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第一章①

Ⅰ.

 1855年、六月。

 ぬるつく刺激臭がロンドンの街を覆っていた。

 霧雨の名残なごりが、よどを含んで溝を流れていく。

 朝靄あさもやの中を一台の馬車が跳ねた。

 荷台に積まれた黄色い百合が一斉に揺れる。


「ちゃんと前見ろ!」

「見てたって! 何も無かった!」

 

 馬を止め、御者台から飛び降りたのは鼻先にソバカスを散らした青年だ。

 悪態と痰を道端に吐き捨て、忌々し気に馬車の下を覗き込む。


「何を踏んだ?」

「こんなに暗くちゃ見えねぇ。明かりをくれ」


 兄もまた、同じような悪態を吐いて馬車から飛び降りた。

 泥の水溜りを掻き分け、車軸を確認しようと帽子を抑えながら屈みこむ。


「見えたか?」

「何だろうな。思ったよりでかい」


 ランプの光が地面を照らす。

 車輪が踏んだのは柔らかい土の山か、それとも洗濯物か。

 しかし折れたソレと目が合った時、荷台の下を覗きこんでいた二人は同時に悲鳴をあげた。


「う、うわぁああ!」

「ひと、人だ!」


 ロンドンの灰と藍の夜明け。

 胃の腑の弱い者が吐き出す、えた呻きが響いた。



Ⅱ.


 夏は生命の季節。

 太陽は輝き、雑草は伸び、下水の悪臭があっという間に拡散する。

 とはいえ夏の本番はもう少し先の話。

 五月の名残を感じる朝はまだ肌寒い。


「墓掃除~、墓掃除~。今日も元気に、草むしり~」

「今日も旦那は元気だね」

「ビルさん、おはよう。おかげ様で今日も元気です」


 くたびれた帽子をかぶった老人が欠けた前歯を見せた。

 ビルさんは点灯員。ロンドンの街燈を点けたり消したりする仕事をしている。

 灯りの番人たちは早朝と夕暮れにフラッと現れて、あっという間に消えてしまう。

 今日、ここで彼と出会えたのは幸運だった。


「今日は良い天気になりそうだね」

「そう、思うかね?」


 切り返し方に含みがあったので、今日は良い天気にならないのだろうと僕はがっかりした。

 ビルさんはロンドンの夜と朝に働いている人の例にもれず、物知りだ。


「がっかりするな。色男が台無しだ」

「僕の容姿を褒めてくれるのはビルさんだけだよ」

「旦那はもう少し、皮肉について学んだ方がいい」


 並んで歩けばアルコールの匂いに混じって、鯨油と煤の匂いがした。


「足と腰が痛む。酷い雨が来るぞ」

「そうなんだ」


 大げさに驚いてみせると、ビルさんは横を向いてしまう。

 お爺さんの照れ顔なんて誰得だって?

 お答えしましょう、僕得です。

 最初に会った時の頑なな無表情を知っていれば、思わず拝みたくなるってもんだ。 


「困った。ウィルソン牧師から墓場の掃除を頼まれているんだけど」

「午前中に終わらせちまえ」

「ご無理を仰る」


 また一つ、夜が消える。


「牧師様の具合はどうだい」


 もごもごと、言いづらそうにビルさんが唇を動かした。

 彼の住所はウィルソン牧師の教区内だ。

 先週の日曜日、説教中に倒れた所を見てしまったのだろう。

 あえて軽い調子で答える。


「疲れが出たんだろうってジェイコブ先生が言ってた。しばらく安静にすれば良くなるって」

「そいつは良かった」


 ビルさんは胸元で十字をきった。


「神様は善い人から先に、御許にお招きになる」

「それって……」


 今、明確なフラグが立つ音が聞こえた……。

 正直に言えば、詳細を聞きたい。

 けれど、今日は「よけいな事に首を突っ込まない。悪化させない。墓は掘らない入らない暴かない」を約束している。

 もし破れば、また新聞禁止令が出てしまう。

 相手はイギリス最高峰の探偵。

 隠し事はまず無理だと思っていいだろう。

 ここは我慢、我慢だ。


「シスター・ナンシーも、さぞ心配だろうな」

「おんう」

 

