第3話 憂鬱
椎谷の里は春を迎えて、明るい日差しを浴びていた。地面から草木が芽を出し。木々に葉が茂り始めた。また多くの生命が盛んに活動するときが来たのだ。だがそれに反して葵姫の顔は暗かった。
約束された数日がたっても迎えの者は来なかったのだ。それだけでなく城からの使者どころか、手紙一つ来なかった。彼女は待ち続けたというのに・・・。
(私は忘れられてしまったのか・・・)
葵姫の心は憂鬱だった。里に来てから一日中、山の向こうの景色を見てため息をついていた。
「姫様。もう少しでお城に戻れますよ。あと少しの辛抱ですよ。」
千代は葵姫を何とか慰めようとした。しかしそれを何度も聞かされた葵姫にはそれを信じる気にならなかった。
「迎えなど来ぬ・・・」
葵姫は悲し気につぶやいた。城を出る時、父上は「すぐに戻って来られる。」と笑顔で送り出してくれた。だが今となってはその言葉は信じられなくなった。
「私はもう帰れないのかもしれぬ。このままこの山深い地で一生を過ごさねばならない・・・」
葵姫はまたため息をついた。彼女は日に日にふさぎ込むようになっていた。
紅之介は常にその部屋の廊下に控えていた。あれから毎日のように警護のためにここにいるのだが、葵姫は紅之介に一言も言葉をかけなかった。いやそれだけではなく見ようともしなかった。ただその存在を無視しているかのようだった。
紅之介には葵姫は冷たく薄情なお方に見えていた。お付きの侍女をはじめ家の者がどれほど気を使おうが、彼女の反応は冷ややかだった。
(美しき姫君と人は言うが、私にはわからぬ。)
紅之介はそう思っていた。姿かたちは美しいのかもしれないが、心は冷え切っている。普通の男ならその美しい姿の葵姫に心惹かれるはずだが、そう感じる紅之介の心は動かなかった。
ただし元々、紅之介にはその手のことに何の感情ももたなかった。以前は色白で優しい顔つきの紅之介は、里の女たちから色目を使われることが多かった。しかし関心のない紅之介はそれをことごとく無視した。それでいつしか紅之介は女に冷たいという評判が立ち、里の女は紅之介を気に止めなくなった。
紅之介は廊下に座りながら思っていた。
(この役目は自分には向かぬ・・・)
どうしてこの役目が自分に回ってきたのかが不思議だった。このような役目ならもっと気が利くものがありそうなのに・・・。自分は廊下に座ったきり、葵姫に目を止められることもない。
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この役目が言い渡されたのは葵姫が到着する前の日の夜だった。百雲斎から「話がある。」と言って自室に呼ばれた。
紅之介が部屋に入ると百雲斎が真剣な顔で言った。
「お前に頼みがある。ぜひやってもらいたいことがある。」
「はっ。私にできることなら何なりと。」
紅之介は何か大きな仕事を仰せつかると思って息をのんだ。すると百雲斎は、
「紅之介、お前が姫様の警護をせよ。」
と命じた。紅之介はその言葉にいささか拍子抜けした。
(この私が姫様の警護?)
いかなる戦いでもひるむ紅之介ではないが、姫様の警護と聞いていささか困惑した。身分の高い方、とりわけ姫様の警護に自分のような武骨者が務まるだろうかと。紅之介はそれを率直に百雲斎に言った。
「私のように気が付かぬものでは務まりませぬ。」
しかし百雲斎はその言葉を予想していたのだろうか、少しも嫌な顔をせずに逆にやや顔をほころばせて言った。
「お前のような者だからよいのだ。」
紅之介には百雲斎の言葉の意味が分からなかった。どう考えても自分が適任だとは思えなかった。だが百雲斎はそう言ったきり、机に向かって手紙を書き始めた。紅之介はあきらめてこの役目を引き受けることにした。
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確かに紅之介にはこの役目は不満ではあった。もしできれば外して欲しいとの思いは日に日に強くなった。
夜になると紅之介は離れから庭に出た。その手には木刀を持っている。毎日のように座ったままでいると体がなまってくるのである。それで夜はこうして木刀を振り回しているのである。
「やぁ! やぁ!」
その動きは鋭かった。それを無我夢中でやっていると紅之介の気が晴れてくるのである。その心の奥では厳しかった修業時代のことが浮かんではいたが・・・。
その時、不意に声をかけられた。
「紅之介! 精が出るな。」
紅之介が振り返るとそこに重蔵が立っていた。彼は確か、道の見張りに出ていたはず。務めを得て帰ってきたのだろう。
「重蔵殿こそ、お務めご苦労様です。」
「いや、なんの、なんの。」
重蔵は務めから解放されたためか、柔和な表情になっていた。
「ところで姫様のご様子はどうだ? 里の者の話ではとびっきりの美人というのではないか? お前、近くにいて気になっておるのではないか?」
重蔵は戯言に紛れて聞いてきた。彼は紅之介のわずかな変化を見て、その心の様子が気がかりになっていたようだ。だがそれは全くの見当違いだった。
「いえ、私など姫様の目に入っておられません。いや、里の者たちにも関心がない。その様なお方です。」
「ほう、そうか。」
重蔵は紅之介の言いようが意外だった。だがその言葉から葵姫のことが推察できた。
「お前も大変なようだ。まだ我らの方がましか。」
「いえ、そんなことは・・・」
「まあ、よい。姫様も警護はお前にしか務まらぬのかもしれぬ。そう思えてきた。ではな。」
重蔵はそう言って帰っていった。そう言われればそのような気がした。命を賭けてこの里を守る重蔵たちと比べて、こんなことができぬとは誰にも言えぬように紅之介には思えた。
今日も部屋に閉じこもる葵姫のため、紅之介は一日中、廊下に座り続けていた。役目には不満があったが、自分だけがこの退屈な務めを果たせるのかもしれないと思い込むことにした。
葵姫も相変わらず、そんな紅之介に言葉をかけることもなく、また目に止めることもなかった。