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 ☆四人目の客

 そしてまた翌日のことである。カラ、コロン。軽快なベルの音と共に来店したその日最初の客は、このバーにこれ程不釣合な者もあるまいと思われる婦人だった。

 何しろ花柄模様の和装姿で、高下駄をはき、しゃなりしゃなりと歩み寄ってくるのだ。京都の料亭でもあるまいし。しかし婦人の方でもその姿が場違いだとの自覚はあるらしい。

「ちょっと、よろしいかしら?」 

 尋ねる声は遠慮がちだ。

「二、三日前、こちらにとある男性が来店しませんでしたでしょうか?」

「とある男性と言われても……何人もいらっしゃいますから」

 僕の返答に戸惑う婦人の様子から察するに、名前を言おうかどうしようか悩んでいるらしい。しかし意を決したように口を開いた。

「スズキ、スズキ・ノボルという男なんですが……」

「えっ?」

「アタクシ、スズキの妻です」

 ☆

 スズキさんが自慢気に語っていた通り、確かにミセス・スズキは美しい人だった。うりざね顔に丸髷を結い、白い肌は眩しい程で、とても四十を過ぎてるとは思えない。何よりもその佇まいには品格が漂って、育ちの良さを感じさせた。

「ところでマスターはいないのかしら?」

「ええ、ちょっと……」

 不在の旨を告げると、婦人の顔はそれと分かる程に落胆した。

「あら、そう困ったわね。まあいいわ。ところで夫はまたここに来るんじゃないかと思うんですの。待たせてもらっていいかしら」

 そう言ってスズキさんの妻、アヤさん(仮名)はカウンター隅に座って緑茶をすすり始めた。アルコールは駄目らしい(と思っていたが、後でそれがとんでもない勘違いだと判明することになる)。そして出入口ドアに視線をヒタと据えた。その厳しい横顔から夫が復讐計画とやらを練っているのを察しているのかもしれない。もしここにスズキさんがやって来たらどういうことになるのか、恐ろしくもあり、また楽しみでもあった。

 時間が過ぎて、その後訪れた客は誰も皆驚いた。無理もない。ドアを開けるとそこに、鋭い眼光を放つ和装姿の熟年美女が睨みをきかせているとあっては。人によっては怨念を抱えた幽霊かと思ったかもしれない。しかしじきに皆は慣れ、店はいつもの賑わいを見せ始めた。

 そんな中、今だ現れぬ夫を待って緊張を解かぬアヤさんに、隣に座ったキクちゃんが話を振った。バーの最も古くからの馴染み客であるキクちゃんは、年齢職業不詳、私生活が全く謎に包まれた中年男性で、老若男女を問わず、誰とでも仲良くなれるという特技を持っている。

「奥さん、お美しい方ですねえ」

 アルコールの回った赤ら顔で親しげに話しかけるキクちゃんにアヤさんは無言のまま。

「誰かに似てるなァ……。女優さんなんだけど」

「……」

「鈴木京香、じゃないですか?」

 夫であるスズキさんがそう言及していたのを思い出し、僕が口を挟むと「そうそう、それだ。いやァ、そっくりだなァ。みんなもそう思わねえか?」

 キクちゃんは他の客に同意を求め始めた。すると誰もがそうだそうだ、と騒ぎ始めたのだ。

「ね、ね。奥さん。よく言われるでしょ」

 屈託のない、いい意味で子供みたいなキクちゃんに言われ、それまで無反応だったアヤさんの表情がやわらいで「ええ、まぁねぇ……」と返事した。

「うれしいねぇ。こんな美女の隣で飲めるなんて、男冥利につきるってもんだ。奥さんもどうです、いける口ですか?」

 クイッと日本酒の入ったとっくりを持ち上げてみせる。

「……そうね、じゃ頂こうかしら」

 すると予想もしなかったアヤさんの返事。

「本当かい。うれしいねぇ。おい兄さん、この美女にお猪口出してあげてよ」

 それが長い夜の始まりだったと誰が知ろう。

 立て続けに一杯、二杯、三杯と、調子のいい飲みっぷりに、そしてそれが艷やかな和装の美女ということもあって、店内は一気に沸いた。つんと澄ましてお高く止まった印象も、酔ってくるとそうでもない。明るく気さくで、周囲にすっかり馴染み、そしてついにはお猪口では物足りないと、コップに注いで飲み始めた。

 しかし楽しいのはここまでだった。酒の回ったアヤさんの口から、次第に辛辣な言葉が飛び出すようになったからだ。アルコールが入ると人格が変わるという最悪のパターンである。

 最後にキクちゃんが逃げるようにして帰ってしまうと、店内にはアヤさん以外の客の姿は消えていた。原因は勿論、アヤさんの留まるところをしらない毒舌のせいだった。経済、マスコミ、政治、風俗。幅広い事柄についての鋭い批判は耳が痛くなる程、的を得て、下す判定は容赦がなかった。口からマシンガンのように連射される罵倒は、聞いていると何やら自分に向けて言われている気にもなって、そそくさと皆が逃げ出したのも当然だ。他の人はそれでよかった。しかしマスター代理である僕は逃げる訳にはいかないのだ。

