第三章①
Ⅰ.
芝が青々と伸びている。
十字を囲う円。石碑に刻まれた詩。
新旧入り混じる墓石の根元で、朝露を吸った苔が艶やかに膨らんでいる。
陽光とヒヨドリの声に混じる歓声に、部屋の主はゆっくりと寝台から身体を起こした。
窓辺では薄レースのカーテンが美しいドレープを描き、雲のように窓縁を彩っている。
「外が賑やかになりましたね」
「そうですね」
視線は手元に向かったまま。まるで興味がないと分かる空の相づち。
声をかけた側であるウィルソン牧師は小さく苦笑し、両手を清潔なシーツの上に乗せた。
「リチャード君に、会ってはいきませんか?」
慣れた手つきで巻かれていた聴診器のチューブが、止まった。
「牧師様、心音に異常はみられません。しかし、しばらくは安静にしておいた方が良いでしょう。薬は前にお出ししたのと同じものを」
「ジェイコブ君」
忙しさを装った手が再び動き始める。鞄の中に聴診器を仕舞っても、わざとらしく続けられる忙しさ。
伏せ目の相手をたしなめるように、柔和な声が名を呼んだ。
ウィルソン牧師はベッド脇の棚に手を伸ばした。折り畳まれた銀縁の眼鏡を取り上げ、顔の上にちょこんと乗せる。
「君は相変わらず話を逸らすのが下手ですね」
「申し訳ありません」
今度こそ、医者は手を止めた。
アイロンのきいたズボンの上に拳を乗せ、シーツに寄ったひだを眺めている。
「謝る事ではありません。君は優しく賢い。人よりも深く物事を考える事ができる。それはかけがえのない美点です」
「……まだ、弟に会う決心がつかないのです」
「そうですか」
牧師の言葉に咎める色はない。
組まれた指が少しだけ、寂しそうに動いた。
「ジェイコブ君、窓を開けてはくれませんか?」
「分かりました」
しぶしぶ腰を浮かせると、ジェイコブは小さな窓を押し開いた。
薄いカーテンが揺れる。
朝の風が室内に迷い込んでは頬を撫で、通りすがりに刈ったばかりの青草の匂いを残していった。
「あれは」
外の木陰の下では黒髪の女性が微笑んでいた。
健康的なオリーブ色の艶やかな肌。ビスカヤにある山脈を思わせる美しい横顔。朝露に濡れた薔薇の唇。
何かおかしなことでもあったのか、口元に手を当てクスクスと笑っている。
柔らかくも優しい過去の残影が、目の前の光景と重なった。
エルメダ。
呟きかけた女性の名を、ジェイコブは口を引き結ぶことで耐えた。
名残惜しむ視線を振り切るように移動させる。
女性の隣では男が微笑んでいた。
日に焼けた肌。健康的で豊かな黒髪と太い眉。白い物が混じり始めた口髭。
眩いほど白いシャツを捲り、太い二の腕を晒している。
既に老年に達する年齢にも関わらず、往年の甘い面影を残している。
ネリーも一緒か、とジェイコブは目を細めた。
黒豹のようにしなやか体型と聖母のように穏やかな笑みを同居させ、剪定用の鋏を手にしている。
ジェイコブは窓の外に郷愁の風を感じた。
彼らの足元には麦袋が転がり、二人はそれを見て笑っているようだ。
おや、草むしりに鋏は必要だったか。
はて、もみ殻を撒くのは、今時分であっただろうか。
ジェイコブは目前に広がる平和で穏やかな光景にどことなく違和感を感じた。
Ⅱ.
