シンシアの野望(1/1)
「ああ……殿下……殿下ぁ……」
クリストフ兄様が談話室のソファーの上でゴロゴロと転がっている。その胸に抱きかかえているのは、エルフリーデ様の肖像画だ。
「エルフリーデ殿下、愛しています! 今お側に……痛っ!」
キャンバスの中に飛び込もうとして額を強打したクリストフ兄様が悶絶する。
アホだ。本当にアホだ。
「……で、兄様。さっきのあれは、何だったんですか?」
私は、額を擦るクリストフ兄様を白い目で見ながら話しかけた。
エルフリーデ様もグレンも、もう帰った後だった。
だけど私の耳には、まだエルフリーデ様の言葉がはっきりと残っている。
――わたくしとクリストフの二人組と、お前とグレンのコンビ、どちらが濃密な愛の時間を過ごせるのか決めるのよ。
何でいきなりそんなことを言われたのか、さっぱり分からなかった。って言っても、エルフリーデ様のワガママは有名な話だ。きっとこれも、あの人の気まぐれの一種なんだろうけど……。
「まあ付き合ってやってくれ、シンシア」
クリストフ兄様が真面目な顔になって、ソファーから起き上がった。
「かわいそうな方なんだ、エルフリーデ殿下は」
「かわいそう?」
もしかして何か事情があって、あんな傍若無人に振る舞っているのかな? 私は、思わず背筋を正してクリストフ兄様の話に耳を傾ける。
「今日も朝食に、レタスの入ったサラダを出されていたんだ! 葉野菜は嫌いだと、前からコックたちに言ってあったのに!」
『かわいそう』の規模が小さい! 同情しかけた私がバカみたいじゃん!
「だから、代わりに私が完食してあげた。喜んでくださっていたなあ……エルフリーデ殿下」
で、最終的にはノロケ話に行き着くのね! 本当にバカップルじゃん!
二人の熱愛っぷりは、日に日に悪化していた。多分、あんな訳の分からない勝負を持ち出してきたのも、ちょっとした恋の戯れってことなんだろう。
「私たちをダシにイチャつこうとするのはやめてください」
私はため息を吐いた。バカップルに利用されるなんて、何だか納得がいかない。
「何を言っているんだ。これは、シンシアにとっても悪い話じゃないだろう?」
私が眉をひそめていると、クリストフ兄様が意外なことを言い出した。「どういうことです?」と私は尋ねる。
「知らないのか? 君たちが、皆の間で何と噂されているのか」
クリストフ兄様が肩を竦めた。
「会話ゼロ、笑顔ゼロ、愛情もゼロの不仲な二人。このままでは、婚約の破棄も時間の問題だと、誰もが言ってるんだぞ」
「そ、そんな……!」
まさかの言葉に衝撃を受けた。
私もグレンもあんまり噂話には興味がないから、そんなことを言われているなんて、まったく気が付かなかった。まだ婚約して一ヶ月くらいしか経っていないのに、もう破局寸前だと思われていたなんて……!
「……で、君たち、実際のところはどうなんだ?」
クリストフ兄様が探るような目を向けてきた。
「もう別れたいと思っているのか?」
「思ってません!」
私は即答した。
でも、すぐにグレンの仏頂面が浮かんできて、声を落とす。
「グレンは……分かりませんけど」
私は昔から、ずっとグレンが好きだった。でも、グレンはそうじゃないのかもしれない。
そんな疑惑が鋭いトゲのようになって、私の胸をチクチクと突き刺していた。
「だったらこの機会に、彼を振り向かせてみればいいだろう?」
クリストフ兄様が慰めるような声になる。
「中身なんて後から伴ってくるさ。まずは形だけでも、『仲睦まじい恋人』を演じるのも悪くないんじゃないか?」
「形……だけでも……」
思ってもみなかった考え方だった。
仲のいい二人を演じていれば、いつか本当にそうなれる日も来るの?
クリストフ兄様とエルフリーデ様みたいに……っていうのは、ちょっと行き過ぎかもしれないけど、少なくとも皆から「婚約破棄も時間の問題」なんて言われなくなるくらいには、距離が縮まるかもしれない。
「やって……みようかな」
私は呟いた。
「恋人らしいこと……グレンと……やってみようかな……」
「そうだ、それがいい」
頷くクリストフ兄様は、何だかいつもより頼もしく見えた。
「まあ、どの道、エルフリーデ殿下のご命令には逆らえないしな。ああ……殿下、殿下……」
クリストフ兄様は、肖像画のエルフリーデ様の唇に、絡みつくようなキスをした。そして、「不味い!」と言いながらのたうち回る。多分、溶けた顔料が口に入ったんだろう。
本当に、どうしてこんなにアホなんだろう。さっき一瞬だけ兄様のことを尊敬しかけたけど、この光景を見て、その気持ちは完全に吹き飛んでしまった。
「大丈夫だ、シンシア」
私の呆れた顔を心配している表情だと勘違いしたクリストフ兄様が、舌をハンカチで拭きながら笑いかけてくる。
「こんなこともあろうかと、この肖像画は、口に入れてもいいものを材料にした絵の具で描いてあるんだ!」
どうせなら、水に溶けない絵の具を使えばよかったのに……。用意がいいんだか悪いんだか分からない人だ。
でも、こんな残念すぎるクリストフ兄様にも、一応は感謝しないといけないかもしれない。だって、こんな一見馬鹿げた勝負に、重要な意味を見いだしてくれたんだから。
形だけでもグレンと仲良しのカップルを演じる。そして、その内に、本当に親密な関係になってみせる。
やってみるしかないんだ。これは長年の恋が実るチャンスなんだからと、私は気を引き締めた。
こうして、密かな野望を胸に抱いた私は、イチャイチャ対決に真剣に臨むことになったんだ。