 ここまでで何リットル分の日本酒を消費しただろう。にも関わらず顔色一つ変えずに、その姿には乱れたところもない。たいした酒豪である。

 と、さすがに飲み疲れたのか、アヤさんが一息ついたその時に僕は話題を変えた。

「来ませんね。旦那さん」

「そうねえ、何処をほっつき歩いているのやら、あの男。いい加減、夫の性格にも慣れっこになっているけれど、全く困った人。付き合いきれないわ」うんざりした顔で。

「被害妄想ってご存知? どうやら夫はそれらしいの。良家のお嬢様として育ったアタクシに比べて、夫はそれこそ一般の、言いたかないけれど下流の育ちでしょう? だからかしら容姿や能力にコンプレックスを抱いて、周りが自分を馬鹿にしてる、見下してるって、思い込んでるの。

 どうしてそんな男と結婚したのかって? あんなんでも若い頃はそれなりに格好良かったのよ(苦笑)。えっ? アタクシがその気でないのに父の勧めで結婚を決めた、ってあの人が言ったの? とんでもない間違いよ。真相はまるで逆。アタクシの方が彼を気に入ったの。アタクシも男性の趣味がよろしくないのかもしれないわね(堪らずにクスクスと笑い出して)。あんな男を好きになるなんて。

 そもそも夫はアタクシの父の会社の一社員だったの。まぁ父には気に入られていたんでしょうね。家に遊びに来ていた将来有望な社員達の内の一人だったんだもの。そして気が付くと心惹かれていた。はっきり言えば彼よりハンサムで才能のある男は幾らでもいたわ。けれど何故かしら彼だったの。恋愛って本当に分からないものね。うふふふっ。

 まぁ、それから結婚するまでは早かったわ。別に急いでいたわけじゃないんだけど……運命の人だって気がしたものだから。そして夫婦になってすぐに子供が出来た」

「それがカンナさんですね?」

「あら、あなた知ってるの?」

「旦那さんに聞いたので。で、不躾ですがカンナさんは奥さんとスズキさんとの間に出来た子供なんですか?」

 ここまできたらもうハッキリさせるしかないと、思い切って聞いていた。

「勿論です」

「でも旦那さんはそう思っていないようです」

「知っていますわ。それが今アタクシを悩ませているんです。こともあろうに夫ときたら、実の娘であるカンナを、アタクシが別の男と浮気して出来た娘であると勘違いしてるんですの」

「でもどうしてそんなことに?」

「それが夫の被害妄想だというんです。そもそもは夫婦の関係がここ最近すっかり冷めているせいでしょうね。でも別にどこの家庭にもあることでしょう? 結婚して二十年以上経つんですもの。いわゆる倦怠期ってやつですわ。

 でも夫はそれを私が飽きたせいだと思い込み、俺を嫌いになったのかって、怒るんです。そしてついにはそもそもの最初から、お前は俺を愛していなかった。なんて言い出しましてね。挙句にカンナは別の男との間に出来た子だ、なんて。どこからそんな考えが湧いて出たのか。面倒くさいったらありゃしない。

 そりゃあね。自分で言うのも何ですけれど、アタクシも若い頃は異性にもてましたわ。おほほほほ。だから交際した相手は両の手でも足りないくらい。でもね! (ここでアヤさんはキッと険しい顔付きになって)一線を越えて男女の関係になった相手など一人もいないんです!」言い切った。

「断言しますわ。誰が何と言おうとカンナはアタクシとスズキノボルの娘である、と」

 こちらに向けられたアヤさんの瞳には狂信的と言っていい光りが宿っていた。

「そしてまた厄介なことに」アヤさんはさらに言葉を紡ぐ。

「娘のカンナの方も父親の存在を煙たがっているんですの。外見や仕草らや物言いやら、全てがことごとく気に障るようで、毛嫌いしてるんです。どうやらカンナの方でも夫を実の父でないと思い込んでいる様子。日増しに険悪になっていく父と娘の関係にアタクシほとほと困り果てておりますの。このままだと近い将来とんでもないことが起きそうな気がして……。だからぜひ相談したいとここに来たのに、マスターはいないし、夫は来ないし……」

 そこに至ってようやくアヤさんはハッとした顔で僕を見て、口元を指で押さえた。

「あらいやだ。アタクシったらつい酔って、初めてお会いしたお兄さんにこんなプライベートな話を。ごめんなさいね」

 そして時計を見て、すでに深夜近くになっているのを知ると立ち上がり、「もうこんな時刻。帰りますわ。あら、いいのよ。見送らなくて。ごめんくださいまし」と最後まで落ち着きを失うことなく出ていった。

 カウンターには空となった日本酒の一升瓶が三本残された。これ程飲んだにも関わらず、ついに最後まで顔色も変えず、乱れることもない立ち振る舞いは見事という他はない。あと聞きそびれてしまったけれど、アヤさんとマスターの関係はどういったものなのか。話し振りからすると随分と親しい間柄のようだが……。思えばマスターのプライベートも分からないことだらけだ。

