第一章②
Ⅴ.
その至極真っ当な会話は、信じられないことに「いやマジで美形来たんだけど」「しかも三人とも来たんだけど」という台詞を皮切りに始められた。
頑強な麻のシャツに、焦げ茶のベスト。普段履きのベージュ色のズボン。
彼にしては珍しい、洒落っ気の無い格好で現れた探偵は「この男性が死んだ理由は馬車に轢かれたからではありません。馬車から落ちたせいです」と言った。
「そもそも、大量に花を積んだ馬車がゆっくりと自分の上を通過していく間、人は悲鳴をあげずにいられるものなのでしょうか?」
ヴィクトリア女王の治世となってからは見る事も珍しくなった長い金髪。
レイヴン・オールドネストの時代錯誤な髪型も、長い手足と際立った優美な面立ちに不思議と調和していた。
乱雑に結んだ頭が聴衆の一人を振り返る。
視線を結んだ先、初老の男が鼻を鳴らした。
病み衰えた、痩せた猟犬のような男だった。
「深酒をして寝入っていた可能性もある」
「ご指摘を感謝します、バグショー警部」
バグショーと云う名の男は、酷く不快だという空気を隠そうともせず、薄い唇を真一文字に引き結んだ。レイヴンは微笑みを崩さなかかった。手にした鈍色の酒入れを揺らしている。
「しかし泥酔という言葉は、彼に当てはまらない。彼の持っていたスキットルにはまだ安いブランデーが半分以上残っていました。死体から酒の匂いもしない」
たぷんと重い音をたて、液体が金属の中で揺れている。
その持ち主は、今や馬車の下から助け出され、哀れな躯を晒け出してた。
泥に塗れた黒いコートは地面に溶け込むように広がり、裾からは暗い色をした燕尾服と細身のズボンが覗いている。
太陽の下では光沢のある藍にも見え、それなりの仕立ての良さが感じられた。
胸元を飾っていたであろう白いスカーフはぐっしょりと血と雨に濡れ、清潔だった頃の名残は伺えない。
「傷のついた金の釦は真鍮製。髪には油。恐れ多くもこちらの帽子の名残に見えるのは作り物の花形記章。袖に付いているのは黒い馬の毛ですね。花屋の馬は栗毛だ」
「馬丁でしょうね。似たような掌のタコを見た覚えがあります」
前掛けを垂らし、お針子のように髪を結い上げた女性が初めて口を開いた。
シスター・ナンシー。
彼女のブルーグレイの神秘的な瞳に見つめられれば、大抵の人間は閉口した。
しかしこの場に走った緊張は彼女の類稀なる美しさに恐怖したものではない。
彼女の腕組みは「怒れる母親像」を想起させた。
「折れた首と腕、顔面の擦過傷。これは走る馬車から頭から地面に叩きつけられた時に出来たものですね。その後、馬車の車輪によって胴体が切断された。これならば離れた位置に存在する、二種類の傷が説明できます。車輪に付着した血液の量が少ないのも恐らくは…」
「少し待ってくれないか、シスター」
亡者があげるような、か細く低い呻きがあちこちから聞こえた。
仕事の鬼と言われるバグショー警部でさえ、それは同じだった。
陰鬱で影のある皺は彼にとっての常であるため、酷くショックを受けた様には見えなかった。
しかし蒼褪めきって死相すら浮かびそうな野次馬達を見て、僅かに哀れみのこもった光を目に浮かべたのも事実であった。
「言葉を遮ってしまい、失礼。しかし貴女のように神に仕える女性の口から、これ以上悍ましい言葉が発せられるのは我々としても避けたい」
慇懃無礼な警部の頼み方に、シスターは口を噤んだ。
「それに汚れた言葉を吐く仕事は、そこの不信心者にこそ、お似合いだ」
長年、ふざけたやり取りを重ねてきた探偵と警部の間には、奇妙に構築された連携があった。
お互い、内心では相手の良い部分を認めている。
少なくとも、些か生々し過ぎる表現を避けるだけの良識と良心は持ち合わせていると信じていた。
聞いていられんと警部の眼は語りかけ、分かりましたと探偵の眼は了承を返す。
「……その通り。車輪についた血が少ないのは夜の内に大半の血液が雨に流されたからです。死体の青白さから見るに、体内に残った血液は少ない」
「その通り、という事は不信心者であることを遂に認めたな?」
レイヴンはバグショ―の取ってつけたような嫌味を黙殺し、話を続けた。
「この男性は既に死亡していました。そこの二人がやった事と言えば死体を馬車で踏んだだけ。もっとも、彼の御親戚に死体の有様を説明する時に『踏んだだけ』とは言えませんが」
「それで結局、この死体は一体誰なんだ? どうして馬車から落ちた」
「それを調べるのは警察の仕事。私は、ただの通りすがりです」
探偵は気取った調子で肩を竦めた。
先ほどまで我慢していた嫌味の借りを、ようやく返せたとばかりのスッキリした表情であった。
「全ての老人が早起きというのは、嘘のようですね。寝起きで頭の回っていない警部の為に、もう少し助言をさしあげましょう。遺体の袖を嗅いでご覧なさい。糖蜜、クローブ、それに麝香の、甘い香りがするでしょう。そのような変わった高級品を、匂いが付くほど惜しみなく焚ける家なんて、この辺りでは限られていますよ。そして彼が手綱を握っていた馬車。これも探しておいた方がよいのではありませんか?」