「どうか、しましたか?」
「いえ、大したことでは……!?」
ウィルソン牧師に声をかけられたジェイコブは勢いよく顔をあげた。
僅かな違和感に集中するあまり、近づいて来る足音に気がつかなかったのだ。
バンッと勢いよく扉が開く。
「おはよーございます、ウィルソン牧師! ジェイコブせんせー来てますかー!?」
「死ね」
ひぇっと、ウィルソン牧師の怯えた声で我に返っても遅かった。
ノック無しに開いた扉に向かって、ジェイコブは鞄に入っていたペンチを投げつけていた。
しかし紅茶色の頭蓋に向かって放たれたノーモーションのサイドスローは、前へ飛び出してきた女性によって阻まれる。
「おはようございます、ジェイコブ先生。斬新な朝の挨拶ですね」
「ももも、申し訳ない、シスター! 怪我はないか?」
ペンチの開口部を器用に掴んだシスター・ナンシーが何事もなかったかのように立ち上がった。
片手にペンチ、片手に引きずり倒した茶髪の頭をバスケットボールのように抱えている。
「び、びっくりした~」
「オ、オレも……」
「ペンチだ」
「ペンチねぇ」
「内科医がペンチで何をするんだろう」
「分からないわ。カバンから出てきた理由も、聞かない方がいいと思ってる」
「いったい、何の騒ぎなんだ。この子供たちは?」
「先生。この子を診てください」
「診ると言っても、それに私は内科医だぞ。外科の処置はあまり……」
ナンシーの背には少女が背負われていた。一方、頭蓋骨を解放され、ぺたんと腰を抜かした青年の背には少年が背負われている。
どういう状況だと老齢の患者と医者は揃って混乱したが、表情を真剣なものへと変化させた。
少年はともかく、背負われた少女に異常が起きているのは明らかであったからだ。
一直線に向かってきたペンチを間近で見た筈なのに、口を開け涎を垂らしたまま、虚ろな眼差しを向けている。泥や蜜でぐしゃぐしゃに汚れたチュニックから、だらりと垂れ下がる手。首に巻き付くようにつけられた青と黒の痣は更に歪んでいた。
「先生?」
ジェイコブは少女の頬に手を添えた。
無くした表情はそのまま。医者は指を鳴らし、部屋の注目を自らに集める。
「この状態はいつから?」
「朝方、気がついたらこうなってたわ。オレと会った時には弱ってたけど、まだ会話ができたの」
「牧師様、部屋を一室借りるが宜しいか」
「もちろん。ナンシー、すまないが先生を手伝ってくれますか?」
「いや、シスターには別の用事を頼みたい。そこのバカはちょっと走って湯を沸かしてこい」
「お任せ!」
ナンシーは背負っていた少女を仕事モードへと入ったジェイコブへ渡した。
片手で担がれても、少女は反応らしい反応を見せない。
だらりと手足が垂れる。関節が外れているのか、妙に長い。
微かに聞こえる鼓動が無ければ、死んでいると勘違いされてもおかしくなかった。
「オレは大丈夫だから、降ろして頂戴」
もう一人、背負われた側の少年が青年の肩をぺしぺしと叩く。
ゆっくりと下ろされた少年の額には、血が滲んだ跡がある。
まだ立つほど回復していないのか、顔を袖口で擦ると、少年はよろよろと部屋の隅に座り込んだ。
「おい、リチャード」
「何? あっ、えーと」
走り出そうとした青年をジェイコブが呼び止めた。
気まずそうに振り向いた顔はジェイコブの胸元ばかりを見ていて、視線を合わせようとはしない。
「この種類の怪我は見慣れているか?」
ジェイコブの青い瞳は真っ直ぐにリチャードを見ている。
「彼女に何が起こったのか。察しがついているんじゃないか?」
「……はい、たぶん」
「正視、できるか?」
喉にヒュッと滑り込んだ空気を、リチャードはそのまま吐き出した。
「はい」
「湯を沸かし終えたら、ミス・アッシャーに声をかけ、二人で私を手伝え」
「え?」
「二度は言わん」
「はい! エルメダさん呼んできます!」
『どうしよう。凄く嬉しい……』
「ショウは引っ込め。女性に恥をかかせる訳にはいかない」
『へい!』
ジェイコブは壁際に座り込んだ少年を一瞥した。
故に、部屋を出ていく晴れやかな青年の表情を見る事はない。
Ⅲ.