 そして立て続けに色々な人から悩みを打ち明けられて、僕はいったいどうするべきなのか……。困惑は深まるばかりだった。


 ☆五人目の客

 ここ数日間のうちで初めて知り合ったスズキ家を襲う不穏な黒雲。僕にはまるで関係のないことの筈なのに、どうなっていくのかとあれこれ思い巡らせているうちに、すっかり意識は冴えて、夜明け近くまで眠れなかった。

 そして翌日、週末のバーはことの他忙しい。一人きりで奮闘し、閉店後には店の奥にある休憩用の小部屋に突っ伏したまま、もう起き上がる気力も失っていた。そうしてそのまま眠ってしまったらしい。とはいえ、慣れぬ場所だけに眠りは浅かったようだ。不穏な物音にすぐに目覚めてしまったのだから。

 音がする。ギシギシとフローリングの床を踏みしめる、それは足音。一人いや二人、店内に何者かが侵入しているのだ。まさか泥棒?

 そこで思い出す。そういえばドアを旋錠していなかったことを。そうなのだ。ほんの少しだけここで休んですぐに帰宅するつもりだったから閉めていなかったのだ。

 どうしよう? とにかくも身を起こそうとして僕は愕然とした。体が動かない! それは異様な体験だった。意識ははっきりしているのに、指先一つ動かすことが出来ないなんて。

 金縛り。意識はあるのに体は疲弊して眠った状態にあるという、いわゆるノンレム睡眠の時に起こる現象。噂に聞いたそれになってしまったのだ。まさかこんな時に限って。

 三畳程の薄暗い小部屋で身悶える僕の体から嫌な脂汗が流れ出し、ただ心だけが焦った。薄い壁一枚を隔てて、隣ではさらに徘徊する足音が続いている。

 最初はレジにあるお金のことを心配していたが、次第にいつ自分の存在がばれやしないか、それが気になり始めた。小部屋へ続く引き戸は壁と全く同色で、パッと見それと分からぬようにデザインされているものの、よくよく見れば気付いてしまう。泥棒がそれと悟ったら、どうなることか。それを考えると恐怖に捕らわれる。よもや殺されはしないだろうが……分からない。家宅侵入に緊張状態にある泥棒が驚きのあまり、反射的に殺害に至るといった事態は充分に想定出来た。

 途絶えることのない物音に、もはや僕の精神状態は限界に近づきつつあった。それはまさに拷問といっていい。

 どうせ自分の店ではないのだ。金ならやる。幾らでも持っていってくれ。だから早いとこ立ち去って欲しい。それがその時の偽らざる心境だった。

 しかしどうしたことか、泥棒は一向に出て行こうとしないばかりか、金目の物を盗む気配もなく、どうもカウンターに座って酒を飲み始めたようなのだ。グラスが触れ合い、酒を注ぐ音がする。僕が隣に潜んでいるとも知らず、夜はまだ長い、仕事の前にまずは一杯とそういうことなのか。いずれにしても迷惑な話である。鋭敏に研ぎ澄まされた僕の耳に泥棒達の会話が飛び込んでくる。

「……そうだね……」

「……だからァ……」

 若い、男女二人の声のようだ。

 すると次にピッピッピッ……と携帯電話をプッシュする電子音が響いてきた。

「……スズキの家か?」

 聞き慣れた一家の名が飛び出して、驚きのあまり声を上げそうになった。この泥棒はスズキ家にどんな用事があるというのだろう。

「あんたスズキカンナの父親か?」

 話している相手は、あのスズキノボルさんのようだ。

「娘を誘拐したっ」

 カンナを誘拐だって? カンナとはあのスズキさんによって部屋に閉じ込められているという彼女のことか? そのカンナが誘拐されたって? どうなってるんだ?

「あ、ああ。娘には、危害を加えてないよ。……えっ、何が欲しいのかって? ああ……うん。そうだ。金だよ。金。決まってるだろ! えっ、は? 幾ら? あ、ああ金額のことか。そう、そうだな……。まあそれはまた後で教える。そうだ。引渡しの方法もその時に言うよ。いいな! なめんじゃねえぞ!」

 たどたどしい言い方が気になるものの、取り敢えず店内に侵入したのが誘拐犯だったことがわかった。

「えっ何、声が聞きたいって? ……分かった。いいだろう。ほら……」

 何やらゴソゴソと音がする。まさかカンナも隣にいるのだろうか?

「……パパ! 助けてよ。いやっ痛い! うん。そうなのよ。両手両足を縛られて身動き出来ないの。まだ平気よ。何もされてない。でも怖いわ。助けて。そうよ。お金を払えば何もしないって。だから言う通りにして、早く私を自由にしてよ!」

 それは確かに一作日、受話器を通して聞いたカンナの声に違いなかった。彼女は今、隣にいるのだ。両手両足を拘束された状態で。

 状況の把握が出来ないまま、電話は終わっていた。そしてまた隣から話し声がして、笑い声が響いてきた。さも愉快で堪らないといった甲高い女の笑い声はカンナのようだ。

 それは異様な状況だった。誘拐された当事者が笑い転げているなんて。

「あはははははっ。相当びびってたわね、あいつ。いい気味だわ。そんなことより大事なのはこれからよ。まず身代金だけど、これは予定通り一千万でいいわね。問題は受け渡し方法だけど、……やっぱり最初に考えたコインロッカーを使う方法がいいわ。あれが一番確実だと思うの。ね、それでいきましょ、いい?」

