った。


 4月9日水曜日。午後21時。

 浴室の扉の開閉音とともにシャワーの流れ出る音が廊下を通して部屋の中へ響いてきた。

 冷蔵庫からこっそり拝借した魚肉ソーセージを齧りながら、黄昏るようにぼーっと夜空を眺めていた時だった。

 等間隔に並んだ街灯に照らされながら歩く女性の姿が目に入り、もしかしたらと目をよく凝らして見てみると、彼女だった。

 買い物袋を片手に小さな歩幅でアパートへ向かって歩いている。

 なんという幸運な巡りあわせだ。

 これも彼女に対する日々の献身的な愛のおかげだろう。

 両手を上げて喜びたかったが、彼女の数メートル後ろをついてくる黒い影の存在を目にして脳が凍り付いた。

 暗闇に溶け込んでいて非常に見えづらいが、街灯の明かりで時折浮かび上がるソイツの姿は見覚えがあった。

 黒のパーカーにジーンズ姿、今朝のパーカー男だ。

 パーカー男は今朝と同様フードをすっぽりと被っており、表情はやはり窺い知れない。

 彼女はというと、背後の男の存在に気づかないままバッグから鍵を取り出し、そのまま何事もなく部屋の中へ入っていった。

 男は無理やり押し入るような真似はしなかったが、今朝と同じくアパートの物陰に身を潜めてじっとしている。

 覗きでもするつもりなのか、変態が。

 お前が彼女を覗き見しようとしているところを僕がしっかり監視しているからな。

 彼女はまだ男の存在に気がついていないので、なおさら僕が気を引き締めなくてはならない。

 とはいえ長時間窓の前に張り付いてパーカー男を監視し続けるのは非常に難しい。

 それはこちら側の背負うリスクが極めて高い。

 それではどうすればいいか…………おっと。

 浴室で流れるシャワーの音が止まり、扉の開く音が聞こえた。


 4月9日水曜日。午後23時。

 隣室から聞こえる寝息に注意を払いつつ窓をそっと開けると、パーカー男はまだアパートの陰に潜んでいた。

 ねっとりとした重苦しい夜の暗闇に目を凝らすと、徐々に男の輪郭が浮かび上がる。

 アパートの壁面に背を預けて体育座りをしているようだ。

 こんな夜中まで一体何を待っているのだろうか。

 夜の23時過ぎともなると都心部でもないこの地域の電車は終電となる時間だ。

 この辺りに住んでいるのか、それとも帰りの足を失うことも厭わないくらいに彼女に焦がれているのか。

 彼女が家を出ていく早朝の時間まで粘るつもりなのか。

 粘って何をするつもりなのか。

 明日の朝もしっかりとここから目を光らせておくからな。

 パーカー男に内心で忠告してから窓を閉めようとしたとき、彼女の部屋の扉が突如開いた。

 玄関の明かりを背に出てきたパジャマ姿の彼女は大きなごみ袋を手にしていた。

 予期せぬ彼女の登場に呼吸を忘れそうになるほど驚く。

 いつも彼女のゴミ出しは早朝出勤するときだったはずだ。

 何かの気まぐれで前日の夜に出そうと思ったのだろうが、よりにもよってなぜこんな最悪なタイミングで。

 身体を洗ったばかりなのか、艶がかった髪は濡れていて頭から上気した湯気が夜空へと舞い上がって溶けていく。

 半袖のパジャマからは傷一つない綺麗な二の腕と細い両足が露わになり、ここからでも彼女の甘い香りが漂ってきそうに思えた。

 彼女はサンダルでパタパタと集積所へ向かって歩いていき、僕はそんな彼女の可愛らしい後ろ姿を視線で追っていく。

 そんな、ほんの10秒にも満たない一瞬だった。

 彼女が部屋に背を向けて集積所へと歩く僅かな時間、パーカー男は足音も立てず小走りで彼女の部屋へ向かって駆けていき、扉をそっと開けて中に入っていってしまった。

 え、と思わず喉から声が出かかってしまいそうなほど驚き、身体が硬直する。

 当の本人は全く気づいていないようで、ゆったりとした足取りで部屋へ戻っていく。

 そんな彼女のマイペースな様子に苛立ってしまうほど僕は平静をかき乱されていた。

 驚きのあまり大きく開いた口が閉じない。

 喉の奥がカラカラに乾き、声が上手く出せない。

 彼女に大声で警告しようか?

 いや、そんなことをしたら色んな意味で僕がまずい状況になってしまうし、第一彼女がこちらの声に素直に耳を傾けてくれるとも考えづらい。

 じゃあどうすればいい?

