7.番外編・そのままの、あなたと私
弟の頼りない背中を見送った後、彼女の瞳はいつも暗く濁る。
ノインはその曇りを、いつしか晴らしてあげたいと思うようになっていた。
ノインがアニエスに初めて会ったのは、子爵領の領主館でだった。
国、いや世界の危機に対して、打倒魔王で立ち上がった美しくも凛々しい姫、エルサ。彼女に命じられて、ノインは渋々王都から遠く離れた子爵領へと同行していた。
ノインは若いが既に人に命令する立場であり、魔王を倒す為の旅に関わることはあっても、直接戦場に赴く立場ではなかった。
しかし勇者を迎えに行くのならば、王女以外にもそれ相応の地位の者がいた方がいいし、騎士としてその勇者の力量も見て欲しい、とエルサに依頼されていたのだ。
古く質素だがよく手入れされた領主館で、玄関扉を開いて応対に出てきたのは茶色い髪をおさげに結った水色の瞳をした女性。
ノインは当然使用人が出てきたのだと思ったのだが、彼女が子爵令嬢アニエスだったのだ。
応接室に一行が通され次期子爵であるスタンとエルサが話している間、何故かアニエスはソファには座らず、壁際で心配そうに話を聞いていた。
ノインはその様子がどうにも不思議で、興味を持ったので彼女の隣にわざと立ったのだ。後で聞いたところ、保護者として同席して良いのかどうか分からなかったのだという。
そんな風に純粋で物知らずだった姉弟を、エルサとノインは戦場に引っ張り出したのだ。
世界の為に。
屋敷同様、応接室は家具や調度は古いが、清潔に保たれているのがよく分かった。
クロスにはパリッとアイロンがかかっていて、裾の部分に飾りとして施された刺繍は少し拙く、とても愛らしかった。
後から聞くとあの刺繍はやはりアニエスが刺したもので、どうしようもなくいとおしかった。
・
スタンが伯爵として賜った屋敷。
その応接室で音もなくするすると歩いてきた淑女が、体幹を揺らすことなくカーテシーを行う。
姿勢を正して優雅に微笑んだのは長い髪を複雑に結って化粧を施されたアニエスで、ノインは素直に感嘆した。
「このまま陛下に拝謁してもおかしくないぐらい、完璧な所作ですね」
「本当? 嬉しい……」
嬉しそうに瞳を輝かせたアニエスは、少しだけ顔を俯かせる。ピンク色の唇がきゅっと弧を描いて、たまらなく愛らしい。
ノインが癖で抱き寄せようとすると、それを察した彼女はほんの少し体を離した。恥じらうような動きに見せかけた明確な拒否に、ノインは僅かに眉を寄せる。
「アニエス?」
つい咎めるように名を呼ぶと、アニエスは宥めるように微笑んだ。
「だって私達はまだ婚約中でしょう……ロージャー夫人に、適切な距離を保つようにってキツく言われているの」
アニエスの教育係ロージャー夫人は、高名な家庭教師を探して侯爵家から依頼した。
現侯爵夫人であるノインの母親の推薦で、ロージャー夫人に任せておけばどこに出しても恥ずかしくない、次期侯爵夫人へと教育してくれるだろうと思われていた。
それは間違っていない、と思う。
アニエスは夫人の授業を受けて、短い間に瞬く間に成長した。
元々子爵令嬢としては申し分ない礼儀作法を身に着けていたが、王城に出入りすることが増えたり、侯爵家の嫁として高位貴族と接する際にはより厳しく、高いレベルの所作が要求される。
それを短期間で見事に身につけた彼女は、ノインの目から見ても十分に高貴な令嬢だった。
しかし。
「随分他人行儀ですね、今更では?」
「今からでも、きちんとしておくべきでしょう」
揶揄うような口調でノインがそう煽っても、アニエスはちっとも乗ってきてはくれない。
「ここには、あなたと俺しかいないのに?」
「使用人達がいるわ。それに普段からきちんと線引きしておいた方が、公の場に出ても自然と振る舞えるだろうから、と」
それも、ロージャー夫人の指導なのだろう。
アニエスは先程からあまり視線を合わせてくれないし、笑顔も控えめだ。
おかしくはない。
ノインがこれまで見てきた高位貴族の令嬢達は、皆こういった所作だった。だがそれは、ノインの愛するアニエスの姿ではない。
「……いつも通りのあなたでいいんですよ」