「う、うん……」

 と気弱に返事をしているのはどうやら先程、脅迫電話をかけていた男のようだ。これはどうした訳だろう。被害者のカンナの方が主導権を握っているようだが……。しばらくするとカンナは「夕食買ってくるわ」と言い残して出ていった。それは手足など縛られていないということを意味する。

 成程……。さすがに鈍感な僕といえど、ここまでくればそのカラクリが見えてきた。つまるところこれは狂言誘拐なのだ。気の合わない継父への反発がカンナにこうした偽の誘拐計画を思いつかせたのだろう。こうして身代金を要求し、犯人おそらくボーイ・フレンドだろうと豪遊しようとでもいうつもりか。

 そうと分かると一気に緊張が解けて気が抜けた。その時だ。暗かった室内が白い光りで満たされたのだ。引き戸が開いていて、そこに立っていたのは見知らぬ男。「あっ!」驚きの声を上げる。

 そう、僕はついに見つかってしまったのだ。抵抗することも出来なかった。当然だ。まだ金縛りにあったまま、体を動かすことも出来ないのだから。

 簡単に取り押さえられ、手足を縛られ、僕は椅子に座らされた。しゃれにならない。これでは僕が誘拐されたみたいだ。

 男は僕と同年代らしき青年だった。華奢な体格ですっきりとした顔の優男風。誘拐犯という先入観があったせいか、強面のいかつい男を想像していただけに、そのギャップから恐怖は感じなかった。

「ここの店員か? そうか……。カンナはマスターの他に働いてる奴はいないって言ってたのに」

 そこでハッとして思いついたように。

「じゃあ、お前、さっきの俺達の会話を聞いてたのか?」

「……ああ全部聞いたさ。でもあんな電話じゃ、向こうは信じないと思うよ」

 その身振り話し振りから、極普通の青年に過ぎないと思った僕は挑発的に言ってみた。

「う、うるさいな。黙ってろ」

 思った通り動揺している青年に僕はさらにカマをかけてみる。

「どうせお前、あの女の言いなりになってるんだろ?」

「な、何言ってんだよ。んな訳ねえだろ!」

 顔を真っ赤にして怒る様子からすると、図星だったようだ。完全にカンナの尻に敷かれてるとみて相違ない。

「まあまあ、落ち着けよ。そもそもそんな金を貰ってどうしようってんだ?」

「身代金のことか? まあ色々入り用なのさ。カンナと暮らしていくんだ。とりあえず元手がいるだろ?」

 どうやら駆け落ちを考えているらしい。若き恋人の恋の逃避行。同年代の若者として、そうしたものに憧れる気持ちはよく分かる。しかしそれにしては青年の表情には暗い影が差している。

「この誘拐計画に乗り気じゃないんだろ?」

 黙り込む青年。

「何か悩みを持ってるみたいだな。いいからまあ、酒でも飲めよ。僕でよかったら話を聞いてやる」

 言われるままにビールの続きを飲み始めた青年は、しばらくして語りだした。やっぱり僕には人の心の内を聞き出す特殊能力でも備わっているようだ。

「オレの名前はケイタロウ(仮名)。実はこう見えてミュージシャンを目指してるんだ。勿論まだプロになるには程遠い腕だけど……。ライブハウスにもそうそう出させてもらえないし、もっぱら一人でギター片手に路上で演奏してるんだ。見知らぬ通行人相手にね。

 とにかく聞いてほしいんだ。俺のこの身の内にある、何ていうか魂の叫びってやつを。でもほとんどの人は素通りして行っちまう。他人の心の叫びなんてどうだっていいのさ。

 そんな中に一人だけ、じっと立ち止まりオレの歌に耳を傾けてくれる娘がいた。それがカンナだったんだ。歌い終わったオレに向かって心のこもった拍手を送ってくれた。あの時は嬉しかったなァ……。

 そこから友達になって、恋人になるのはすぐのことだった。カンナとオレは同じ匂いがしたよ。どこか寂しげで暗い影を背負っていたんだ。聞けば親父との間にトラブルを抱えているって言うじゃないか。実はオレもそうなんだ。親父と喧嘩してこっちへ出てきたから……。そう、オレ達は似た者同士なんだよ。

 そんなある日のことだった。カンナが『私はパパと血が繋がっていない!』とオレんちに転がり込んできたのは。証拠を見つけたといって泣いてばかりで、もう家に帰らない、そう言うんだ。そして窓の外を気にしている。聞くと誰かに尾行されているって言う。親父の指金だろうか? 見ると電柱の影に大柄な坊主頭の中年男がじっとこちらを見ていた。インパクトのある男で、その顔は印象に残ってるよ。