 正体不明の不審者が潜む部屋へ、そうとは知らず戻ろうとする彼女を止めるためには…………。

 頭をフル回転させる猶予は残っていなかった。

 悩む暇もなく彼女は吸い込まれるように部屋の中へ入っていく。

 このままでは彼女が大変なことになってしまう。

 パーカー男に殺されてしまうかもしれない。

 胸の内から沸き上がる衝動で部屋の外へと片足を向けると、ギィッという床板の軋む音が大きく響いた。

 呼吸が止まりそうになる。

 彫刻のようにその場でピタリと止まって耳を澄ますと、隣室からは乱れのない寝息の音が立っている。

 緊張の糸が解けて全身から一気に力が抜けると、額に汗がぶわっと出てきた。

 部屋の外へと一歩踏み出した右足を引っ込め、窓の外にもう一度顔を出すと、いつの間にか彼女の部屋の照明が消えていた。

 暗く閉ざされた彼女の部屋はまるで真っ黒に塗りつぶされた箱のようで、その中で可憐な蝶と奇怪な毒虫が蠢いているかと思うと頭を掻きむしりたくなるほど耐え難い感情がこみ上げてくる。

 今あの真っ暗な箱の中で。

 誰の視線も届かない閉鎖空間で。

 1つの命が刈り取られようとしている。

 いや、すでに刈り取られてしまっているかもしれない。

 しかし、目を逸らそうにも視線は勝手に彼女の部屋へ吸い寄せられていく。

 窓越しに、ほんのり男の顔の輪郭が現れたような気がして途端に怖くなり、僕は焦ったように押入れに隠れて身を縮こまらせた。


 4月10日木曜日。午前7時半。

 悪夢を見た後のような最悪の寝覚めだったが、習慣化したせいか意識が自動的に覚醒する。

 僕の心境とは裏腹に外は気持ちの良い快晴だった。

 透き通る青空をムクドリの群れが飛び交い、アパートの赤い屋根に留まる雀の鳴き声が一日の始まりを告げている。

 昨夜の出来事は悪夢なんかではない紛れもない現実だ。

 そうとは分かっていながら、悪あがきにも似た期待感からか自然と腕が窓へと伸びる。

 何事もなかったかのように部屋から彼女が現れることを期待して。

 アパート前の道路を6人くらいの小学生の登校班が元気よく歩き、スーツを着たサラリーマン達は全身から溜め息を吐き出しそうなくらいけだるげな様子で駅へと向かっている。

 彼ら彼女らには毎日行く場所と帰る場所があり、僕から見たら近くにいるようで果てしなく遠い所に立っている。

 薄い窓を隔てた向こうは別世界で、まるで絵画を眺めているかのように現実感が欠けていた。

 そんな表の世界でより一層輝く存在をいつの日だったか僕は発見した。

 彼女は僕の中で唯一無二の存在だ。

 憧れで、愛おしく、絶対的で。

 暗い部屋の窓越しに彼女を目で追うのが楽しみになり、それがやがて習慣へと変わっていった。

 しかし、必死で視線を右へ左へと動かしても、彼女の姿はどこにも見当たらない。

 きっともう彼女は永遠の眠りについてしまい二度とあのアパートから出てこないのだろう。

 出てくるときはきっと腐乱した死体の腐敗臭に異変を感じた近所の人が通報して警察に発見されてからようやく出てこれることだろう。

 綺麗な顔も髪も細くて華奢な身体も腐りきった後で。

 触れている窓ガラスを叩き割りたい衝動に駆られるのと同時に、そんなことが決してできない自分にも憤りを覚える。

 こんな想いをするならば彼女の存在なんて初めから知りたくなかった。

 自暴自棄な気持ちになり俯きかけたその時、彼女の部屋の扉がゆっくり開いた。

 部屋からすっと現れたのは、彼女だった。

 何事もなかったかのようにいつも通りの様子で、一見すると昨夜の出来事は本当に夢だったんじゃないかと疑うほどだった。

 昨夜の意識ははっきりしている。

 断じて夢ではない。

 男は彼女に何もしなかったというのか?

 これ以上ない閉鎖空間で無防備を晒す彼女を前にして?

