第四章②
Ⅱ.
「それは大変だったね」
影の話を聞き終え、男が頷いた。どこか浮世離れした詩人のような風貌の青年だ。
草刈りに来た一人なのか。慣れぬ農夫のような恰好をしているのが滑稽にも見える。
彼は窓辺に座っていた。
慣れた手つきで影に包帯を巻きつけたシスターは部屋から出て行った。
それと同じ頃、庭から聞こえていた悲鳴も聞こえなくなった。
疲れた顔の牧師が窓を閉め、眠りにつくのを影は止めなかった。
あまりの無防備さに呆れはしたけれど。
施錠される気配を察したのか。
窓辺から黒猫が一匹、滑り込んできた。
ついでに滑り込んで来た人間は、そのまま影の話し相手に収まった。
猫は牧師の足元で丸くなっていた。
じっと見つめられる視線が不快なのか、顔をあげて大きな欠伸をひとつ。真っ赤な口と小さな牙を見せつける。
「でも、ここなら大丈夫だよ」
「さっき眼鏡の子もそう言ったけどね。大丈夫だとはとても思えないわ。相手は人を殺すことに躊躇しない相手なのよ」
薄い笑いを貼り付けた青年が首を横に振った。
その笑いの意味が分からず影は訝し気に目を細める。
「エルメダさんは豚の解体するのに三十分かからないし、ネリーさんはシパーヒー歴が長い。リチャードは感覚が鋭い」
立った指が順に折られていく。
それが凄いことなのか、影には分からない。
更に指は曲がる。
「怒ったジェイコブ先生は素直に最悪だし、シスターは普通に最強だし。何よりシスターを鍛えた人っていうのが」
「クリス」
何かを言おうとした青年の口が優しく止められた。
「おはようございます。牧師様。お加減は大丈夫ですか?」
「よくなってきましたよ。ところでクリス、手伝って頂けるのは嬉しいのですが、そろそろ公演の時間では?」
「あ、そうだ」
丸椅子からゆっくりと立ち上がり、クリスと呼ばれた青年は腰を伸ばす。目を覚ましたばかりの牧師は横たわったまま、視線だけで来訪者を見送った。
「それじゃあ、影さん。またね」
ひらりと手を振ってドアから出ていき一時間。
またね、と言った通り詩人風の青年は戻ってきた。
文字通り、風のように。
Ⅲ.
ウィルソン牧師の傍らにシーツが山をつくっている。
中身が中身だけに、うかつに触れず。影は困り果てた。
「アナタ大丈夫?」
「申し訳ない。この子はネズミが大の苦手でね。どこかで見てしまったのでしょう」
ウィルソン牧師がしみじみと呟く。
その言葉には諦めが滲んでいた。
「先日、克服させようとねずみのいる馬小屋に放り込んだのですが、よけいに悪化してしまって。可哀想に」
「ネズミなんてそこら中にいるじゃない。というか、これ、苦手という範疇を越えている気がするんだけど!? 見ている此方が恐怖を感じるレベルの怯え方なんだけど!? ようやく分かったわ。この教会、奇人変人の巣窟なのね?」
「真っ向から否定できないのが辛いところですが……はい。まったくもってその通り」
「否定する努力すら捨てた!?」
ドアをノックする音に続いて、そろりと扉が開いた。
「入る、ぞ」
「お待たせしました。お二人に良いお知らせが……なにごと!?」
まず部屋の中を見たジェイコブが静止し、続いてリチャードが悲鳴に近い声をあげた。
最後に現れ、二人の隙間から身体をねじこんできたシスター・ナンシーが眉を動かした。
「クリス? なぜ、ここに」
「この前会った時、彼も草刈りに誘ったじゃない」
「そういえば、そのようなこともあったような?」
リチャードに言われ、ナンシーは手をぽんと合わせる。
増えていく部屋の人数。
堂々と牧師の寝台に腰をかけることにした影はウィルソン牧師へ問いかけた。
「このシーツは一体誰なの?」
「クリスはナンシーの弟です。最近ではミスター・グッドフェローと名乗ってサーカス団を率いているようですが」
「へぇ、てっきり眼鏡の方の親戚だと思ったわぁ」
「おや、鋭い」
見れば確かに。シーツとシスターの間には家族の情らしきものがある。
そっとシーツを撫でてやるナンシーの横顔は聖母にも似ていた。
「クリス、可哀想に。ねずみ発作ですね。大丈夫ですか? 意識と魂、どっちを刈り取って楽になりますか?」
「え。ごめん。ナンシー、何を刈り取るって?」
「失礼いたします。リチャード様、庭に新しくゴミがやってきたのですが、如何いたしましょう」
「へっ? あ、一ヵ所に集めておいてもらえるかな? あとで燃やして林檎でも焼こうか」
「かしこまりました。楽しみでございますわね」
ドアの向こうで長い黒髪が揺れる。外で麦袋と戯れていたエルメダが部屋にやってきたのだ。
簡潔に指示を仰ぐと、恭しくお辞儀をして去って行く。
リチャードはナンシーに向き直ると、そっと腰をかがめて手を前に出した。
ラプトルを制止する時の姿勢だとショウに教えられていたからだ。
なぜ対小型肉食恐竜体勢を取ってしまったのか。リチャード自身にも分かっていない。
「ナンシー。そのシーツお化けはそっとしておいてあげて。せめてテルテル坊主状態は止めて、床に下ろしてあげて」
「しかしですね」
「暴力はよくないよ。暴力、は……」
場に残ったメンバーは混乱した会話を続けようとして、動きを止めた。
暴力という単語が、どことなく引っかかったのだ。
今しがた、かなり重要な会話を、したような?
