第二章①
Ⅰ.
僕が生まれる、およそ五十年以上前の事。
『ミステリアス・トリニティ』という一冊の推理小説がアメリカで発売された。
1955年。ちょうどハードボイルドやミステリー界が賑わいを見せ始めた頃だ。
舞台が十九世紀のロンドンなのも良かった。
アメリカでもイギリス懐古の情が強くなってきた頃だったし、白黒映画や演劇のおかげで切り裂きジャック、ジキルとハイド、シャーロック・ホームズといえば、誰でも大まかな時代背景をイメージすることが出来た。
何より、平和だった。
殺人が娯楽として消費できるくらいには、みんなに、心の余裕ができはじめていた。
十九世紀のイギリスは、まだ産業革命や戦争の匂いが強い。
猟奇と狂気と幻想と純粋さの混じり合う、怪しい化学が信じられていた大英帝国。
それは近くて遠い、現実と想像の中間地点。
はっきりと「今の自分には関係ない」と安心して物語を楽しめる舞台。
そこで起こる不可解な殺人事件。魅力的な主人公。
例にもれず「ミステリアス・トリニティ」も人気小説としてアメリカ文学史に名を残し、探偵のレイヴンとシスター・ナンシーは世界中に翻訳されて広がっていった。
謎に満ちた作者と、発表されなかった最終巻を残して。
作者であるトム・ヘッケルトンが誰であったのか。
その謎は未だに明かされていない。
正体不明。
その方がいいと、僕も思っている。
レイヴンとナンシー。二人が主役の本は何作か出ている。
俗に言う「ミステリアス・トリニティシリーズ」というやつだ。
別名「登場人物がえげつなく死んでいくやつ」。
その名に恥じぬレベルで、いずれも陰惨、凄惨な終わり方をしている。
ハッピーエンディングはあり得ない。
人は理不尽に死ぬ。
そこに理由がある時もあれば、無い時もある。
ストーリーに関係がある時も、まったくの偶然だって時もある。
他殺だろうが自殺だろうが病死だろうが事故死だろうが、味方だろうが犯人だろうが死は平等。
書いた人は何を考えていたのだろうか。
誰かに怨みでもあったのかな。
ちょっと心に闇を抱え過ぎなんじゃないかな。
そんな背景の所為か、映画を撮影し続けている監督も含め、この本を熱烈に愛好しているという人には変わり者が多い。
その変わり者の一人が僕だ。
変わり者というのは多少オーバーな物言いだったかもしれない。
単に、このミステリー小説の一ファンであり、そして、口が裂けても言えないけれど、主人公と同じくらい、いや、それ以上に『犯人推し』という重い業を背負っているだけである。
小さい頃、夜の再放送で偶然放送していたミス・トリの映画版第一作目を観てから虜になった。
そのまま原作沼にダイブし現在に至る。
そして今回は。
僕の推している犯人、略して推し犯を紹介できる時間を設けましたのでこれより『ミス・トリシリーズ内推し犯ランキング』を、夜を徹し、お手元の資料とパワーポイントを使って発表したいところではありますが、尺が無いので第一位だけ発表します以上ここまでノンブレス。
リチャード・ライン卿です。
記念すべき、ミステリアス・トリニティシリーズ第一作目の犯人、ザ・テラー。日本語版だと語り手になります。
陰鬱な物語、唯一のコメディリリーフであり癒しスポット。
この、ちょっとお茶目な探偵助手が犯人だとと誰が予想しただろうか。
いや、しないだろう。コメディやギャグは人を救わなかった。
少なくとも当時の僕は幼く、精神耐性ゼロ状態でこの衝撃を受け止め、一時的なショック状態(呆然)と人間不信(虚無)に陥った。
まぁ、その結果、色々と考察したり、拗らせたりして、一押し犯人になったわけですが。
しかし、この犯人。
なぞなぞ見立て殺人で、二重人格で、伯爵で、眼鏡を外したら実は美形でしたという盛りだくさん属性の殺人鬼にも関わらず!
人気が!
他の犯人と比べると!!
低い!!!!!!
あまつさえ「ザ・テラーって犯人の中で一番影薄いよね」と言われる始末。
薄いって、これ以上! どんな業を! 背負わせろっていうんだ!!!
キャラ属性とトラウマで飽和状態の男に、これ以上何のスパイスを追加しろというんだ闇鍋か!!!!
いや、でもね。
影が薄いという気持ちは分かる。分からなくも無いんだ。
他の犯人は復讐鬼が多いからね。
リチャード、条件に当てはまれば殺っちゃうような淡々とした部分があったからね。
他の犯人と比べたら犯行動機がサラリと義務的に書かれているだけだったからね。
それに比べて他の犯人は、がっつりと深く悲しい過去編があってキャラクター像がしっかりと掘り下げられたからね。
かつての加害者にぶつけられる怒り。
そして、やりきれない最期を迎えるシーンは僕だって涙したさ。
いいよね!