 男の目的は皆目見当もつかないが、このまま黙って見ているわけにはいかない。

 今夜も彼女は何事もなくあの部屋へ帰宅してしまう。

 彼女が今夜も無事であるという保証はないし、次こそ散々弄ばれた挙句に殺されてしまうかもしれない。

 そう考えると、自然と腰が浮いた。

 意識は高揚として足は軽く、部屋に無造作に置かれた、埃をかぶったキャンプ道具やら古い家電やらを軽やかに躱して物置部屋の扉をそっと出る。

 玄関まで小走りで向かい、鍵をゆっくりと開けたつもりだったが、ガチャリと音が鳴ってしまった。

 もうこの部屋には二度と戻れないだろう。

 だが彼女を救うことができるならそれでも構わないと決意を固めて、そのまま振り返らずに彼女へ向かって駆けだした。

 ほんの数十メートル走っただけなのにすぐに息が切れ、ぜーぜーと肩で息をしている自分に驚く。

 そんなみっともない醜態を晒して彼女の前で立ち止まり、彼女は驚いた顔でこちらを見ていた。

 絵画の中に立っていた彼女が確かな熱と質感を持って目の前で息をしている。

 当たり前の光景なのにどこか夢の世界にいるようで、呼吸の仕方を忘れそうになる。

 今僕はどんな顔をして彼女の前に立っているのだろう。

 意識し始めると急に顔が熱膨張しているような感覚に頭がクラクラしたが、自身の頭を軽く叩いて意識をはっきりとさせる。

 彼女の部屋にパーカー男が潜んでいると警告しなければならないのだ。


「よく聞いて。昨夜、君がごみ出しをしている隙に怪しい男が君の部屋に忍び――――」


 彼女の目をしっかりと見つめて冷静に説明しようとする僕の言葉は、耳をつんざくような甲高い悲鳴でかき消された。

 一瞬何が起きたのか分からなかった。

 なぜ、彼女は怯えた顔で身体を震わせながら僕を見るのか。

 バッグの中をがさごそと何をまさぐっているのか。

 取り出した小型のスプレーをなぜ僕に向けているのか。

 僕の両目から涙が溢れて止まらないのは、彼女が僕の顔めがけて噴きつけた護身用スプレーのせいか。

 それとも、僕の心の中で唯一残っていた人としての温もりが完全に消え去ってしまったせいか。


「それ以上近寄らないで!気持ち悪い!変質者!!」


 女は捨て台詞を残して走り去ってしまった。

 女の口から吐き出された吐瀉物のような言葉が僕の身体にまとわりつく。

 酷い臭いだ。

 ……………………。

 あーあ、終わってしまった。

 こうなることは心のどこかで分かっていたはずなのに。

 彼女のヒーローになれるかもしれないという淡い期待。

 今まで何も積み上げず逃げ続けてきた自分がそう都合よく何者かになどなれるわけないのだ。

 これからどうしようか。

 もう元いたあの部屋には戻れない。

 またどこか新しい住処を探さねば。

 次はどこへ行こうか。

 ぶつぶつと独り言を喋る僕を、道を行き交う人達は盗み見るようにちらっと横目で見ては逃げるように歩き去る。

 そんな中、1人の男が僕の目の前に立った。

 黒いパーカーにジーンズ姿。

 パーカー男だった。

 男は口の端を大きく横に広げてにんまりとした顔で僕を見ている。

 何を得意げに笑っているのか。

 俺の大切だった存在も日常も、全部こいつのせいでぶち壊しだというのに。

 いっそのことこのアパートを立ち去る前にこの男を――――。

 右ポケットに手を入れてバタフライナイフの存在を確認する僕を他所に、男は呑気に笑顔を浮かべたまま口を開いた。


「向かいのアパートから野口さんのことをずっと監視してたの、君でしょ?」


 …………は?


「昨日の朝、野口さんの後をつけてアパートに入ったあたりからずっと視線感じてさ。同類だからなのかな、すぐ気づいたんだよね。ストーカーだなーって。あ、全然攻めてるわけじゃないよ。俺も一緒だからね。いや、一緒じゃないな。異常さで言うと君の方が凄いかもね。君がいたあの部屋、君の住まいじゃないでしょ。他人の部屋にこっそり忍び込んで生活してるでしょ。俺、分かっちゃうんだぁ。髭が伸び放題で身体も髪も汚れてて、服はずっと着ているのかってくらいヨレヨレで。引きこもりかと間違えちゃいそうだけど、瞳の濁り具合から察したよね、異常者だなって。俺も今の君と全く同じことをしているんだけどね。彼女の部屋。すっごい良い匂い。昨日の夜忍び込んだ瞬間クラっときちゃったよね。良い住処になりそうだよ。目の保養にもなるし。君はいつからあの部屋に寄生してるの?なんであの部屋にしたの?家主は若い女子?美人?ねぇねぇ」


 …………。


「ごめんね。不躾で失礼だよね。ごめんごめん。それにもうあの部屋には戻れないだろうしね。俺のせいだよね。ごめんだね。でもさ、せっかく捨て身の想いで彼女に危険を知らせたのに、彼女は悲鳴上げて逃げてっちゃうなんてあまりにも酷いと俺は思うよ。君もそう思うでしょ?」


 …………。


「だよねー。そんなに強く頷くくらいショックだったんだね。このまま大人しくここから立ち去る?それとも――――」


 男は三日月の様に口の端を曲げ、目を爛々と輝かせながら彼女の住む部屋を指差した。

 鍵の開け放たれた新しい理想的な住処を。


「俺と一緒に、住む?」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