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第三章②

Ⅳ.


 その日は、ロンドンにしては珍しく蒸した日となった。

 死体をバグショ―に任せ、シスター・ナンシーと別れたレイヴンは大路を下っていた。

 彼の脇には二人の警察官がいる。

 巡査部長のダニエルと、その相棒のジャクリーンだ。

 警察帽と詰め襟の制服を真面目に着込んだ二人の鼻の下は薄らと汗ばんでいる。


「少し、離れて歩きませんか?」


 もう耐えきれない、といった調子でレイヴンが言った。

 進む歩みに澱みはない。しかし目を合わせようともしなかった。


「断る」


 返事はすげなかった。

 警察という目立つ職業の二人に挟まれている所為か。

 レイヴンの今時珍しい長髪の所為か。

 彼らは街行く人々の視線を一心に浴びている。

 最初は興味本位で覗いていた通行人も、近づいてきた三人の顔を見て目を丸くした。

 今では好奇だけではなく、熱烈な視線の方が多い。

 

「すまないな。警部から目を離すなという命を受けているんだ」

 

 ジャクリーンが慌ててフォローに回ったが、探偵と巡査部長の間にはギスギスとした、棘のような柵が築かれている。ちょっとやそっとでは壊せそうもない。


「これは一体、何の罰でしょう」

「聞くな。そしてお前は巻き込まれた俺たちに謝れ」

「レイヴン殿に謝られる心当たりが無いのだが」


 一人、笑顔で子供たちに手を振り返していたジャクリーンが首を傾げた。

 市民に慕われるジャクリーンにとっては、自らに憧れの眼差しはくすぐったいだけで忌避すべきものではない。


「彼女に色目を使ったと知れたら、保護者ジェイコブが怖いですからね」

「皆も、それはよく知っている。この辺りでジャクリーンに手を出す馬鹿は一人もいない」


 ダニエルの答えは淡々としたものだった。

 変わらぬ表情は、感情をあえて隠しているようにも見えた。


「……近くに一人いるのでは? そんな馬鹿が」

「あぁ、そうだな。その通りだ」


 ダニエルは真っ直ぐに答えた。

 ジャクリーンを見守る眩しそうな眼差しから、レイヴンは視線を外す。

 まさか答えが来るとは思ってもいなかった。

 ほろ苦い表情のまま、二人を供につけたバグショーの遠回しの嫌がらせに、レイヴンは腹を立てた。


「二人とも。向こうに無人の馬車があるそうだ」


 停滞しそうな恋煩いの空気を打破したのは、子供と話をしていたジャクリーンだった。


「それは素晴らしい。行ってみましょう」

「すばらしい? どういう事だ、ダニエル」

「気にするな。行ってみようぜ」


 これ幸いと早足になる探偵。

 勝ち誇った顔の相棒。

 この短時間に何があったのだろうと、ジャクリーンは再び首を傾げるのであった。



Ⅴ.


 遠くから見えた巨大なアルファベットのGは、近づいて見れば四等以下の二輪馬車カッコーであった。

 しかしその一頭立ての二車輪は二列に並んだ乗り合い椅子は勿論のこと。御者台や馬具、屋根代わりの幌に至るまで全てがペンキで黒に塗り潰されており、燦燦とした太陽の下で見ると一層その異質さが際立っていた。

 疲れ切った黒馬を哀れに思ったのか、道の脇には水の入った飼葉桶が置かれている。

 悲哀を宿した黒の瞳が、来訪者を射抜いた。

 

