第99章―第三者その1―
「特別なものが欲しかったわけじゃなかったけど、わざわざ気に入らないものを買う理由はないわよ。そう思わない?」
奥さんと私はそのデパートの最上階にある喫茶店で向かい合っていた。私たちのテーブルには熱い紅茶とコーヒー、そしてケーキが置いてあった。彼女はレアチーズ、私はミルフィーユ。
「まあ、そうですね。こういう時代だから、向こうも必死に売ろうとしてきますけど。」
私は紅茶をすすりながら苦笑いして答えた。
「デパートの売り上げなんて私には関係ないわ。」
「確かに。」
・・訊きたい。せっかく会えたのだから。あの晩。あのホテルのバーにいたのは、あの黒いドレスを着てたのは。
「あの日横浜にいたわね。」
「!」
「ホテルのバーラウンジ。」
予想してなかった展開に面食らったけど、やはりそうだったのか。あれは・・。
「やはりそうだったんですか。似た方がいるなあと思ったんですけど。」
「あなた、ずっと私の方見てたでしょ。・・私も最初はあなたの事わからなくて、ごめんなさいね、失礼な子がいるなあって思ってたの。でも、あなたが帰るときだったかしら?私のすぐ近くを通った時、あ、わかった!って。でもあの時はお互いに人と一緒だったから声掛けなかったわ。」
「あの、ドレス、ちょっとビックリしちゃって・・。」
「ああ、あれね。でも男性と会うんだもの、それも夜のホテルのバーで。それなりの格好というのがあるでしょ?」
そう言われて、私はあの時周りを見て恥ずかしかったことを思い出した。と同時に彼女も、私のあの夜の格好を思い出したようだった。
「あ、誤解しないでね。それは私のこだわりにすぎないわ。あなたくらいの歳の人はあれで、、ああいうカジュアルな服装でいいと思うわ。若さがカバーしてくれる。本当よ。」
「あんなところ行ったの初めてで・・。ちょっと恥ずかしかったです。」
「気にする事無いわ。あなたはあれでいいのよ。・・私くらい(の歳)になると厳しいわ。いただけない。」
「あの・・。立ち入ったことを訊くようですが・・。」
「あの男性の事?」
コクリと頷いた。さっき男性と会うためにあのドレスだったと聞いた。それだけでなんだか裏切られたような気がしてしまった。あの一緒にランチを食べた時、あの人を想う深さに私は本当に悔いたのだ。いや、それは理由にならない。何があっても私がしてしまったことは変わらない。ましてや誰かを批判できようはずもない。でも、釈然としない。
「・・あの人は主人の親友で、私ともお友達の人。横浜で開業医をされているわ。」
「そうですか・・。」
「ずっと独身だったの。」
「?」
「あの人。あの男性。」
「そうなんですか。」
「どうしてだと思う?」
「・・?」
「私を好きだったからよ。」
「!」
「わかってたの。もう古い付き合いだったから。主人も知ってたと思う。でも私が選んだのは主人だった。」
遠い遠いセピア色のストーリーが、彼女の脳裏に浮かんでいるのが分かった。
「あの夜は・・。」
「寝たわ。彼と。」
「・・・。」
「別に悪くないでしょ?私は主人を亡くしてる未亡人だし、彼は独身だし。」
「もう・・もう、振り切れたんですか?・・ご主人の事。」
「振り切るも振り切らないもないわ。何がどうなろうと、主人は帰ってこない。死んだ人は死んだ人。それだけ。」
「・・・。」
確かにそうだ。何がどうなったとしても死んでしまった人は帰らない。永久に死んだまま。
「そうね・・。この前あなたと会った時はこんな気持ちじゃなかったわね・・。」
「え?」
「確かに彼は私に甘えることもなかったけど・・、思い出す事も忘れちゃってたみたいなの。」
似たような台詞をランチを食べた時にも聞いたけど、今回の言い方は明らかにニュアンスが違っている。
「どういうことですか?」
訊きながら一気に鼓動が速まっていく。もしや・・まさか・・。
「どうもね、主人には女性がいたようなのよ。」
「!!!」・・・・ビンゴ!!!
一気に汗が全身から噴き出すようだった。そして血が逆流する音が聞こえた。鼓動もこれ以上ないくらいに速まり、顔の筋肉がギュウッと強張ってゆく。
どこから?いったいどこからばれたのだ?
