6.番外編・その後の二人、相変わらず
サッと手を伸ばすと、家庭教師にぺちん、と扇で軽く手を叩かれる。
「痛い!」
「痛くしております、お嬢様」
アニエスが大袈裟に痛がると、年嵩の家庭教師であるロージャー夫人は厳しい目つきと口調で返した。
「口で注意すれば済むことじゃない? 体罰反対!」
「言って聞いてくださらないから、わたくしも手が出ております」
「それは正論!」
ぺちん、と自分で額を叩いて、アニエスは嘆く。ロージャー夫人も盛大に肩を竦めた。
さて紆余曲折の末に、アニエスとノインは無事婚約した。
いくら本人達が愛しあっていようとも、侯爵家の嫡男と子爵家の行き遅れでは身分差があり過ぎるのでは、と心配していたのだが、杞憂だった。何せ、アニエスの弟・スタンは魔王を倒した勇者であり、王女エルサの婚約者だ。
スタン自身も次期子爵とはいえ決して高い身分ではなかったが、そこは勇者への褒賞として新たに伯爵位を授爵することが決まったのだ。王女の輿入れ先として、国がバランスを取った形なのだろう。
そのおかげで自動的にアニエスの立場も伯爵の姉、ということになり、身分の差による障害は解消された。
持つべきものは、勇者の弟である。
ちなみにそのことでスタンに礼を言うと、
「姉ちゃんがいなかったら、俺そもそも勇者してないだろうから、巡り巡って姉ちゃんのおかげだよ!」
と、逆に礼を言われてしまった。謙虚な男である。
アニエスとしては素直に頷くことは出来ないのだが、スタン自身にそう言ってもらえると、あの旅の中で弟を戦場に送り出す葛藤を抱え続けた日々も、少し報われるような気がする。
ようやくアニエスは、そんな風に考えられるようになってきていた。
アニエスの心境の変化には、大いに婚約者のおかげもあるのだろう。
「まだやってたんですか」
開いたままの扉の向こうからその婚約者であるノインが顔を出して、整った顔を盛大に顰める。
ロージャー夫人と睨み、もとい見つめ合っていたアニエスは、彼のその表情を見て自分も顰めてみせた。
「何その顔。ハンサムが台無しよ」
「たかだかマナーのレッスンに、どれだけ時間がかかってるのかと驚いたんですよ。それよりアニエス、俺のことハンサムだと思ってくれてたんですか?」
いそいそと近づいてきたノインに、アニエスはロージャー夫人の方に視線を戻す。
「ああいう失礼なことを直接言うのは、マナー違反にならないんですか、先生」
指摘すると、夫人は鷹揚に頷く。
「親しい間柄ならば、許容されます」
「親しくないです」
「婚約者なんですけど、俺?」
アニエスの言葉に、心外そうにノインが唇を尖らせる。彼が勝手に隣に座ってきたので、アニエスはソファの上で少し距離を取った。
向かいの一人掛けのソファに座っているロージャー夫人はそれを見て、また冷たく告げてくる。
「正直わたくしもノイン様と同意見ですので、よくぞ言ってくださいましたと思っております」
「私、先生とも親しくないんですけど!? 遠慮してもらえません??」
味方が一人もいない、とアニエスはまだ嘆いた。
その後、どっさりと課題を出してロージャー夫人は帰っていった。彼女を見送った後、ようやく解放されたアニエスはぐったりとソファに懐く。
「ロージャー夫人は、熱心な教師のようですね?」
ノインが器用に片眉を上げて言うと、アニエスは溜息を吐く。
「そうね、とても熱心で……あー悪い人ではないわね、私がどこに出ても恥ずかしい思いをしないように、厳しく教えてくれてるわ」
本来夫人が担当するのは、もっと若く高貴な令嬢達だ。
そこを他ならぬ侯爵家の依頼だから、とアニエスの教育を引き受けてくれたが、生徒のじゃじゃ馬ぶりにはさぞ辟易していることだろう。
「悪いとは思うけど、そうそう一朝一夕にはいかないわ」
「……疲れてますね」
ノインの手の甲が、アニエスの頬に触れる。瞼を閉じてそれを受け入れて、また溜息を吐いた。
「うーん、疲れてるっていうか、出来ない自分にイライラしてるってカンジかな。夫人に言わせれば、何も難しいことは教えてないらしいし……」
アニエスは結婚までの間、伯爵としてのスタンに与えられた、王都の屋敷に滞在している。しかし家主の筈のスタンは勇者としてずっと王城に留め置かれていて、会うことは滅多に叶わない。
屋敷と共に使用人達も数名派遣されてきたが、それは一時的なものでスタンが今後この屋敷に住むようならば、改めて彼が使用人を雇用しなくてはならない。
その為、今世話をしてくれる使用人達も悪意はないのだが、アニエスに対してどこか余所余所しかった。
慣れない王都に、余所余所しい使用人達。友達もいない土地で弟とも引き離されて、やって来るのは厳しい教師。
自分でノインと結婚することを決めたとはいえ、さすがのアニエスも疲弊していた。
「少し授業の進みを、遅らせますか?」
だが労わるように言われても、アニエスは首を横に振る。
田舎の子爵家の娘としてならば、別にマナーも教養も恥ずかしくない程度にはアニエスは備えている。むしろ領地経営の真似事をスタンと二人三脚で行っていたのだから、自分は出来る方だと自惚れていた。
しかし王都に来て、それがいかに驕りであったのか痛感したのだ。アニエスよりももっと若い、いっそ幼いといってもいいぐらいの令嬢でさえも、よっぽど動きが洗練されているのだ。
これから次期侯爵であるノインと共に生きていくのならば、避けては通れない道だった。
「過酷な旅だって、なんやかんやありつつちゃんとこなしたわけだし、それに比べれば環境は天国みたいだもの。平気よ」
アニエスが意識して微笑んでみせると、ノインに抱き寄せられた。
「ありがとうございます」
「ん? 何故お礼を言われてるの?」
本気で分からなくて、アニエスは首を傾げる。ノインのことだ、先程のように授業の進みが遅いことを、揶揄ってくるぐらいだろうと思っていたのに。
明かに表情に出ていたのだろう、ノインは心外そうに眉を顰める。
「あなたは、子爵令嬢や勇者の姉としてならば申し分のない令嬢です」
「あら、ヤダ、褒められてる!」
「口が悪くて、口うるさいのは玉に瑕ですがね」
「秒で貶された」
アニエスが唇を尖らせると、うるさいその口を塞ぐようにノインにキスをされる。
「……突然恋人モードになるの、やめてくれない?」
「おや、ではずっと恋人モードでいましょうか」
ふふん、と笑って言われて、アニエスは慌てて首を横に振る。
たった一回のキスでも、頬が燃えるように熱いのだ。四六時中こんな状態では、身も心ももたない。
「……十分魅力的なあなたが、今苦しめられているのは……俺と結婚するから、でしょう?」
「う、うん……」
耳の後ろにノインの長い指が触れ、そのまま頬を辿って唇に触れてくる。アニエスは落ち着かない気持ちになって、視線をそわそわと動かした。
「俺の為、でしょう?」
「……うー……そう、とも、言う……」
むにゃむにゃと唇を動かすと、ノインの指が労わるようになぞり、またキスをされる。
「だから、ありがとうございます」
「うう、どういたしまして?」
アニエスが顔を真っ赤にして言うと、ノインはこの上もなく嬉しそうに笑って、もう一度キスをしてきた。
ちょっと、キス多くないですかね?