思った通りだった。そのすぐ後、カンナは親父に見つかって連れ戻されてしまったんだ。それで監禁状態にされたそうだ」

 成程、カンナが監禁されていた背景にはそうしたことがあったのだ。その時、このバーに電話がかかってきたのだろう。再びケイタロウの話は続く。

「でもすぐにカンナは隙をみて逃げ出してきた。ものすごく怒っていたよ。義父を絶対に許さないってね。そしてこの誘拐計画を立てたんだ」

 そう言って、やるせない溜息を吐くケイタロウ。

「でもどう考えたって無理だよ。たとえうまいことカンナの親父から金を巻き上げたとしても、その後どうするっていうんだ? 遠い土地で二人で生活をするのか? 家出して一人暮らししてるオレには金を稼ぐのいかに大変なことか身に染みて分かってる。とてもじゃねえけど、今のオレには家族三人を養っていく経済力はねえよ」

「三人?」

 あっしまった、とバツの悪そうな顔を擦るケイタロウ。まさか……。

「妊娠してるの?」

「……実はそうなんだ」

 カンナのお腹にケイタロウの子供が宿っている、成程そういうことだったのか。

「どうしたらいいんだろう? 実際のところ困ってるんだ。今のオレには責任が重過ぎる」

 確かにその通りかもしれない。彼らと同年代の自分がその立場になったとしたら……想像も出来ない。

「それにオレはミュージシャンになれる訳がないって、ようやく分かり始めてきたんだ」

 気付けば瓶ビール三本を空にして、ケイタロウはすっかり独白モードに突入していた。

「カンナは今だに才能があるって言ってくれるけど。駄目だ。自分の才能は自分で一番よく分かってる。オレには音楽の才能がないんだ。でもカンナに夢を諦めたなんて、言えなくて……。

 最近考え始めてるんだ。親父に頭を下げて、実家に戻って家業を継ごうかって。作業員五人しかいない小さな塗装会社だけど」

「いいんじゃないかな。カンナさんにそう言ってみたらどうだろう?」

 僕が言うとケイタロウは渋い顔になって。

「きっとカンナはそんな地道な仕事をするオレについてきてくれないよ。結局あいつはお嬢様だからな」呟いた。

 確かに、ケイタロウの実家で嫁として甲斐甲斐しく務めるカンナの姿は、これまでの話からすると考えられない気がする。

「でも子供が出来ちゃったんだろ。その責任は取るべきじゃないかな?」

 余計なお世話かもしれないが、そう言わずにはいられない。複雑な表情で黙り込むケイタロウ。そしておもむろに口を開いた。

「うん。そうだよな。一番いいのはカンナと結婚して家庭を持つことだけど……。何度も言うように自信がないんだ。金のことだけじゃない。そもそも性格が合わない気がするんだ。しばらく同棲してみてそう思った。二人は住む世界が違いすぎる。そんな中で子供が生まれても、不幸になるだけだ。ならいっそのこと……」

 いっそのこと? 暗い顔をして黙り込んでしまったケイタロウを見てゾッとした。

「堕ろすつもりか?」

 ケイタロウは無言で頷いた。子供を堕ろす。時に人は簡単にその言葉を口にするけれど、考えてみれば恐ろしい。何しろそれは自分の血を分けた赤ん坊を自らの意志で殺す、ということなのだから。ましてや女性の場合、お腹の中で胎動しているその命をじかに感じているだけに、受けるショックは大きいだろう。

 どう答えていいのか、黙り込む僕にケイタロウも一気に酔いがさめてしまったのか、ひどく白けた表情をしている。その時、風を感じた。いち早く気付いたのはケイタロウだ。

「カンナ!」

 いつからそこにいたのだろう。商品の詰まったコンビニ袋を抱えたカンナがドアの前に立っていた。途中から会話を聞いていたことはその顔を見れば一目瞭然だ。感情を失ったガラス玉のような瞳から大粒の涙が頬を伝い落ちてくる。

「バカーッ!」

 叫び声と共にコンビニ袋が宙を舞い、中身が床に散らばり落ちた。

「カンナ!」

 外へ飛び出していった恋人を追って、ケイタロウが走り出す。僕は一人その場に残された。

 ☆

 二人は一体どうなったのか? 僕は店内で途方に暮れていた。そう、今だに手足は椅子に縛られたまま動くこともままならず。

 ケイタロウは荷造りのアルバイトでもしていたのか。店内にあったゴミ捨て用の紐ロープで固定された腕と足は思いの外、固く結ばれて、一向に緩む気配はない。それどころか無理に外そうと力を入れて、余計きつくなってしまった。

 そして迫ってくる尿意。僕もいい大人だ。こんなところで漏らしたくはない。早く戻ってくれ。僕は天にも祈る気持ちだった。

 そう、すでにあれから一時間が過ぎている。カンナの凍りついた表情が頭をよぎる。信じていた恋人の裏切りの言葉。その本音、ましてや子供を堕ろしたいなんて聞いて、さぞやショックを受けたことだろう。

 ゴオオオオオッ、ガタンゴトン、ガタンゴトン……。

 道路を隔てた先にある線路を走る貨物列車の音が響いてくる。いいや、まさかそんなことがある訳ない。僕の脳裏に浮かんだ言葉、それは自殺という二文字。繊細で多感な年頃のカンナ、衝動的に自殺をはかることも考えられる。

 ☆

 薄暗いひっそりとした店内で、さらにどれくらい待ち続けただろう。さすがに尿意が限界に達しつつあるその時に、ドアの開く音がした。二人が戻ったのか? 顔を向けた先には見慣れた人影があった。

「マスター!」

 それは用事があるとかで、店を休んでいたマスターその人だったのだ。

「いつ戻ったの?」

 壁の時計を見るとまだ午前四時を回ったばかり。始発電車も走っていないこんな早朝に、どうしてマスターがここにいるのか?