それはそれで!!
そういう犯人も好きだよ!!!
感情とストーリーのジェットコースターは大好物!!!!
けれどもしかし。リチャードのあえて掘り下げずこちらに想像の余地を残すブラックボックス犯行動機と過去によって重責に負け、人間的な弱さに負け、もはや義務的と法と殺人と遊びと自分の区別すらつかない状態でも必死に日常生活を続けようと努力し、しかもその状態が普通だと思い込もうとしてした歪みも中々に負け犬的には同調できる箇所であったのに実は違う人格が主人格を演じてましたとか言われた日にはどこまでが主人格の彼の言動だったのか分からないまま結果、最期の台詞で君は確かに存在したのかそして死が救いになったんだね良かったねと思えるリチャードという犯人像をこの時代に打ち立ててきた事に意義があると思うんです僕はとインターネッツの掲示板に書いたらたった一言「キモイ」と返された暗い過去以上ここまでノンブレス。
不人気な理由の一つとして考えられるのは、彼が子供を殺す殺人犯だから。
このご時世、子供殺しと動物殺しは許されない。
おかげでシリーズを重ねるごとに影は薄くなるし、グッズは出ないし、この前ネットで新作ドラマ見てたら事件ごとリチャードとトマスの存在消されてた。
確かに子供殺しは許されない罪だ。絶対にやってはいけない。虐待もまた、言うまでもなく重犯罪だ。現実に起こった出来事ならば、僕も烈火のごとく怒っただろう。でもね、これ、フィクションなんです。こういった社会問題を風刺として提起しているんです。現代風にアレンジするとか、手段は無かったのでしょうか、全没はあんまりだと思いませんか。泣いていいですか。涙は枯れ果てたけど。
「あの」
そんなリチャードも今や立派な三重人格者。
どうしてかって?
殺人鬼としての人格「トマス」の他に、「高畑章」という人格が居るからです。
つまり僕です。
イエス下宿、ノー寄生。
僕としては好きなミステリー世界は堪能できるし、見た事もなかった裏設定を体験できるし、ちょっと命の危機が三日に一度くらいの頻度で訪れるし、主人公組が隙あらばテメェを消してやると言わんばかりの殺意を向けて来る(ご褒美です)けど、利点欠点を差し引いても諸手を挙げて喜ぶ状況と言えるんじゃないかな? これ?
「あの」
下宿先ことリチャード側は正直かなり引き気味です。
最初は居るのか居ないのか分からないくらい希薄で愛想笑いしかしないような主人格だったのに、今ではしっかり、引いてます。
感情……豊かになったね……。
成長を見守るこの感動、一大巨編で胸に到来。
一方、殺人鬼の方の人格「トマス」はどうかと云うと。
『気持ち悪い』
ドン引きです。
これも時代のせいでしょうか。
それとも国籍や年代、文化圏が違うことによる、相互理解の溝でしょうか。
殺意しか無かった狂人格がドン引いています。
小説版や映画版では殺意とか享楽しか無かったのにね。
原典に余計な味付けをしてしまった罪悪感と、犯人部分から垣間見える人間らしさに抱く尊み。
殺人鬼の魂宿ってた人形が人工知能になって純粋ヤンデレ子供の遊び相手方面に進化していたり、未だに現役の井戸方面にお住まいの女性が人間臭い動きをマウンドでしていると、可愛いと心和むのと同じ原理なのだろう。
『……』
あっ、顔が現実寸断心虚無になった。
「あの、ショウ君」
はい、リチャード君。何でしょう。
「さっきの子、怖がって逃げちゃったんだけど、追いかけた方がいい? 僕としては早く墓掃除に行った方が良いと思」
良くねぇぇええええーーーーーーー!!!!!!!!!!
今日はリチャードが表に出る日と、固く、固く決意していたのに昂った!!
だって彼、特徴がリチャードの八番目の犠牲者だったんだもん!!!!
映画版の配役そのままの顔だったんだもん!!!
思わず原作再現するよね!? しちゃったね!!!
あの状況であのセリフ、言わずにいられようか!?
いや、いない!!!!!!
いいんだ、後悔はない!!
ちなみになぞなぞの答えは影だったんだけど、あの殺し方は影の見立て的にどうかなぁ、つめ甘いなぁって思ったんだ。ところで、リチャード。僕たち、何で彼に話を聞こうと思ったんだっけ?
「……」
あっ、極諦念思考遮断が二匹になった。