15話 遠ざかる夏の足音
石造りの階段を登る人たちを眺めながら、神社の階段の下で僕は先輩が来るのを待っていた。神社を覆う木々の隙間から黄昏時の黄金色が差し込んで、薄暗い道にぼんやりと浮かぶ橙色の提灯を照らしていた。
「夏らしいこと全部やろう、文芸部の取材だよ! なんて言って……先輩が来たかっただけなんだろうなぁ」
あれから、宣言通りに夏休みを満喫する気満々の先輩に引っ張られて、僕は今までで一番忙しない夏休みを過ごしていた。
夏休みの最終日の前日。最後のイベントは外せない、と夏祭りに誘われた僕は、一人で先輩が来るのを待っていた。
「……夏祭りか。久しぶりだな」
幼い頃は家族や幼馴染の陽と一緒によく来ていたけれど、年齢を重ねるに連れていつの間にかこういう場所には縁がなくなっていたな。
取材を言い訳に先輩から誘われるまで、今日が夏祭りだなんてことに僕は気づいていなかった。
全く先輩は……なんて、ため息をついているけれど、久しぶりに訪れた夏祭りの雰囲気に浮かされて、満更でもない僕は鼻歌を歌っていた。
「お待たせ! 後輩くん!」
聞きなれた声に振り返ると、浴衣姿の先輩が小走りで近づいてきた。
編み込んだ髪を後ろで結って、浴衣には赤い花が咲き乱れている。おそらく化粧もしているのか、潤んだ目元と紅く染まった唇に、僕は思わず息を呑む。
部室で見るのとは違う、上品で大人びた雰囲気に心臓が小さく跳ねた。
そんな僕の緊張を知らない先輩は、手を振りながら駆け寄ってくる。慣れない下駄が脱げないように、ちょこちょこと歩幅が狭いのが思いのほか可愛くて、口元が緩んでしまう。
「僕も今来たところですよ」
「おっ、流石は後輩くん。スマートだねぇ」
「茶化すのは先輩の悪い癖ですよ」
「ごめんごめん。行こう!」
先輩に手を引かれて、神社の階段を登っていく。提灯が連なる道を進んで、祭りの喧騒へと導かれていく。屋台が立ち並ぶ通り道は、夏の熱気と祭りを楽しむ人々の笑い声で溢れていた。
「透真くん、綿あめっ!」
「ちょっ、そんなに引っ張ったら転びますよ」
口の周りがベタベタになっても気にする様子もなく、子供のように頬張った。
食べ物の出店を見る度に両手いっぱいに買い込んでいく先輩が、まるで冬の蓄えを用意するリスのようで僕は堪えきれずに笑った。
「なぁに、笑ってんの。……っていうか、透真くん全然食べてないじゃん。私のりんご飴、上げようか?」
食べかけのりんご飴を僕の口の真ん前に差し出して、先輩が首を傾げた。これは、間接キスなのでは、と頭によぎったが、当の先輩はなんとも思っていなさそうで、後輩の自分は男として見られてもいないのかと思うと少しだけ腹が立った。
勝手ながら腹いせに、躊躇いながらも先輩の差し出したりんご飴にぱくりと齧り付いた。
「えっ……」
まさか、僕が先輩が持っている手から受け取らずにそのまま齧り付くとは思っていなかったのか、間の抜けた声が聞こえたかと思うと、先輩が驚いた表情で僕を見上げていた。
僕を見上げる先輩の頬がじわじわと赤らむのがわかり、顔が熱くなる。
「……先輩、向こうにかき氷も売ってますよ」
「……ほ、ほんとだ。透真くんは何味が好き?」
かき氷店を指さして話題を逸らすと、先輩はあっという間にかき氷に心を奪われていく。イチゴ味のシロップを食べて、真っ赤に染った舌を見せびらかしてくる先輩に、僕は視線を奪われた。
先輩と過ごす夏祭りが楽しければ楽しいだけ、先輩と出会う前の僕がどうやって過ごして、何を感じでいたのかを思い出せなくなっていく。
「すぐ破れるー! おじさん、インチキしてないよねっ!」
「先輩、恥ずかしいからやめてくださいよ」
「だってだってー。一匹も掬えないっておかしくない? 絶対破れやすくなってるもん……」
「もん、じゃないですよ。単純に先輩が苦手なだけでしょう」
「うー、悔しい……。おじさん、もう一回っ!」
金魚すくいで一匹も捕まえられずに、何度も挑戦する負けず嫌いな先輩が物珍しかった。自由奔放なのに他人を優先してしまう先輩のイメージを、眉間に皺を寄せておじさんに文句を言う先輩の姿が壊していく。見たことの無い表情を見る度に心が踊った。
汗ばんだ先輩のうなじが浴衣との隙間から覗く。それが先輩から異性を感じさせて、鼓動が早くなっていく。一向に当たらない射的に頬を膨らます先輩を見かねて僕が当てると、先輩は僕の手をぎゅっと握り、手を合わせて喜んだ。先輩の柔らかくて小さな指が僕の指に絡まって、人混みで繋いだ時とは違う感情が見え隠れしていた。
「満喫したぁ。ね、透真くんも楽しかった?」