 和やかに相づちをしたつもりで変な声が出た。

 シスター・ナンシーは僕の友人だ。

 立てば妖精フェアリー。座れば貴婦人レディ。姿を見れば最終章ファイナリー

 そんな女性である。

 暴走する馬車に飛び乗り馬を強奪した時は手に汗を握った。

 悪漢をロンドン橋から投げ捨てたところなんか惚れ惚れした。

 しかし、そんな彼女はブレーキが苦手。

 この前会った時、彼女は張り切っていた。

 

 そう、張り切っていたのだ。

 不安だ。

 僕が不安に思うくらいだから、余程だ。

 ウィルソン牧師のような優しい方ですら、心労が悪化してしまうかもしれない。

 彼の部屋と教会と墓と胃が、まだ無事である事を願おう。


 そんな時だった。

 橋の向こうから、沸騰したやかんのような男性の悲鳴が聞こえたのは。

 不穏な叫びとは裏腹に空を見れば薄絹のような雲と爽快な青が見えていた。

 僕は考えた。

 雇用主との約束。

 ウィルソン牧師との約束。

 教会の生存率。

 ……あとでかんがえよう。



Ⅲ.


 路肩には黄色い百合の花を積んだ荷馬車が停まっていた。

 痩せた馬は落ち着きがない。

 神経質な様子で首を振り、蹄を泥に押し付けている。

 近くには若者が二人、濡れた地面の上に座り込んでいた。

 その顔色からとても酷い事が起こったのは明らかだった。

 二人の視線は馬車の下に釘付けになっている。

 それだけで嫌な予感が具体的な形を持ってしまう。


「大丈夫です?」

「あ、あの、おおおっ」

「おっ、おう!」


 両腕を掴まれて前後に揺さぶられる。

 こんなに熱烈な抱擁をされたのは初めてかもしれない。

 そばかすの青年は完全にパニックを起こしている様子だった。

 何かを伝えようとして言葉が出てこない経験は僕にもあるので、母音のみ伝えたい気持ちはよく分かる。

 分かる、分かるともという気持ちをこめて背中を叩いてやる。

 馬車の下に何かがあるのは伝わった。

 一方で、頭を抱えて俯き気味の青年の方は座ったまま動かない。

 そばかすの青年と比べると、まだ冷静に見えた。


「人を轢いちまった。俺たちは、もう、ダメだ」

「おーい」

「仕事、干されちまう、どうすりゃいいんだ、畜生」

「やっほー」


 まったく冷静じゃなかった。現実逃避してただけだった。

 しかも帰ってくる気配がない。

 髭を伸ばしているから年齢の推測が出来なかったけど、声を聞くに彼もまだまだ若そうだ。

 突然のトラブルに頭がついていかないのか、しきりに仕事について呟いている。


「兄貴、そんな事言ってる場合か! 早く、い、医者を呼ばないと」

「どれどれ」


 そうか。二人は兄弟なのか。言われてみれば似ている気もする。

 パニックを起こしている人を見ると妙に冷静になるの法則。

 もしかしたら生きているかもしれない可能性を胸に、馬車の下を覗いた。

 グロテスク、ゴア耐性は高い方だ。そんな僕から見て、車輪の下は。

 泥水。馬の肥、胆汁。

 香辛料と砂糖の交じった甘い匂い。

 残念ながら車輪の下はヘルマン・ヘッセではなかった。

 R15だった。

 

「アウト」

「何をもってアウトと評した!?」

「トマトケチャップが少ないせいで元の素材が活かされた作風」

「どういう意味だよ!!」

「……説明しない方がいいと思うなぁ……」

「何で突然しおらしくなるんだよ、分かったよ……」


 深刻な表情で言えば、素直に頷いてくれた。

 遠くで甲高い笛の音がする。あれは警邏の吹く警笛だ。


「警笛の音が聞こえるし、もう暫くしたら警邏おまわりさんが来るよ。安心だね」

「これの、どこが安心できるんだよ!!」

「えーっ」


 襟元を両手で掴まれ、力任せに引っ張られる。

 爪に乾いた泥がついていて、相手の手からは百合と革の匂いがした。

 

「俺、人を殺しちまったんだぞ! 首吊りは決まったも同じだ!!」

「この辺りの教区判事様心労で倒れてるし、轢かれた男性も元々死んでたから大丈夫だよ。死刑は無い」

「は?」


 拍子抜けした声で顔をあげたのは、兄の方だった。

 ばっちりと目があったので安心する。

 良かった。現実世界におかえりなさい。

 毒気が抜かれた表情をしている弟君の手を叩く。


「ところで、首がめちゃくちゃ締まってるんだけど」

「お、う。悪い」

 

