「サンタクロースが追ってきます」
物語の「起」の部分。流し読み推奨。
溜息をつきながら、川べりを少年が歩いていた。某高校指定のズボンとYシャツをやや崩して着た、黒髪の少年である。
色白の肌にややたれ気味の目、整った顔立ち。みる者に優しげで快活そうな印象を与える顔つきだ。
しかし今はいかにも不機嫌といった表情を浮かべている。
ここ凪川は花見の名所として有名である。景観を重視して整備された土手の両岸には百二十余りの桜が植えられ、毎年それらが咲き誇る頃ともなればブルーシートを使った陣取り合戦が繰り広げられる程の人入りがある。
しかし葉桜さえ散ったこの時期、人は全くと言っていいほどいない。そしてこの人気の無さが、少年が凪川へ足を運んだ理由である。
とてつもなく大きな問題があるというのに、まるでどうすればいいのか分からない。手の出しようも無い。とりあえず一人静かな場所で落ち着いて考えをめぐらせたい――そう思い手近な川まで来た彼だが、落ち着くどころか焦るばかりであった。そんな彼に声をかけるジョギングにいそしむ人もいたのだが、彼は無視した。
蝉の死骸を蹴り転がしながら歩くうち、急に少年の視界が開けた。
海だ。
悶々と考えを巡らせて歩くうち、ついに川が海へ流れ込む河口にまで来てしまったのだ。
そこはこれまであるいてきた川岸とは違い堤防から釣り糸を垂らす釣り人やウインドサーファーでごった返していたが、少年は気にならなかった。広い海を前にしてどうでもよくなった。
よしじゃあこんな物も捨てちまえ、と背負っていたカバンを外す。
「どーにでも、なりやがれ!」
投げつける的も決まった。海のはるか先へと伸びる橋の影へ入り、そのまま自分自身も海に放り込みそうな勢いをつけ、数十m先の湾岸道路の柱めがけ重荷を放り投げようとした、その時だった。
「キャアアアアアアア!」
頭上から響く悲鳴。声に反応し少年は橋を見上げる。そして眼窩から脊髄へと駆け抜ける衝撃と閃き。
少年の目には、橋から飛び出し落下する少女が救いの天使に映った。
頭からコンクリートの地面へ落ちてゆく少女の名は万条目 金澱。万条目グループの令嬢である。
少年が少女の存在を知ったのはほんの数週間前のことである。彼が会場設営のアルバイトをした万条目グループ関連企業のイベントで、万条目グループの代表として出席していた彼女を目にしていたのだ。自分とほぼ同年齢でありながらグループ代表の名を背負って堂々と立ち振る舞う少女の姿は、少年の脳に鮮明に焼き付いていた。
そしてその令嬢が落下しているということ――金を持った人間が危機に直面しているこの状況が、少年には絶大なチャンスに思えた。
自暴自棄から一瞬で冷静になった彼は本来の計算高さを取り戻す。
カバンを思い切り投げ捨てようとする彼と少女の落下予想地点は十m以上。海に向かって勢いをつけている事も合わせて考えると、人間の身体能力ではとても少女を助け、恩人として取りいることは叶わない。
人間ならば。
彼の脳が計算を始める。どうすれば劇的に、かつ自然に少女を救えるかを求める計算だ。答えが出た。
まず邪魔なカバンを手放し、地面を蹴って方向転換。この時点で彼に注目する人はいない。落下する少女に注意を完全に奪われている。
次に少年はもう一度地面を思い切り蹴り、加速した。人間を遥かに超えた脚力で一気に運動エネルギーを得、人目を集めることなく最高速度に乗った。
そのまま大股でコンクリートを6・7回蹴り、落下寸前の少女を射程距離に捕える。そこではじめて人目が少年にも集まる。
野球の頭から入るスライディングのようにとんで両手を伸ばし、バレーボールのレシーブのように両掌をあわせ少女の小さな頭と地面の間にさし入れる。手に暖かな感触を感じると同時に、腕を縮め少女の頭を自分の方へ引き寄せる。
周囲の視線が少女と地面の間に完全に集中したその瞬間、自分の頭をわざと下げ腕の間にすべりこませた。
結果として少年が頭から思い切りコンクリートの岸にすべりこみ、その少年の背中をクッションに少女が着地する形になった。
「大丈夫!? 怪我はない?」
あえて受け身を取らなかったことで、左半身の顔から太腿まで擦りむいた自身をかえりみず少女を心配する少年。既に起き上がり、腕の中に少女を抱えていた。彼女は柔らかな前髪ごしに少年を見つめ、弱々しく言った。
「助けて、下さい。サンタクロースが……追ってきます……」
そして腕の中で意識を失った。