「少年」
蒼褪めた顔のまま、驚いたように少年が顔をあげた。
「アタシのことかしら?」
「そうだ。君、傷の具合は大丈夫か」
「アタシはかすり傷よ。それより、その子をお願い。助けてあげて」
少年の傷が少女を助ける為に負ったものなのか、ジェイコブには分からない。
しかし少女を先に診ねば許さぬという怒りにも似た気迫を感じ、ジェイコブは少年から視線を外す。
「シスター。すまないが、そこの少年の血止めを頼む」
「ショウの振りをしていたリチャード君、よく分かりましたね」
こそりと耳打ちをされ、ジェイコブが頬を染めたのは一瞬の事。医者は静かに笑った。
「貴女が庇うなら弟だ。では失礼」
ナンシーは軽く肩を竦めた。
確かにジェイコブは、リチャードが常時複数の人格を切り替えている事を知っている。
しかし人格の切り替えは外から見て明確に分かるわけではない。
「今、この瞬間の彼は誰なのか」を見分けるのはナンシーでも至難の技だ。
それを一言で見抜いた辺り、ジェイコブも彼女にとって「頭のおかしい人」である。
「外の袋は、死んでいないのなら最後に診よう」
そう言い残して足早に部屋から出て行くジェイコブを見送り、最初に口を開いたのはウィルソン牧師であった。
「ジェイコブ君は」
「はい」
「女性が絡まなければ非常に優秀なんですよ」
「はい」
「本当に」
「存じ上げております」
念を押す牧師の言葉の中にどことなく残念そうな響きが含まれていると、付き合いの長いナンシーは感じていた。
「あら。あの二人、兄弟だったの? 似てないわねぇ。まぁ気難しいイケメンと優柔不断な坊ちゃんじゃあ、性格が合わないのも仕方ないけど」
神に仕える信徒二人は部屋の隅で声をあげた少年を見た。
「二人とも訳ありみたいだし、何も聞かなかったことにしてあげる。よその家族問題に首を突っ込むと碌な事にならないもの」
彼は降参するように両手をあげ、その手を壁につきながら立ち上がった。
「どこへ?」
「出ていくの。オレが此処にいたらアナタたちに迷惑がかかるわ。教会の人間が傷つけられるところなんて、見たくないもの」
「うぐっ」
「どうしましたかっ、ナンシー!」
ナンシーは胸を抑えて、嗚咽のような声を吐き出した。
真顔のままなのは不気味であったが。
「キュンときました」
「そ、そうですか」
ベッドの上の牧師は優しい眼差しでシスターからの報告を受け取ると頷いた。
「逃げるのは、手当てが終わった後でも良いのではありませんか」
「いいえ。あの子がまだ近くにいるって、あいつらにバレたらマズイわ」
「だから、先程の子が回復するまでの時間稼ぎに貴方が囮になる、と」
「そうよ。文句あるかしら?」
台詞を途中で奪われ、大股で近づいてきたナンシーに少年は警戒を露わにする。
しかし伸びてきた手は、よしよしと少年の頭を撫でた。
「リチャード君が貴方たち二人を抱えて教会に来た時には驚きましたが、納得しました」
「な、わ、なっ!? ちょっと止めなさいよ。オレ、成人しているんだから、子ども扱いは」
フードを外され露わになった癖毛の茶髪。堪能するように撫でまわすと決意したようにナンシーは立ち上がった。
「神は、きっとお二人を守って下さいます。なのでむしろアイツラとやらを全員教会の中に引きずりこんでしまえば早めに事の始末が終わるかと」
「ナンシー、暴力はいけませんよ。ナンシー!」
「ねぇ、今、シスターの口にあるまじき単語が聞こえた気がするんだけど、聞き間違いよね」
「牧師様、私、外のお二方とお話して参ります」
「ま、待ちなさい。待ちなさい、ナンシー!!」
その背に向かって病床の牧師が慌てた様子で呼びかける。
呆けた少年には、何故牧師が血相を変えてまで彼女を引きとめようとするのか理解できなかった。
見た目に反して、やんちゃで、気の強いシスターだなぁと思っていただけだ。
この時点までは。
「彼の手当てが先です! せめてペンチ、ペンチは置いていきなさい!」