「行くぞ。捜索を始める」
職務を遂行する責務が勝ったのか。
バグショーは青筋を額に浮かべたまま、探偵に背を向けた。
ようやく死体に布がかけられる。
長く特徴的な警察帽子が蜘蛛の子を散らすように開がる中、おずおずと二人の人間が近づいてきた。
花屋の兄弟、ロブとジョーだった。
「ありがとう。あんたが来てくれたおかげで捕まらないで済んだよ」
「名前知ってるぜ。有名な探偵さんだろう? スゲーなぁ。まさか会えるとは思わなかった!」
「お二人とも、災難でしたね」
鼻先にそばかすを散らした青年が興奮したように目を輝かせている。
レイヴンはまだ少年の面影を残す青年に向かって社交辞令用の笑みを浮かべた。
「あいつが言ってた、美形が来るって言うのは本当だったんだなぁ」
「それだ」
「美形が来ると言ったのですね」
青の瞳が鋭く細められ、遠くに立っていたシスターの声も重なった。
「その、現場に最初に駆けつけたという男性なのですが、髪は茶色で、顔に眼鏡」
「つまり丸いガラスのような物をつけていませんでしたか?」
交互に続けられる、矢継ぎ早の質問に兄弟は酷く気圧された。
上流階級との付き合いの無い二人にとって、目の前の探偵とシスターは自分たちとは住む世界が違うような人間に感じられた。
しかも顔が良い。とにかく、顔が良い。
最初に会った男が「美形」と評したのも納得できる。
美術品が並んでいるのかと錯覚する程に整った容貌。
その双眸がじっと自分たちを凝視しているのだ。
呼吸を忘れるほどの恐怖がこの世には存在するのだと、この日、顔を赤や青に変化させた兄弟は思い知った。
「高そうな、分厚いガラスの事だよな。確かに顔につけてたよ」
「良かった。では、会話が成り立ちましたか?」
これまた変な質問をするなとジョーは首を傾げた。
「そりゃあ、変な奴だったけど、普通に会話は出来たさ」
「そうですか。それと……」
これからする質問に、探偵自身が戸惑っている様子だった。
「その男は死体を見て、興奮していましたか」
「はっ?」
「いや、その、何と言いますか。呪文を喋り続けるというか、話す時にエクスクラメーションマークを大量に使用するような喋り方というか……つまり、その、こう『やったぁー!!!!』みたいな喋りをする男でしたか?」
「エク、くら? なんだい、そりゃあ」
始め、兄弟は探偵が自分たちをからかっているのかと思った。
しかしそれにしては酷く深刻そうな、いや、神に願いを抱くような眼差しだ。
呆れた顔を引っ込めて、感じたままを言った。
「いや、どちらかと言えば淡々としてたよ」
「死体を見て、作風とか言ってたしな」
「そっちで良かった」
「セーフセーフ」
「何を以てセーフと評した!?」
「いえ、何でもありません。忘れて下さい」
「そうです。これからの人生、何の役にも立たない情報ですから」
探偵は、兄弟からの心配を穏やかに拒絶し、しきりに首を傾げるシスター・ナンシーへと歩み寄った。
一見すると彼女の表情に変化は見られない。
しかし観る者が見れば、彼女の纏う雰囲気は燃えるような怒りから静かな困惑へと変化していた。
「十中八九、来たのは『リチャードの方』ですね」
レイヴンは耳打ちした。
「心配です。雨夜に黒いコートと黒い馬。恐らく馬車も黒いのでしょうね。そのような組み合わせを使うのは目立ちたくないお忍びの人か、やましい事をしている人だけ。何かに巻き込まれていないと良いのですが」
ナンシーもまた、小声で答える。
彼女の口から心配という言葉が飛び出したことに、レイヴンは少なからず動揺を隠せなかった。
「他者の心配」などという細やかな配慮を彼女が見せるのは、育ての親であるウィルソン牧師にだけだ。
レイヴンは何か暖かい物が胸に宿るのを感じた。
「死んだ人は、一体誰を乗せていたのでしょう」
「それを知ってしまえば、我々は事件に深入りし過ぎる事になります。ところでシスターは何故、こちらへ? 牧師様の体調は大丈夫なのですか?」
「いつまで経ってもリチャード君が来ないので、様子を見てきて欲しいと牧師様に懇願されました」
言葉正しく「懇願された」のだろうとレイヴンは内心で苦笑した。
あの心優しい牧師に上手く追い払われたのか。
探偵の内心は顔に出ていたようで、シスターの口元が不機嫌そうに曲がる。
「そんな貴方こそ、何故こんな所にいるのですか。いまは朝ですよ?」
シスターからの僅かな皮肉に、今度は探偵が口を曲げる番だった。
「街で使っている情報屋が呼びに来ました。うちの助手が厄介事に首を突っ込みそうだと」
「大変ですね」
本当に、と同意しそうになる声をレイヴンは慌てて飲み込んだ。
「そういえば、アンタ達。ガラスの兄さんを探しているんだったよな?」
会話をする二人にロブが声をかけた。
「誰かと約束があるからって急いで向こうの方に歩いていったぜ」
「あちらは」
「教会への近道ですね」
ナンシーの表情は変わらない。
歩いて行ったという方向を確認してから、静かに目を伏せた。
「急いでましたか、そうですか」
否、少しだけ嬉しそうに笑った。