4.驚天動地、世界はどんどん動いていく
「鈍感!? 私、鈍感なの?」
「まぁ、あなたは鈍感ですけど」
ノインはあっさりと頷く。当然という顔がますます憎たらしい。
「そこは嘘でも、そんなことないよって言って励ますところでしょう!」
「励ますまでもなく、元気じゃないですか」
「カラ元気よ!!」
喚くアニエスを少し鬱陶しそうに見つつ、ノインは肩を竦める。まだオロオロと彷徨っているアニエスの手にそっと触れて、伺うように彼は上目遣いでアニエスを見つめた。
「握っても?」
「どうぞ!?」
動揺中のアニエスは、まるでそれが命綱か何かのようにしっかりとノインの手を握り返す。
「こんな風に、男に簡単に手を握らせるものじゃない」
「簡単にじゃないわよ。ノインぐらいでしょ、あとはスタン?」
本人も忘れがちだが、アニエスはこれでも貴族令嬢だ。
お世話係の仲間達にだって、体は勿論手を握らせることを許したりしていない。彼らは気さくだったが、しかしさすが勇者一行のお世話係に招聘されるだけあって礼儀正しい人ばかりだったので、アニエス自身よりもアニエスを令嬢として気遣ってくれていた。
「……じゃあ何故、俺は許されているんです?」
ノインが意外なほど真面目な声でそう言うと、アニエスははた、と彼の瞳を見返す。
何故、だと?
「ごめん、離すわね」
ぱっ、とアニエスが答えから逃げるようにノインと繋いでいた手を離そうとしたが、しっかり繋がれたそれを解くことは出来なかった。
「ノイン」
咎めるように名を呼んだが、ノインの方もアニエスを咎めるように睨んでくる。
「あなたは鈍感な人だし、ひどい人だ」
「あんたは失礼な男ね」
「ちょうどいいのでは?」
何が、とは聞きたくなくて、アニエスは強く腕を振って手を離させた。
「帰る! どうぞお大事に!」
立ち上がって扉に向かうアニエスの背に、ノインの声が掛かる。
「アニエス。明日のパーティには、俺も出席します」
「……あっそう。無理しないようにね」
言って扉を開いたアニエスは、振り返ることなく部屋を後にした。
ノインの顔は見なかった。見られなかった。
翌日。
今朝も、アニエスはモリモリと朝ご飯を食べていた。昨夜の夕飯は実はちょっと食欲ない、などと考えていたのだがメイドが運んできてくれた料理はあまりにも魅力的だったのでペロリと食べてしまったし、今朝の朝食も美味である。
つくづく自分はシリアスに向かないな、と納得しつつ食べられる時に食べる、ということが身についたのは過酷な旅の所為だな、と責任転嫁もしておいた。
大体用意してくれた人に失礼と言うものだ。美味しいものは、美味しくいただくのが礼儀と言うもので、むしろアニエスは礼儀正しいと言えるだろう。
「美味しかった!」
アニエスが食後のお茶を飲みつつ感嘆すると、メイドがニコニコと微笑んで皿を下げていく。
「それは、ようございました。勇者様のお姉様、この後は入浴の準備が出来ております」
「ご飯食べただけなのに、お風呂? 昨日の夜も入れてもらったわ」
アニエスが首を傾げると、メイドは微笑んだまま教えてくれた。
「夜のパーティに向けてのお支度です」
「……まだ朝なのに?」
「はい」
有無を言わさぬその雰囲気に、アニエスはたくさん食べたことを後悔しながらぽこっとなったお腹を撫でた。いや、美味しかったので、悔いはない。
数時間後。
パーティが始まる前からぐったりと疲れたアニエスは、会場の壁に寄りかかっていた。壁の花といえば聞こえはいいが、これは壁の苔のような有様である。
王女や公爵令嬢などはもっと念入りな支度をしている、とメイドの一人に教えてもらって、エルサに対する尊敬を募らせているところだった。なるほど、旅の中でもあれほど美しいわけだ。
努力の上に美は成り立っているのだ。過酷、過酷と自分の旅を思っていたが案外エルサの方があらゆる意味で過酷だっただろう。
そんなエルサが、スタンのお嫁さんになる、なんて今でも信じられない。いや、何か実感が湧かない、というのが正しいだろうか。
チラチラとアニエスを見遣る視線は感じるが、特に話しかけてくる者はいない。旅に参加していた騎士や魔法使いの顔もあるが、彼らとアニエスに直接の関わりはなく、たまたま近くに来た際は目礼をする程度で改めて話すようなこともなかった。
やがて国王と王太子、王女であるエルサが登場し、スタンも壇上に現れた。
王は勇者と一行の健闘を讃え、魔王が倒されたことを喜び、国がこれからも発展していくことへの願いを手短に述べ、グラスを掲げてパーティの開始を宣言した。
あちこちでグラスが重なり合う音が響き、ダンスの音楽が流れ出す。
それら煌びやかな様子を、まるで遠い夢の出来事でもあるかのように見つめながらアニエスは感嘆の溜息をついた。
「こんばんは、アニエス」
呼ばれて顔を向けると、いつの間にか隣に当たり前のようにノインが立っている。
「……乾杯」