「ゴミって、やってくるものでしたっけ」
回り始めた頭はそれぞれの答えを導き出す。
奇しくも、それは一致していた
「止まりなさい、ミス・エルメダァー!」
「ゴミって草の事だよねー!? 人じゃないよねー!?」
「はい、リチャード様」
廊下で立ち止まり、振り返ったエルメダは白いレース付きのハンカチーフを取り出した。
「ゴミも草も逆賊も等しく有機物。私共に刃を向けるなら、それ等しく、燃やせるゴミ。即ち雑草と同義で御座います。それにしても」
そのまま、ハンカチーフで目元を押さえる。
「少し見ぬ間にご自分の意見を叫べるまでに成長されたのですね。このエルメダ、感動のあまり人前で落涙する失態をお許し下さい」
「どうもありがとう!! でも人を雑草扱いしちゃ駄目だから!」
「ではハロウィン用の飾り扱いにいたしましょう。林檎や蕪の代わりに干した首などを大量に飾れば、まぁ不思議。当家のお財布に優しく伝統的文化に則ったハロウィンに早変わりでございます」
「まぁ不思議!? そこまで本気のハロウィンはやらないよ! ハロウィン中止!」
「では、正式なガイ・フォークス式処刑法をご希望でございますの? あれは準備と片付けが面倒なのですが……」
「もっとダメなの来た! ノー! 答えはノー!」
「ふむ」
冷静に呟いたジェイコブを、ナンシーは見上げた。
「リチャードの奴、確かに腹筋が鍛えられているな。これなら私の負担も軽くなりそうだ」
「そこですか」
「そこです。他に重要な話は何もしていない。そうでしょう、シスター」
現実見ようとしない医者からナンシーはそっと視線を外した。
そして、窓の外に動く黒い影を見る。
Ⅳ.
荒い足音が廊下を駆ける。
襲撃者たちは思った。想定よりも人が多いが、恐れることはないと。
教会への襲撃を請け負う者達である。餌に集まった野犬の群れ。
目先の金銭に釣られ、後先の事など考えてはいなかった。
絞首刑を恐れぬ馬鹿であり、それ以上に自らの人生が追い詰められている事態に気づいていない馬鹿である。
少女の命と引き換えに与えられるのは名誉ではなく硬貨。
捕まった場合に与えられるのは死。
それでも良いと酒を飲み干し、破顔した。
教会にいる人間をどう処理しようと依頼主は構わぬと言った。
ある者は思った。女を貰おう。美しく、清楚な女がいい。
嫌がる女を神の御前で組敷く幻を見た。服を引き裂き、股を割くのだ。襲撃者の半分は恐怖を覚え、半分は下半身に血を滾らせた。
異国情緒に満ちた肉感的なこちらの黒髪か。女神の清らかさを持つ禁欲的なあちらの金髪か。冷たくなった少女を嬲るも男としての度胸試しとしては一興であろう。
ある者は思った。金を奪おう。金さえあれば何でもできる。
幸い、この場には気の弱そうな男と病気の牧師しかいない。医者もいるが、所詮は数で勝るだろう。庭の外国野郎のように。身形を値踏みすれば上等な鎖時計やカフスを持っている。質屋に持って行けば良い値で売れるだろう。
庭から入った者たちがどうなったのか。彼らは知らない。
墓守のような老いぼれと女が一人。大したことはなかったと、そう思っている。
庭に居たはずの黒髪が目の前にいる不自然さに、彼らはまだ気づいていない。
「牧師は、確実に殺せ」
ウィルソン牧師は教区判事である。
いわば犯罪を目撃された時点で、襲撃者の運命は覆せない。
しかし証言者が誰もいなければ?
未来は変わる。彼らの犯罪を証明するものは無いのだから。
このロンドンには山ほど人間が存在している。魚群に戻った魚を、誰が見つけられるだろう。
「君たちの関与は疑われない」
その言葉を愚直に信じる者達。
信じているからこそ、人数は膨れ上がった。
教区判事に恨みを持つ者。
シスターに懸想をする者。
医者の存在を疎ましく思う者。
「……は?」
「あっ!」
ただし、人が集まるのは良いことばかりとは限らない。
一つのミスが呆気なく崩壊へと繋がってしまう。
「牧師様に手を出すと仰いましたか」
その迂闊な指示を声にださなければ。
「西瓜割りという遊戯をご存じでしょうか」
彼らも全滅などというお粗末な結末を迎えることは無かったであろう。
寝台に横たわる牧師が、哀れみをこめて十字をきった。
「神よ、お許し下さい。止められぬ私の無力さ、暴力はあってはならぬこと。だというのに御身の元でこのような狼藉が起こる事を。アーメン」
「アーメン」
かくあれかし。
小々波のように口の端にのぼる祝詞。
かくあれかし。
かくあれかし。
かくあれかし。
美しい女性の見えぬ顔。
ぽきぽきと拳の小骨が空気を含む音。
逆さまの羊が告げる不気味な世界。
彼等は何が起こるか知らないまま。
世界は暗転する。
場面転換とはそう言うものである。
特に、スリラー映画では。