「・・う・・浮気してたって事ですか?」
恐る恐る聞いてみる。・・・大丈夫。私だってバレたわけじゃない。何も証拠はなかったはずだ。あればもうとっくに露見している。
「浮気じゃなかったんじゃないかな。本気だったからこそ、私との板挟みで苦しんで死ぬことを選んだのよね、きっと。」
ホンキダッタカラ。イタバサミデクルシンデ。シヌコトヲエランダ・・・。胸が、いや、心が締めあげられてゆく。痛みが走る。私は返事も出来ずに黙っていた。
「・・ごめんなさいね。あなたには色々聞いてもらってばかりね。何の縁があるのかしら?」
「・・・。」
やはり奥さんはあの人の“相手の女性”は知らないのだ。
「まあ、言い訳なんだけどね。でもね、少なくとも私はそれを知るまでは独りの寂しさに耐えてた。彼も独りで死んでいって、今も独りなんだもの、私も耐えようって。」
「・・・。」
「でも耐えきれなくなった。手紙がきて、」
「手紙?」
「そう、匿名でね。ただあの大学病院の看護婦だって書いてあったけど。・・実は自分はドクターに女性がいることを知っていた。相手は知らない。でも時々病院から携帯しても連絡が取れないことがあった。おそらく間違いないと思う。ドクターが亡くなって調査が入った時言おうかかなり迷ったが、言い出せる雰囲気ではなかった。今さらかもしれないが一応報告いたします。・・こんな内容だったわ。」
聞きながら背中が猛烈に寒くなっていく。動悸も速いまま。・・・確かにラブホテルにいる間に何度かそういうことがあった。場所や部屋によっては電波が入らなかったり、久しぶりに抱いてもらえると思って彼のシャワーが終わるのを待っている時に携帯が鳴ると、彼に言わないで放っておいたり(しかもあとで訊かれても気づかなかったと言っていた)。もちろん彼はあとで気づいてあわてて病院に電話をしていた。そして苦しまぎれな言い訳をしている事もあった。4年間付き合っていてそういうことはごく稀だったと思うが、あったにはあった。もしかしたら私が知らないだけで、あの人が私といる時間の事で色々骨を折ってたのかもしれない。あちこちに根まわしをしていたのかもしれない。
「そうですか・・。」
私はわざとガッカリと項垂れたふりをした。あんなに気をつけていたつもりでもほころびがあったなんて。完全に忘れていた。全く都合のいい頭というか、都合が悪いというか・・。しかも自分から出た錆のせいの可能性が大きい。・・でも。今さら奥さんにばれたくない。今さら自分から白状する事は到底出来ない。自分の身を守りたいというずるさもある。いやそれが一番だろう。でもあの人が私を守ろうと精一杯してくれたのも事実だ。それがわかる。そしてそれは奥さんをも守ろうとしてたに他ならない。でもそれを私がわかっていても、奥さんに納得を求めるのは無理な話だ。話せない。どうしても。私はあくまでも第三者でいなければ。過去も、今も、未来も。
「・・私も初めは胡散臭い話だな、信じられないなって思ってたんだけど・・。最近になって主人のずっと使ってなかった洋服を片づけてたら、小さいメモが出てきたの。」
「メモ?」
まだ失敗があるのか。今度は何だ?
「Mを3時に迎え。これしか書いてなかったの。あと日にち。」
M・・。私の名前だ。迎え?いつのだろう?
「でも、それだけじゃ何のメモか・・。」
「そう。そうなのよね。でもそのメモ用紙が、何かのスケジュール表を切ったものでね、裏に日にちが書いてあったのよ。」
「!!」
「それで調べたら、その年のその日は、学会と言って出かけてるの。私ここ何年分かのスケジュール帳を持ってたから確か。主人はもし仲間のドクターと行くならそんなイニシャルは使わないわ。それにその日にちに沿って自分のスケジュール帳を見てみたら、合ってるのよ。」
「?」
「・・夫婦生活が減ってきてたの。」
「!」
奥さんはそんな事をチェックしてる人だったのか!・・・確かにあのハードな勤務の中で、例えしょっちゅうじゃなくても、私と寝たあとに奥さんとも寝るのは厳しかったとは思う。私とホテルに行っても、何もしないで帰ることもあったのだ。そこまでは考えもしなかった。
動悸がおさまらない。眩暈がするようだ。茫然自失。出口はどこ?・・・本当に私は逃げ切れるのだろうか?十字架を背負うだけでは、志生を失うだけでは足りなかったのか。
そして奥さんの話は続く。