彼は今日も嘘をつく
「早く一緒に暮らそうね」
うそつき
「愛してるよ」
うそつき
「それじゃあ、また来るね」
うそつき
だけど、私は気づかないフリをする。
気づかなければ、この幸せが永遠に続くから――――。
◇ ◇ ◇
「早く一緒に暮らそうね」
「愛してるよ」
「それじゃあ、また来るね」
俺の言葉に、彼女はただ静かに微笑む。
無垢でまるで少女のような彼女に微笑みかけると、俺は静かに白い扉を閉めた。
「こんにちは。今日もおばあちゃんの面会ですか?」
廊下ですれ違った職員の声掛けに、俺は曖昧な笑みを浮かべて、そそくさとその場をあとにする。
建物の外に出た俺は『介護付き有料老人ホーム』の看板をちらりと一瞥すると、近くの公園へと向かった。
自販機で買った缶コーヒーを片手に、公園のベンチに座り空を仰ぐ。
「何やってんだろうな、俺」
ハァとため息を吐く。
そして、嘘をついている罪悪感を苦いコーヒーで一気に飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
そもそもの発端は、あのじいさんと出会ったことだ。たまたま近所に住んでて、何度か顔を合わすうちに話すようになって、そしたら祖父と孫ほど歳が離れてるのに不思議と馬が合って。
お互い一人暮らしってこともあって、たまに飯を一緒に食うようになった。
ある日、じいさん家で晩飯をご馳走になったあと一緒に飲んでたら、じいさんがぽろりと家族のことを話し出した。
これまで俺はじいさんが独り身だと思っていたが、実は結婚していて奥さんと離れて暮らしているのだと初めて知った。
じいさんによると、子供には恵まれなかったが夫婦二人で趣味や旅行を楽しんで幸せに暮らしていたらしい。
だけど、八年前に奥さんが認知症になってしまい、しばらくは自宅でじいさんが介護をしていたが、じいさんも体力が衰え、奥さんの病状も悪化したため、介護付き有料老人ホームに入所させたそうだ。
その際、これまで住んでいた家を手放し、奥さんが入所した施設の近くに家を借りて引っ越して来たらしい。
「自分が死んだ後のことは心配してない。誰にも迷惑が掛からないよう、すでに弁護士先生に頼んである。妻のことも看取りまでしっかりみてもらえるように手配済みだ。だが、一人残される妻のことを思うと、不安で不安で堪らない」
そう言って、おいおい泣くじいさんを慰めるため、俺は軽い気持ちで「それなら、じいさんが死んだあとは俺が時々ばあさんの様子を見に行ってやるよ。そんでじいさんの墓前に報告してやるからさ」なんて言ったのが運のつき。
それから数日後。
俺はじいさんに連れられて、ばあさんが入所してる施設へとやって来た。
「こんにちは。早百合さん。具合はどうだい?」
ばあさんは椅子に座ったまま、ニコニコと嬉しそうにじいさんの話を聞いている。
何も返答がないばあさんに、それでもじいさんは「今日は天気がいいね」「この間、側溝にたんぽぽが咲いてるのを見かけたよ」なんて、他愛ない言葉を紡いでいく。
なんて事のない普通の光景。
それでも俺は、まるで自分がこの幸せな空間に紛れ込んでしまった不純物にでもなったかのような錯覚に陥ってしまった。――それぐらい、綺麗で眩しかった。
「早く一緒に暮らそうね」
「愛してるよ」
「それじゃあ、また来るね」
じいさんが膝をついて椅子に座っているばあさんの皺だらけの手を恭しく掬い取る。じいさんの優しい眼差しをばあさんが幸せそうに微笑みながら見つめる。
それはまるで神聖な儀式のようでもあり、一枚の絵画のようでもあった。
だから、まさかこのたった二日後にじいさんが死ぬなんて思いもしなかった。
あとから知ったことだが、じいさんは末期のガンで元々長くはなかったらしい。
それでも今日まで頑張って来られたのは、一人残されるばあさんを心配してのことだったのだろうか?
だとしたら、俺が余計なことを言ったせいで、こんな結末になってしまったのだろうか?
それはわからない。
だけど、このまま二人の幸せな時間を終わらせるわけにはいかない。そう強く思った。だから――――。
◇ ◇ ◇
「こんにちは。早百合さん」
じいさんが亡くなったあと、俺は約束通りばあさんに会いに行くようになった。ばあさんは今日も何もわからず、何も知らず、ただニコニコと幸せそうに笑っている。
だから俺は、毎回じいさんと同じように、微笑みながら他愛ない話をばあさんに聞かせる。
そして最後には、じいさんがしていたように必ず跪いて、歳を重ねたばあさんの手を恭しく掬い取り、こう騙る。
「早く一緒に暮らそうね」
「愛してるよ」
「それじゃあ、また来るね」
彼女の幸せが永遠に続きますようにと願いを込めて。
俺は今日も嘘をつく。