 難しい顔をして入ってきたマスター、見ればその背に誰かを背負っている。カンナだった。

「ち、ちょっ、大丈夫なの? 彼女」

「うん。泣き疲れて眠ってるだけさ。心配ない」

 そしてふと覚える違和感。というのもいつものマスターと違い、そこには落ち着いた雰囲気が備わっていたからだ。それはいわゆる父性というものに似ていた。

 しかしどういった経緯でマスターがカンナを背負っているのだろうか? しかもその表情、仕草からしてかねてから知り合いのようなのだ。

「マスター!」

 しかし取り敢えず、僕は叫ばずにいられない。

「早くロープをほどいて。漏れそうだ!」

 ☆

 トイレに駆け込み一段落ついて、戻るとテーブルにマスターとそして一緒に戻ってきていたのか、ケイタロウが向きあって座っていた。カンナは隣の休憩室に休ませているらしい。

 それにしても二人の表情は深刻で、その間には険悪な雰囲気が立ち込めている。しばらくして口を開いたのはケイタロウだ。

「どうしてあなたがここにいるんです?」

 詰問するような鋭い口調だ。

「ここは私の店だからな」

「えっ、二人は知り合いだったの?」

 こみ上げる好奇心から僕は思わず声を出していた。

「さっき話したろ。カンナをストーカーしてた変なオヤジ。それがこいつさ」

「!」

 驚き、まじまじとマスターを見つめてしまう。そんな馬鹿な。多少(かなり?)変なところのあるマスターだが、まさか若い娘をストーカーするなんて、有り得ない話だ。

「本当なの?」

「違うわ」

 僕の問い掛けに答えた声に振り返るとカンナが立っていた。眠りから覚めたのだろう。

「ストーカーじゃなくて監視。ママに頼まれて私を監視してたの。でしょ? おじさん」

「おじさん?」

「そうよ。ママの実の兄。つまり私の叔父さんなの。この人は」

 どうなってるんだ? 僕の驚きは殊の外大きい。となると僕とカンナは……。

「どういうことなんだよ。カンナ?」

 同じく驚きを受けたらしいケイタロウが喰ってかかるように尋ねる。

「分かった。それは私から説明しよう」

 重い口を開きマスターが語り始めた。

「カンナの言う通り。私とカンナの母親、アヤとは血の繋がった兄妹なんだ。本来なら私が家を継がなければならなかった。でもちょっとした訳ありでね。ま、私も若い頃はやんちゃだったし、画家になりたいって夢もあってね。会社の後継者になる、ならないで揉めて、親父と大喧嘩して勘当されちまったんだ。それ以来、家族とは縁を切ってしまった。でも妹のアヤとだけは密かに連絡を取り合っていて、時々会ったりもしてたのさ。その時はカンナも一緒についてきて、よく遊んでやったもんだよ。

 それから数十年……今だに親父とは仲直り出来ていないけど、ま、私も年をくって地元が懐かしくなったのか、近くであるこの場にバーを開いたって訳なんだ。

 そんなある日、久し振りにアヤと会って相談を受けた。カンナのことでな。どうも様子がおかしい。外にボーイフレンドもいて、家に帰らなくなっている。というんでカンナを見守ってくれないかって頼まれたのさ」

 成程マスターの言う用事とはこのことだったのだ。

「それで今夜のことさ。泣きながら店から飛び出してきたカンナを見つけて追いかけた。あいつはシャッターの閉まった駅前の商店街の前でしゃがみ込んだまま、泣き疲れて眠っていた」とここでマスターは改まって「カンナ、謝りなさい」と言った。

「分かっているんだぞ。赤ん坊なんて本当はいないんだろ」

 ハッとしたカンナの表情。それは明らかに嘘を見抜かれた者の見せる狼狽したものだった。

「ケイタロウ君に謝りなさい」

 言われるままにカンナはケイタロウに向かって頭を下げる。

「ごめんなさい。赤ん坊が出来たなんて嘘だった」

 それを聞いてケイタロウはホッとしたような、傷ついたような、微妙な表情で肩を落とした。

「許してやってくれ。君を自分のもとに引き留めておきたかったんだろう」

 マスターもまた頭を下げる。

 ☆

 その後、安心したケイタロウをひとまず帰らせて、マスターは姪のカンナと向き合った。互いにどう切り出していいのか分からないまま黙り込み、口を開いたのはマスターの方だ。