「うぅ、良い馬だ。乗ってみたい」

「御者席側に爪で引っ掻いたような傷がついている」


 馬の毛並みを確かめながらジャクリーンが唸った。

 ジャクリーンの傍らでは、車輪や車体を確かめていたダニエルが膝についた泥を落としていた。


「御者は落ちかけながらも、右手でこの縁を掴んだのだろう」

「乾いた靴跡もついているな。しがみついていた御者を蹴落としたのは同乗者か」

「このような上等な馬に、如何わしい荷台を繋いでいるのだ。大方、密輸商から流れてきた品だろう。問題は、現在もそういった用途で使われているか否か」

「あの死んでいた男は随分と金のかかった身なりをしていた。お忍びの来客を運んでいたとも限らん」

「一度、死体から離れて考えよう。……それにしても、小さな靴跡だな」


 レイヴンは後ろ手に組んで馬車の周囲を一周していたが、御者の座る右側や後ろの乗り合い椅子を念入りに調べ始めた。

 小さな馬車の中で品の良い男性が四つん這いになり、あちらこちらに動き回る姿を二人は呆気にとられたように見守った。

 暫くして、金具の音と共に乗り合い椅子が動いた。

 客の膝裏に当たる部分の木板が外れ、ぽっかりと横向きの棚のような口を晒している。


「何だ、これは?」

「何かを隠していたのでしょう」


 底板や天板を触っていた探偵がゆっくりと身体を引き抜く。


「または誰かを」


 広げた指についた粘着質な何か。

 くっつけた指の腹同士からベトリと音がする。

 鼻を近づけてみれば、麝香と糖蜜が混ざったような匂いがする。

 突然、べろりと指先を舐めたレイヴンに、ダニエルはぎょっとしたように目を向いた。


「ふむ」

「お、おい。大丈夫か。毒だったらどうするんだ」

「毒や薬ならば味で分かります。これは」


 味で分かる。

 それはそれで問題では、と言いたい声をダニエルは我慢した。

 探偵が口を開いたからだ。


「これは、何でしょう?」

「勿体ぶって、それか!」


 ダニエルは、ガクリと肩を落とした。


「どうした。二人とも」


 声が聞こえたのか。馬車の周りで話を聞いていたジャクリーンが顔をのぞかせる。


「菓子に近い。僅かに喉に刺激。匂いは廃棄糖に近い、青臭い部分もありますね。だが薄い。はて、どこかで知っている味なのですが……」

「レイヴン殿にも分からぬことがあるのだな」

「私は、全知全能の化身ではありません」


 探偵の殊勝な物言いに、後ろから覗き込んで来たジャクリーンが「ほう」と珍しそうに眼を瞬かせた。


「そうだ、ダニエル。彼に聞いてみてはどうだろう。前に紹介すると言っていたじゃないか。今は、この辺りに朝から店を出していると聞いたぞ。現場も近いし、彼なら何か知っているんじゃないか?」

「何のことだ?」


 わざとらしく視線を逸らしたダニエル。

 聞いてほしくない事があるのだと、レイヴンは内心うっそりと笑った。


「それは、私も興味がありますね。朝に店を出す者は少ない。逆に言えば、総じて早朝に起こった情報はそこに集まりやすい」


 レイヴンの援護を受け、ほらみろとジャクリーンは胸をはった。


「お前が使っている、怪しい情報屋の事だ。朝から見世物小屋を出す、珍しい者だと言っていたじゃないか」


 レイヴンは持前の洞察力を発揮した。

 即ち、ジャクリーンを援護をしてしまった事を後悔した。



Ⅵ.



「さ~ぁさぁ! この場においでの紳士淑女お坊ちゃんにお嬢さんがた!」


 シルクハットに黒い外套。赤いチョッキに顔を隠す仮面。

 見るからにいかがわしい恰好も、場所がいかがわしい裏通りならば正装である。

 ヒラヒラと舞う赤と白の紙吹雪の中、ジャクリーンはポカンと口を開けていた。


「この不肖にして不詳、ミスター・グッドフェローが皆々様を! 不承不承、素敵な世界の入り口にお連れ致しますよ!」

 

 ジャーンと銅鑼の音が響き、不承なんかい! という小さなツッコミがあがる。

 物見遊山の見物客がどっと笑った。

 その観客の中に異彩を放つ男が居た。

 薄汚れた壁に背をつけ、じっと騒がしい見世物を仏頂面で見ている。

 グッドフェローと名乗っていた男は観客から視線を外し、ひと際大きな声で背後に設置された紅白のテントを指した。


「お忘れなきよう。不思議の国へのお代は早朝料金2ペンス。ポケットの中をひっくり返してご覧なさい。鳩の餌代だって2ペンス! それではミスター・グッドフェローは一足先にお暇します。またお会いしましょう!」


 するりとトカゲのように男は観客にマントを向ける。

 その背をおいかけるように、仏頂面の男が壁から背を浮かせた。


「ダニエルさーん。来る時は言ってもらわないと。貴方、笑わないからお客さん引いちゃうんですよぉ」

「仕事だ、団長リングリーダー

「まいどあり。馬車の件ですか?」


 檻や木材が積まれたテントの裏に到着するなり、仮面をかぶった男が猫撫で声を出した。

 背後には黒い外套の男が立っている。ダニエルの黒く太い眉は鋼のように動かない。

 その背後には若い女性と紳士が立っていた。

 下町用の服装へと着替えたレイヴンと、ジャクリーンだ。

 冷静に見える。表面上は。あれは呆気に取られているだけだな、とダニエルは正確に判断し、話を続けた。


「紹介する。俺の情報屋だ。下世話だが仕事はできる」

「それは酷い言い草ですぞダニエル氏」

 

 ダニエルが酷い物言いならば、男は芝居がかった物言いと言えるだろう。


「ミスター・グッドフェローはロンドンを安心安全な娯楽の街にしようと、日々、たゆまず告げ口悪口で警察に貢献しておりますのに……うわっ、目つき悪ッ」


 ダニエルに睨まれ、グッドフェローは仮面の裏で押し黙った。


「見ての通りのお喋り野郎だが、気味悪いぐらい情報は正確だ」

「証拠は?」

 

 ようやく冷静さを取り戻したのか。歩行杖に手を当てたレイヴンが目を眇める。

 ダニエルが苦々しい顔でグッドフェローを見た。うさん臭さの塊のような男だ。

  