そう言ってアニエスが自分の持つグラスを掲げると、彼も同じようにグラスを掲げてみせた。カキンと澄んだ音がして、ノインはグラスに口をつける。
「病み上がり、お酒なんて飲んで大丈夫なの」
「医師の許可は降りてますよ」
ノインはそう言うと、グラスの中身を飲み干した。可愛くない男である。
わっ、と歓声が起きたので視線を向けると、ファーストダンスを今回の最たる功労者であるスタンと、王女であり聖女でもあるエルサが踊り始めるところだった。それを何となく二人は並んで眺める。
「あの子、ダンスなんて出来たのね」
「急いで覚えたそうですよ。その割には様になってますよね」
「本当」
「スタンは……最初こそ剣を握ったこともない少年でしたが、飲み込みが早かったし、何より大切な人を守りたいという強い意志があった」
ノインの声は優しい。アニエスが彼の横顔を窺うと、ホールで踊る二人に声同様に優しい眼差しを向けていた。
そういえば騎士として同行したノインは、スタンに剣の稽古をつけていることが多かった。だからこそアニエスもノインと気安く喋るようになったのだし、最も彼らの傍にいた騎士としてスタンとエルサの様子に気付いたというのも納得だった。
「大好きなお姫様を守る為に頑張ったのね、それってすごく勇者様っぽい」
肩を竦めてアニエスが微笑むと、ノインは驚いたようにこちらを見てくる。
「何言ってるんです。スタンが守りたくて努力したのはあなたの為ですよ、アニエス」
「え?」
「旅を続ける内に王女殿下と恋に落ちたのは本当ですが、それは旅立ってから随分後のこと。そもそもスタンが勇者として世界を守る為に旅に出たのは、いつも自分を守ってくれた大好きな姉君が暮らす、平和な日々を守る為です」
ノインの声は、先ほどと同じぐらい優しく、そしてどこか熱を帯びていた。
「……そんなこと、言われてない」
「そりゃ直接本人には言わないんじゃないですか? あなただって、自分が悩んでたことをスタンには告げてなかったでしょう」
確かにそうだ。
アニエスは、ノインには散々スタンを戦場に出していることに対しての後悔を告げ、彼に八つ当たりまでしてしまっていたが、スタンに直接言ったことはなかった。
言える筈がない。
「スタンの方も、あなたを守りたいと思いつつ過酷な旅に同行させてしまっていることを申し訳なく感じていて、言えなかったんでしょう」
優しい雨のように、ノインの声がアニエスの心に降ってくる。
時間をかけてメイド達が施してくれた渾身のメイクを流したくなくて、涙が溢れるのは唇を噛んで耐えた。そんなアニエスの顔を見て、ノインは眉を下げる。
「ここをスタンに見られたら、俺は彼に殴られてしまうな」
「……私、何にも気付いてなかったのね」
震える声を絞り出すと、ノインは目元を和らげた。それから手を差し出す。
ちょうどスタンとエルサのダンスが終わり、他の参加者達もダンスホールへと出ていくところだった。
「それでいいんですよ。スタンが守りたかったのは、あなたのそういうところなんですから」
昨日と違い、ノインは許可を取ってこない。その代わり、アニエスの意思で彼の手を取ることを促してくる。この大きな手に自分のそれを重ねれば、もう逃げることは出来ないんだろうな、と考えながらアニエスは手を乗せた。
驚くほど強い力で手を握られて、アニエスは顔を上げる。ノインはまるで少年のように笑っていた。
「ノイン」
「ねぇ、予約していたのを覚えていますか」
「予約……」
「まさか忘れてる?」
二人でホールに出ながら、ノインが拗ねたように眉を寄せる。慌ててアニエスは首を横に振った。
勿論覚えている。ただ唐突だったので結びつかなかっただけだ。
「応援のことでしょ? アンタを一番最初に応援するって予約」
「そうです」
ノインは頷き、ごく自然にダンスの輪に加わった。令嬢の嗜みとして一応アニエスもステップは覚えているが、まさに「覚えている」だけだ。
しかしさすがに侯爵令息であるノインは慣れているのかリードが巧みで、アニエスは彼に任せているだけでまるで踊りの名手になったかのような気持ちにさせられた。
「今、応援してください」
「い、今!? ここで? 踊りながら?」
「はい、今。ここで、踊りながら」
繰り返して、ノインは笑う。くるりとターンをさせられて、アニエスの体はまたノインの長い腕に支えられた。
「あ、声は抑え気味でお願いします。勇者にしていたように叱咤されては、周りが驚いてしまいますから」
「馬鹿にしてるの? 私だって状況ぐらい弁えてるわよ」
弁えていないのは、この男の方だ。今、ここで応援してくれなどと無茶もいいところだろう。
しかし約束は約束。それに、きっとこのパーティが終わればアニエスは王城を出るだろうし、こんな風にノインとゆっくり気兼ねなく話せるのは最後の機会だ。
実際応援を仕事になんて出来ないだろうし、旅の仲間同士のジョークのようなもの。ここで約束は、果たしておくべきだ。