 あっさりと手を離してくれた。

 上に羽織ったジャケットの襟を正す。雨の日は意外と皺になりやすい。


「あんた、どうしてそんなに平気な顔してるんだ? 人が死んでるのに」


 先程よりもソバカス君との間に距離があいている。

 距離的にも、心境的にも。

 蒼白い彼の眼は恐怖で揺れていた。

 死体を見る事が平気か、否かと聞かれたら否だ。

 死体を見る事に慣れているのか、と問われたら是だ。

 多少の死体で動じることはない、と素直に言ったところで信じてくれるかどうか。

 悩みに悩んで、出来るだけ当たり障りの無い答えを返すことにした。


「昔、知り合いのおじさんが剥製を作るところを間近で見てたから」

「うっ」


 どうやら単語の選択を間違えたらしい。

 更に荒れていく現場を見ながら思う。

 良かれと思って悲劇を生んでしまった……。


 

Ⅳ.


「本当にごめん。職場でもよく『状況を考えてから物を言え』って怒られるんだ」

「いいや、こっちこそ取り乱して悪かった。あんたが気を配ってくれようとしたのは分かったよ。全部逆効果だったけどな」


 ひとしきりリバースしたソバカス君は、少しだけ落ち着いたようだった。

 縁石に座って虚ろな眼差しをどこかに向けている姿を「落ち着いている」と表する事に多少の罪悪感はあるけれど、彼には強くなって欲しい。


「さっき、あの男は元から死んでたって言ったな」


 代わりに髭のお兄さんが復活した。

 花農家の二人は兄がロブさんで、弟がジョー君と云うらしい。


「お兄さんは見てるね」

「野良犬の轢死体は何度か見た事はあるが、気分の良いものじゃない。それより、どういうことか説明してくれ」

「うーん。説明したいんだけど。実は人を待たせていて、急いで行かないといけないんだ」


 立ち上がって、服についた汚れを叩く。 


「こんな朝早くにか?」

「そうなんだ。ある意味、その人にも命の危機が近づきつつあるから急がないといけないというか」

「大変じゃねえか! あんた、もしかして医学生か何かなのか?」

「それだけは無い……」


 笑おうとして固まった。

 馴染みのある視線を感じたのだ。

 背中全体に細かい泡が張り付くような、怒りと恐怖。

 それに嫌悪と焦り。

 まるで戦争中の兵隊みたいな視線だ。

 敵意というより、もっと周囲に対する純粋な恐怖を感じる。

 例えるなら、生死がかかっていて、後には引けない人が持っている特有の必死さ。


「とにかく。影のある彫りの深い警察の美形か、貴族っぽい金髪の美形か、度肝抜く美形シスターが来たら、説明してくれると思うよ」

「美形が来ることは確定なのか!?」

「誰が来るかは、ビルさん次第なので」

「誰だよビルさんって」

「じゃあ、僕は、そろそろ行きます」

「自分のペースを崩さない男だな」


 ポケットの懐中時計を確認して歩き出す。

 背中に呆気にとられたような兄弟の視線を感じるけれど、気にしない。

 左右を確認して大通りを渡る。

 そのまま薄暗い小道に入り込んだ。

 区画整理に失敗した独身寮の塊は、慣れてしまえば迷路から近道に代わる。

 地面スレスレにつけられた斜めの扉からは大きな鼾が聞こえた。


 見つけた人影は思ったより小柄だった。

 まだ僕には気がついていないようで、建物に背中をつけて息を潜めている。

 恐らく身長は4~5フィートほど。僕の胸元までしかない。

 暗い色の外套をシーツお化けのように頭から被っている。

 いつから、ここに居たのだろうか。


「あの、」


 声をかけると振り向いた焦茶色の瞳と大きな目があった。

 息が止まる。

 瞳孔が急速に拡大する。

 口元が勝手に動いて満面の笑みを形作る。


「ぼくと賭けをしませんか?」


 『彼』には聞きたい事が山のようにあった。

 でも、今はどうしても。


「答えられたらあなたの勝ち。答えられなかったらぼくの勝ち。どうです、簡単でしょう?」


 どうしても、どうしても言わなくちゃいけない言葉がある。


「追いかけても追いかけても、必ず追いついてくるものって、なーんだ?」


 

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