「?」
ノインがそう言うと、アニエスはきょとん、と瞳を瞬いた。それから困ったように笑う。
歯を見せたりしないし、ふにゃっと顔が崩れたりもしない、僅かに首を傾けて唇だけで微笑むのだ。
「おかしな人。あなたの隣に立つ為には、いつも通りの私ではダメなのでしょう?」
それを聞いて、ノインは愕然とする。
自分の為、自分の所為なのだろうか? とノインは目を見開いた。
アニエスは特に無理をしてる様子ではない。ごく自然にロージャー夫人の教育を受け、それを受け入れて彼女のものとして会得していた。
お節介なぐらい過干渉なところや、ノインを侯爵令息として扱わない雑な扱い、他の令嬢のように気取ったりせず、遠慮せず屈託なく破顔する様。
それら一つ一つがノインを惹きつけ、彼女への思慕を募らせていたのだと今更に気付く。
勿論今の令嬢然としたアニエスだって、ノインの愛する彼女だ。出会った頃の、失礼でガサツなところが無くなったとしても、ノインは彼女の心を愛している。心変わりなどする筈もない。
でも、
でも。
「……アニエス」
ノインがやや強引にアニエスの腕に触れると、彼女は戸惑ったようにこちらを見上げてきた。
「ノイン?」
「……どうか我儘な俺を、許してください」
「わがまま?」
きょとん、とアニエスは瞳を瞬く。その瞬きの僅かな音や、煌めく瞳を、ノインは愛している。
彼女の、彼女らしさが、特に愛おしいのだ。
「……ロージャー夫人の授業をきちんと受けてくれて、ありがとうございます。でも俺は以前言ったように、普通の女の子であったとしてもあなたが好きなんです。あなたが……一番自分らしくある姿を、何よりいとおしく思います」
ノインがそう言って彼女の手をぎゅっと握ると、その言葉の意味を理解したアニエスの仮面がゆるゆると剥がれていく。
じわじわと頬は赤く染まり、唇は戦慄き、眉はぎゅっと鋭角に寄る。
「わ、ワガママだわ!!」
「はい……」
その叫びを、ノインは恍惚として聞いた。
アニエスは顔を真っ赤にして、ノインを睨みつける。努力してくれた彼女には申し訳ないが、ノインは嬉しくてたまらない。
ありのままのアニエスのことが好きだ。
勿論高位貴族の令嬢のように振る舞おうと、街娘のように行動しようと、ノインは一向に構わない。ただアニエスがアニエスの好きに振る舞ってくれることが、ノインの幸いだった。
「あなたのことを、変わらず愛しています」
「……本当に勝手ね。私がどれだけ頑張ったと思ってるのよ……」
「ええ。俺の為に頑張ってくれて、嬉しいです。でも……あなたの有り様を曲げたいわけではないんです」
「そんなの、言われなくても分かってるわよ。でも、こういうのがあなたと一緒にいる為には必要なんでしょ?」
じろっと睨みつけられて、ノインは唇を吊り上げる。
なんて可愛い人なんだろう。自分の為に、有り様を変えてくれる人なんて、そうそういない。
それ自身は、純粋に嬉しい。
「どうしてあなただけが変える必要があるんです? 俺があなたといたいんだから……俺だってあなたに合わせます」
「……えっと、じゃあ……粗野になる?」
アニエスが不思議そうに首を傾げるので、ノインは笑って頷いた。
「粗野な自覚があるんですね。あなたの望みなら、喜んで」
「意地悪ね! あなたは粗野ではないけれど、性格の悪さで十分私に釣り合ってるわよ!」
忌々し気に眉間に皺を寄せたアニエスは、ノインの耳を引っ張る。いかにも彼女らしい仕草に、ノインは心が躍った。
アニエス・ロールはこうでなくては!
「ああ……愛しています、アニエス」
「…………変わった嗜好をお持ちね、侯爵令息様」
「あなたの前では、ただの恋する男ですよ」
尖ったアニエスの唇に指で触れて、ノインは懇願する。
「キスすることを、許可してください。マイ・レディ」
誘惑すると、アニエスは顔を真っ赤に染めた。ノインはその様も愛おしくて、じっくりと見つめてしまう。
「ほんっとうにいい性格! ロージャー夫人には、一緒に叱られてよね?」
アニエスがそう言って勝気に瞳を輝かせる。そして、自らノインの唇にキスをくれた。