「帰りなさい。お父さんとお母さんにもう事情は話してある。誘拐はお前の狂言だってこともね」

 悔しそうに唇を噛むカンナ。

「私、帰らない。あんな家」

「君は分かっていないんだ。両親がどれ程一人娘の君を大事にしているかを。そりゃ多少は口うるさかったり、叱ったりすることもあるだろう。けどそれも君を思えばこそ、愛してるからこそなんだぞ。それなのに何が不満なんだ?」

 そう諭されて浮かぶカンナの表情は複雑だ。それは言うべきか逡巡しているせいだった。しかし心を決めたのだろう。おもむろに口を開いた。

「私、知ってるの。パパ、ううんママもよ。二人共、私と血の繋がりがないってこと」

 まさかそんな。父親だけでなく、母親とも血が繋がっていないというのか。

「分かってるのよ。もう全てね、おじさん!」

 最後の〝おじさん〟という言葉をやけに強調して、カンナは意味ありげにマスターを見つめる。その意味するところは一体? それは次の一言によって氷解した。

「おじさんなんでしょ? 私の本当の父親は」

 カンナはマスターを見つめている。もはや少しも目をそらそうとせずに。

「どうしたの? はっきり言ったらどう? もう知ってるんだから私は」

 迫るカンナ。マスターの顔には明らかに困惑の色が浮かんで、全く言葉が出ないようだ。すると代わりに後方から声がした。

「カンナ、どんな証拠を見つけたのか知らないけれど、あなたはアタクシとパパの子ですっ!」

「ママ!」

 マスターの連絡でここへ馳せ参じたのだろう。それはアヤさんだった。まだ早朝だというのに髪はセットされ、和装姿に一糸の乱れもないところは、さすがという他ない。

「おかしなことを言っておじさんを困らせてはいけないわ。ね、あなたは疲れているのよ。お願いだからアタクシと一緒にお家に帰って、充分な休息をとりなさい」

「いやよママ。そんな風に曖昧にするのはもううんざり。私ははっきりさせたいの。自分の生い立ちを」

「だから口を酸っぱくして言ってるでしょう? あなたはアタクシ達夫婦の子供なんです」

 食い違うばかりの会話に苛立ったのか、カンナは再び店を飛び出していった。

「待ちなさい!」

「アヤはここで待ってろ。私がつかまえてくる」

 そう言ってまたマスターが後を追う。何度こんな追いかけっこをすれば気が済むのか、困ったものだ。

 ☆

 アヤさんと僕。黙したまま向きあって、どの位経ったのか。アヤさんが語り出したのは、沈黙に耐えきれず、というよりは思いの丈を吐き出してしまいたかったからに違いない。

「あの娘の言う通りよ」

 常に気丈なアヤさんが憔悴して見えた。

「カンナはアタクシがお腹を痛めて産んだ子じゃない。そもそもは兄の子なのよ」

 言葉を失うとはこういう状態をいうのか。カンナが言っていたことは真実だったのだ。

「幼少の頃にかかった大病によって、アタクシは子供を産めない体になっていた。でも子供好きだと公言していた今の夫と結婚したくて、その事実を隠して一緒になった。新婚早々から夫はせがんだわ。早く僕たちの子供が欲しいねって。どうしたらいいのか分からくて……。

 そんな時だった。兄さんと当時の恋人との間に望まれない赤ん坊が出来たのは。二人は結婚する気がなかった。互いに遊びと割り切った間柄だったらしいの。結局カンナの本当の母親は、彼女を産むと、どこへと知れず姿を消してしまった。兄さんもまた父との関係が悪かったり、自身の夢を追うことに必至で、面倒を見ることが出来ずに、アタクシが引き取ることにしたという訳なんです。

 妊娠の為、静養すると言って、夫を置いて避暑地に半年程こもり、カンナを連れて戻った。あなたの子だと嘘をついて。

 それがいけなかったんだわ。夫と娘を騙し続けたバチがこんな形で帰ってきたのね!」

 さめざめと泣き始めたアヤさんに向かって僕は言った。不意に思いついたことをつれづれなるままに。

「正直に話した方がいいんじゃないですか。カンナさんだってもう二十歳、大人なんだし。無理に隠そうとするからこんな風になってしまったんじゃないかな。全てを正直に話してしまえば、カンナさんも分かってくれる。そう思うんだけど……」

 子供もいない若造の僕の意見にアヤさんは頷くと、ぽつりと漏らした。

「そうかもしれない。あの子ももう大人なんですものね。包み隠したりせずに話してみるわ。きっと分かってくれるでしょう」

「そうですよ。産みの親より育ての親って言うでしょう?」

 調子に乗って僕はそう返していた。

 ☆

 その後再びマスターによって連れ戻されたカンナ。父親のスズキノボルさんも含めて、四人はその後きちんと向き合い、話し合いの場を持ったそうだ。そしてお互いが納得する結果に落ち着いたということだ。

 スズキさんは妻への疑いが解けて、そして以前と変わらず自分を愛してくれていると知って仲直りし、娘のカンナのことも血の繋がりなど関係なく愛してると改めて自覚したという。

 カンナもまた自分の生い立ちが分かったことで落ち着いて、自分を見つめ直すことで育ての親に感謝し、正常な関係を築き始めたという。やはり互いが隠し事をしているのが、こうした事態の元凶だったということだろう。

