第二章②
Ⅱ.
『ごめーん!!』
「いつものことだし、もう、慣れたよ」
過ぎた事をとやかく言っても仕方がないと僕らは笑った。
彼……ショウ君が突発的に起こす乱心の事を、僕らは「発作」と呼んでいる。
彼曰く「不治の病」らしく治す気も無いらしい。
僕たちも、治せる気がしない。
『どこに行ったか分かる?』
「何とか」
少年が走って逃げたおかげか、道に溜まった泥水には小さな泡が出来ていた。
密集した建物の陰は水はけが悪く、あちこちに水が溜まっている。
そこを強い力で踏めば、水で濡れた足跡や泡が僅かに残った。
「きちんと追って行けば問題なく追いつけるよ」
大股で歩いていると、どこか感心したような視線を感じた。
『英国紳士は走らないって、本当なんだね』
「ズボンが汚れるのは嫌だから。走らないだなんて誰から聞いたの?」
笑って一言「スティングの歌詞」と返ってきた。
有名な楽曲なのだろうか。
それはちょっと、嬉しい。
「さっきの子の事、知っているの?」
『あー、それなりに』
どうにも歯切れの悪い返事だ。
止めればいいのに、つい思った事を口に出してしまう。
「もしかして、僕の被害者だった?」
『……正確にはトマスの被害者だけど』
『ひひひ』
嬉しそうに笑ったのはトマスだ。
僕は質問してしまったことを後悔した。よくよく考えてみれば、分かる事だ。
未来の僕は相手になぞなぞをかけて、返答問わず殺すような異常者だったらしい。
ショウ君がなぞなぞを口にしたなら、それは僕の関係者だ。
なぞなぞを仕掛けられた人たちがどうなったのか。見ていなくても容易に想像できた。
昔、父がやっていたから。僕は間近でそれを見ている。
このまま、追いかけても良いのだろうか。
みんなは大丈夫だと言うけれど、僕は自分のことが信用できなかった。殺人という凶行に走るきっかけが近くにあるのなら、避けた方が賢い選択と言えるのでは無いだろうか。
殺人者がその気になれば、僕はすぐに「表」から追い出されてしまう。トマスがそれをしないのは、ショウ君と関わりたくないからだ。彼はトマスから主導権を奪い返す事ができる。
少年のことを警察に伝えて、あとは任せた方がいい。そう決めて足を止めた。
人のざわめきが向こうから聞こえる。大通りに続く道へと出たのだ。
『あれ、足跡、大通りに向かってないね?』
不思議そうにショウ君が言った。
小さな靴跡と水泡は手前を曲がり、横の細道へと続いている。
これでは、もっと人気の無い区画に入り込んでしまう。
「どうしてこっちに行ったんだろう。てっきり人通りの多い方へ逃げているんだと思ったんだけど」
『助けを呼べない理由があるとか。もしくは大通りに会いたくない誰かが居たとか』
ぞっとした。
状況から言って彼が逃げる相手は限られている。
「実はさっきの死体になっていたあの人、馬車から突き落とされて亡くなったんだ。傷の具合からみて、多分そうだと思う」
『盛り上がって参りました!』
「盛り上がらなくていいからね? 落ち着こうね」
『Keep Calm and Carry On。オーケーオーケー』
「続けないで!」
慌てて釘を刺しておく。
「もしかしたら、彼は犯人の顔を見たのかもしれない」
『それが大通りにいたのかな? 小さな目撃者? だとしたら早く見つけて、ナンシーかレイヴンの所に逃げ込もう。二人なら何とかしてくれるし』
「急ごう」
我ながら他人に頼りきった策だと思うけど、僕は安全重視派なのだ。
Ⅲ.
『ところでリチャード、君さ』
「ん?」
嬉しそうにショウ君が言う。
彼はいつだって嬉しそうだけど、静かな声のまま嬉しそう、というのは珍しかった。
『随分と探偵らしくなったよ。実際、向いていると思う』
「ありがとう?」
お世辞じゃないよと聞こえる声を無視する。
「探偵はレイヴンさん一人で十分だよ。僕はせいぜい探偵助手どまりだ」
実は、嬉しかった。自分でも、他人を助けられる可能性があると言われたような気がした。
再び歩き出す。
今度は鼻歌を歌いながら。
『リチャード。ご機嫌なところ悪いんだけど、鼻歌交じりに人気の無い道を歩いて誰かを追いかけるのって言葉を濁すけど完全にアレだからね?』
「相手は怖がる?」
『そりゃあもう』
「止めた方がいい?」
『止めよう』
前に「独り言が激し過ぎる」と注意され、自室にあった腹話術人形を抱えて生活した事を思い出す。
『凄く似合っているけど、むしろ似合い過ぎてて戦慄しているけれど、それは、別の殺人鬼と方向性かぶりそうなのでちょっとバツ』
良い案だと思ったのだが、他の人から諦める様に説得された。
僕が自発的に考えた解決策は、大抵良い方向に転がらない。
「やっぱり、普通に生きていくのは難しいな」
『できるできる』
「本気で言ってるんだからね?」
『それより、まだ姿が見えないね』
「足音は聞こえてるんだけどな」
あれは膝の骨が変形した時の走り方だ。
小さい頃から長時間、手足を拘束されて歪んでしまったのだろう。
「スウォドリングって知ってる? 赤ちゃんをぐるぐる巻きにして育てるんだけど、さっきの子はかなりの歳までされていたのか、膝から下の骨が曲がっていたんだよ。お陰で特徴的な足音がしてる」
『虐待されてるのかな』
「どうだろうね。善かれと思ってやっている親も多いから。ただ顔色から思うに栄養状態は良くない生活だと思う。聞こえる足音からして、かなり息があがっているようだし」
『……リチャード』
「うん」
『足音聞こえるんだ?』
「うん。聞こえない?」
『時々、君に無限の可能性を感じてしまう。例えばそう。スパイ物やアクションバトル物の素質を』
「あはは、今日はやけに大げさだなぁ」
建物で狭い空を見上げた。炊事の煙が遠くに幾筋も見える。
この辺りは静かで薄暗かった。壊れた看板や煉瓦が辺りに散らばっている。
人の喧騒も遠い。涼しくて、落ち着く場所だ。
薄らと辺りに漂っているのは糖蜜の匂いと煤の匂い。
何かのスパイスだろうか。あと麝香の匂いがする。
汚泥に浮かんだ気泡は大きかった。