「この界隈に、長く生きている」

「それだけですよ。そんなことが、証拠になるんでございましょうかねぇ?」


 恨みを買いやすく、人の命が軽い場所で、その立ち位置を維持するのは尋常ではない。

 それができるだけの実力があるのだと、ダニエルは暗に言ってみせる。

 しかし当のグッドフェローは茶化す様に笑っていた。

 理由はどうあれ、それが本人の「外面キャラ」であるのなら、黙って付き合うしかない。

 レイヴンは相手のふざけた物言いを、気にしないようにと心に誓った。


「聞きたいのは、向こうの通りに放置されていた黒塗りの馬車の件です」

「おやおや、お眼鏡に叶ったご様子。ありがとうございます。はいはい、向こうの馬車ですね。金髪の旦那様。報酬次第では、このミスター・グッドフェロー、いっくらでもお喋りいたしますよ! 報酬無くても喋りますけど」

「この男、喋るの止めたら死ぬのではないだろうか?」


 今まで黙って成り行きを見守っていたジャクリーンが呟いた。

 揉み手をしているグッドフェローに、レイヴンは向き直る。


「場所の中から、糖蜜と麝香に似た匂いがしました。何か情報はありませんか」

「ん~?」

「洗いざらい、全て吐け」

「近いっ、近いですよ!」


 念を押すようにダニエルが距離を詰めれば、グッドフェローは砂音をたてて後ずさった。

 

「そう、いきなり仰られてもねぇ」

「やはり、無いのか。あの馬車の情報は」

「いえ、逆ですよう」


 落ち込んだジャクリーンの言葉を長年情報屋を勤める男は即座に否定した。


「たとえば廃糖蜜モラセス精製糖蜜シロップは使われ方が異なりますし、『麝香ムスク』と『麝香ムスクのような』香りはまったくの別物です。もう少し絞って頂かないと」

「これです」


 レイヴンが指先を差し出すと、グッドフェローは猫のように仮面を近づけた。


「おやっ、これは懐か……珍しい」

「心当たりがあるのですね」

「初回サービスはここまでー!」


 癪に障る男だと、レイヴンの笑みに亀裂が入る。


「では、別の質問です。御者の他に、あの馬車には誰かが乗っていましたね?」

「ボロボロの服を着た子供を二人見た、という話は聞きましたねぇ」

「その子たちが御者を馬車から突き落とした。違いますか」

「駄目です」


 今までの芝居がかった調子とは異なった声で、グッドフェローは探偵を制した。


「それに私が答えてしまうのは、規則マナー違反です。貴方は探偵。お二人は警察。真相へと至る人材が揃っているのに、私が答えてしまうのは無粋ネタバレってモンでしょう?」

「無粋って、お前な! 人が一人、死んでるんだぞ」


 ついに我慢ができなくなったダニエルがつめよると、グッドフェローは両手を腰に当てた。


「ですから! 犯罪者を捕まえる協力はします。けど、被害者は守ってあげたくなるのが、東の下町人情ってもんです」


 レイヴンは口を噤んだ。

 子供が二人。御者の爪痕。馬車についた小柄な足跡。グッドフェローの反応。

 御者を殺害した誰かもまた、被害者である可能性に、レイヴンが気がつかなかった訳ではない。

 レイヴンが欲しかったのは確証だ。

 殺人を犯す異常者こどものことをレイヴンはよく知っている。そう言った者は大抵、矯正がきかなかった。その驚くべき残酷さのまま、無邪気な顔で命を奪う。

 今回はそうではないと、目前の男は言っているのだ。


「とーにーかーくー。私が言えるのはですね、胡瓜という野菜はご存じですか? 貴族の間で流行している植物なんですが、それと一緒に果物を品種改良するのが流行しておりまして。噂によると麝香のような香りがするメロ……」

「めろ?」


 グッドフェローが不自然に言葉を切った。


「おい?」


 返事がない。微動だにせず、固まっている。

 仮面をつけた顔が、三人の背後。ある一点を見つめていた。

 幽霊でも見たかのような尋常ならざる反応に、三人は一斉に視線の先へと振り向く。


「チュ?」


 ネズミが二匹、のんびりランチタイムをとっていた。

 ドブネズミにしては小柄な方だろう。

 人間たちに睨まれてびっくりしたのか。

 手にしていた謎の欠片を取り落し、路地裏の奥へと走って逃げていく。


「何だ。ネズミか」


 ほっとした様子でダニエルが言った。ネズミは確かに見ていて気分の良くなる獣ではないが、病気さえ無ければそれほど恐ろしい存在ではない。


「グッドフェロー。話の続きを」


 そこには誰も居なかった。


「あいつどこ行った?」


 いくら探しても見つからなかった。

 テントの裏には最初から誰も居なかったかのように、ミスター・グッドフェローは姿を消していた。

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