そうと分かってみれば皆がこのバーに集まって来たのは納得である。カンナが電話したのもマスター、つまり実の父親に現状(過分に誇張されたとはいえ)を訴えて自分の気を引きたかったのだろう。後で聞くとカンナは驚いていたという。雑音のせいで僕の声をマスターとずっと勘違いしていたというのだ。

 こうして全ては丸く収まって、マスターは以前の通り、バーのカウンター内で接客をしている。今もキクちゃんと盛り上がって「いやだぁ、おっかしい~」とオネエ言葉丸出しで笑い興じている。カンナを前にした時の男らしい態度は何だったのか、そのギャップには驚くばかりだ。


 ☆再来客

 その日、そろそろ店を閉めようかという頃、来店する客があった。入って来た人物を見て、僕は思わず声を上げていた。

「ツルコさん!」

 そう、それはあの今回の事件の全ての元凶である中年女性だったのだ。思えば彼女だけは謎に包まれたまま、正体が分かっていなかった。

「あら坊や、おひさ」

 ツルコさんは小さく手を振りながらカウンター席、ちょうどマスターの前に腰をかけた。

「あらよかったわ。今夜はいてくれたのね。マスターいつものくれる?」

 ツルコさんがそもそもここへ来たのは、マスターに会うためだったのだ。しかし洗い物をしたまま、マスターの表情は強張ったまま、怒りを抑えているのが分かった。

「よくここに来れたもんだな」

「フフフ。いいじゃない。たまにはあなたに会いたくなるのよ」

 マスターとツルコさん、この二人は一体どういう関係なのだろう。

「何であんなことをしたんだ?」

「さあ? 退屈だったからかしら」

「呆れた奴だな。お前のくだらない退屈しのぎのせいで、一つの家庭が壊れるところだったんだぞ」

「あらいいじゃない。こんなことで壊れるくらいなら、いっそ壊れてしまった方がいいんだわ」

「全く……変わってないな」

「そもそもアタシをこんな性格にしたのは、アンタのせいもあるんだよ」

「……」

 睨み合う二人。成程、僕は確信した。この二人がかつて恋人同士だったことを。つまり将来画家を目指していた若きマスターの恋人だったという相手とは、このツル子さんで……ということは、カンナを生んだのは……。

「寂しかったのよ。分かってる。勝手な女よ、アタシはいつだって。今さら娘を自分のもとに戻したいなんてね」

「本当に呆れた奴だよ、お前は」

 マスターは言って赤ワインを一本開けた。この店で最も高価なやつだ。

「飲んでいけよ。おごりだ」

 その後、二人はきっと黙っていても互いの気持ちはよく分かっているのだろう、会話もなく、ワインを飲み干すとツルコさんは席を立った。

「じゃあ行くわ。また忘れた頃に戻って来る、かもね……」

「待てよツルコ」

 マスターは言って懐から一通の手紙を取り出し、渡した。

「カンナからお前あてにな、預かっておいたんだ。きっとまたここに顔を出すだろうと思ってな」

 封筒に書かれたカンナの文字を見るツルコさんの瞳が光るのを僕は見逃さなかった。


 ☆最後の客

 シャッターを下ろした店内に僕とマスターは残っていた。

「今頃だけど、僕は分かったような気がするよ」

 そう言うと、マスターが聞く。

「何がだ?」

「どうしてマスターが僕を一人残して店番させたのか。それはカンナさんの見守るためだけじゃない、僕にスズキさんやツルコさんやアヤさんに会わせたかったからじゃないの?」

「かもしれないな……。どうしたんだ? 急にそんなこと言い出して」

「僕だって大人だもの。だから、ね、そろそろ息子に過去のことを話してくれてもいいんじゃない? お父さん」

 最後の言葉に、マスターの動きが止まる。

「お前の口から久しぶりにそう呼ばれた気がするな」

 家族を顧みず、好き勝手なことをし、放浪生活をしてきた父、その犠牲となって母がどれだけ苦労してきたかは、誰よりも身近にいた僕が一番よく知っている。そのストレスが原因だったのかどうか母がまだ若くして病死して以来、僕は父を許しはしなかった。それからだ。父さんと呼ぶのをやめたのは。彼は僕にとってただのマスターとなって、つかず離れずの距離をたもって生活をしてきた。

 けれどここにきて僕は父さんのことを理解したい、と思った。とある一家(いや、親戚なのだ)に関わったことで僕も大人になったのか。

「よし、二十歳までは少し早いけれど……まあいいか。男と男、サシで今夜は飲もう。何がいい?」

 僕は言った。

「焼酎のロックで」

 今晩は僕が客だ。父さんにこれまでの気持ちをぶつけ、そして向こうの気持ちも聞いてやろう。何よりも気になるのはカンナが言っていたあの手紙。あれはマスター、僕の父がツルコさんに向けて書いたものじゃない、僕の母に宛てたものだったに違いないのだ。それを確かめねばならない。そしてマスターが本当に愛したのは誰だったのかを。

 父さんの作ってくれた焼酎のグラスが目の前に置かれる。クイッと一口飲んで。さあ、今晩は長い夜になりそうだ。


 了

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