辺りはすっかり暗くなり、僕達は祭りの喧騒から少し離れて、木々に囲まれた神社の縁側に腰をかけた。
周囲には誰もおらず、二人きりの空間には静かな空気が流れていた。
遠くから聞こえる祭りの音、夏の終わりを報せる蝉の声。夏祭りが終わる。
僕は無性に寂しくて、先輩に呼びかける。
「あの、先輩っ……!」
僕の言葉をかき消すように、大きな音をたてて打ち上げ花火が夜空を彩った。
赤や青、黄色の光が先輩の横顔を優しく照らす。
「この瞬間が、永遠に続けばいいのに……」
この光景も、この感情も、いつか色褪せてしまうのだろうか。
僕の声は先輩に届くことなく、夏の夜空へ消えていった。言葉にしてしまえば、先輩に伝わってしまえば、その言葉は姿を変えて、僕達の関係も変えてしまうような気がして、それでいい、と僕は口を噤んだ。
肩が触れ合いそうなこの距離が、僕の心を安堵させ、僕の心臓を高鳴らせる。この距離が心地よかった。
きっと、それは先輩も同じだ。言葉にしなくても、お互いを理解し合えている。そんな気がした。
言葉にしなければ伝わらない。
先輩と出会う前の僕は、身をもって知っていたはずなのに、この時の僕はそんなことにすら気がつかないくらい、先輩の隣にいるのが当たり前のように思っていた。
僕達の言葉は、大切な相手に大切だと伝える為にあることを知っていたはずだったのに。
◇ ◇ ◇
あっという間に過ぎていった夏休みが幕を閉じる。
この夏、名残惜しいと思ってしまうほどに先輩と過ごしていたような気がする。
文集用の原稿を書いている先輩を、ちらりと横目で盗み見る。心做しか、先輩の口数も少ない気がした。
「先輩、そんなに夏休みが終わるのが嫌なんですか?」
茶化すように僕が尋ねると、先輩は力なく笑った。
「……まぁね。宿題も終わってないし、本当にピンチ! って感じ?」
「……それだけですか? なんか、なんていうか、僕も分からないですけど、それだけじゃないような気がして」
「あははっ、それだけそれだけ。大丈夫だよ、ありがとう。後輩くん」
先輩が誤魔化すように笑う。
大丈夫だよ、と笑顔を向けられるだけで、何か困り事があるんじゃないかとか、悩みでもあるのかとか、先輩が話してくれないのが、不甲斐がなくて悔しかった。
僕は、どこまでいっても後輩で、先輩に頼ってもらえる人間には程遠い。
近くにいるはずなのに、先輩が酷く遠く感じて、僕は手を伸ばした。
「……文集、間に合わなかったな」
「何言ってるんですか。別に、夏休みが期限って訳じゃなかったでしょう」
「うん、そうだったよね。……あはは、なんかごめんね。夏の終わり、だからかな。ちょっと感傷的になってるのかも」
先輩の本音が陽炎のように見え隠れする。
「……いつの間にか、キミと過ごすこの時間が、かけがえのない大切な時間になってたんだね」
それは、独り言のようで、何か声をかけたいのに、言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えて、言葉の海で溺死してしまいそうだった。
「……もう、なんでキミが泣きそうな顔してるの?」
「……先輩の感傷がうつったんです。らしくないことを言うから」
「……うん、ごめんね」
「謝って欲しいわけじゃないです。……先輩、そんな、泣きそうな顔で笑わないで」
先輩の笑顔が歪む。僕の言葉に、先輩の瞳が潤んだような気がした。
「今にも泣きそうなのはキミの方だよ。私は大丈夫。大丈夫だから……」
こんなにも僕の心は先輩に伝えたい言葉で溢れているのに、どうして気の利く一言すら喉につっかえたまま出てこないんだろう。
「……先輩、前に僕が言葉に出来ないのは言葉が溢れ過ぎてしまうからだって、言ってくれたじゃないですか」
「そんなことも言ったね」
「なら、言葉の海に溺れてしまったら、海の中で息が出来なくなってしまったら、どうすればいいんですか……。僕は、先輩に何を伝えればいいんですか……?」
縋るような僕の言葉に、先輩は目を細めて微笑んだ。
「……じゃあ、私と一緒に心中でもしてみる?」
「……えっ?」
「……なんてね」
カシャン――。
動揺した僕の机の上から、部室の鍵が落ちる。
先輩は落ちた鍵を見つめると、震える指でぎゅっと握りしめた。
「ごめんごめん、変な事言ったね。……冗談だよ。じゃあ、ばいばい」
鍵を握ったまま、先輩が鞄をまとめて部室を飛び出した。バタン、と部室の扉の閉まる音が響き渡った。
慌てて追いかけてみたけれど、既に廊下には先輩の姿はなくて、別れ際の先輩の笑顔が脳裏に焼きついていた。
そして、この日を最後に先輩は部室に現れなくなった。




