第98章―暖かい色のコート・10万円のセーター―
「ふうん。会社辞めてまで付き添ってるんだ。すごいね。」
潤哉がビールを一気に飲んで、ため息つきながらそう言った。
そろそろ冬が近くなり、居酒屋のメニューには鍋の文字がちらほら出始めていた。私のメールの返事をなんとなく不審に思った潤哉が電話をくれたのが昨日。そして今夜、私たちはとりあえず飲んでいる。
「よく決心したというか・・。何とかにつける薬はないっていうか。」
潤哉は“呆れてものが言えない”ふうに言ってるけど、実際はそう思ってないのが分かる。本当に私を心配してくれている。そういう奴なのだ。
「でもよかったんだよ。これで。あのまま志生を彼女の所に行かさなかったらきっと後悔したから。」
「そうなんだろうな。」
「志生もね、最初はもしかしたら同情とか、責任感だけだったかもしれない。でもこの前会った時の顔は、もう私の彼氏じゃなかった。」
「・・・。」
「あれでよかったんだよ。」
私も焼酎を飲みほした。
「でもさ、こう言っちゃ悪いけど、その、富田さんだっけ?癌の人。もう長くないんだろ?」
「多分ね。でもわからないわ。医学の見解が実際の患者さんの病状と違うなんて例は、それこそ降って湧くくらいあるのよ。もしかしたら予想より長く頑張れるかもしれない。志生もいることだし。」
「そりゃそうだろうけど・・。でも遅かれ早かれ天国へ召されるのが妥当なんだろ?」
「・・そうね。否定できないね。」
「そしたらどうするの?寄り戻すの?」
「誰と?志生と私?」
「他の話のワケないだろう。」
「・・どうだろう?今は想像つかない。というか、もう志生は私じゃなくて富田さんを愛してるんだから、私との事は終わったことだから、富田さんが亡くなったからって私の所に来るとは思えないっていうか・・。それとこれとは違うっていうか。」
「でも、やっぱり戻ってくると思うよ。」
潤哉がもしかしたら私をなぐさめるつもりでそう言ったのかもしれないと思ったけれど、どうしてもそれが私の中ではイメージとして湧かなかった。志生は知紗子さんがいなけりゃ私、私と終われば知紗子さん・・というような優柔不断な男じゃない。少なくともこの前会った時の志生はそうだった。別れを決めた最後の晩に「待ってて欲しい」と言った志生とは全くの別人だった。あの志生が今さら、たとえ知紗子さんが亡くなっても私の所に戻ってくるだろうか。そうだとして、はたして私は志生を受け入れられるだろうか。
志生を愛してる。と思う。“と思う”がついてしまう時点で、納得できない自分がいる。思うという言い方は時に曖昧で中途半端だ。そして今の私は曖昧で中途半端にしか志生を想えていないと思う。この感情が淋しさなのか、切なさなのか、愛なのかさえよく見極められない。
潤哉はそれ以上何も言わなかった。共通の友人の話題に変えて、アルコールを喉に流していった。気がつくともう夜中の0時に近かった。私たちはどちらからともなく店を出て、タクシー乗り場に向かった。
「でも、自分の心に嘘はつくなよ。」
別れ際、私を先にタクシーに乗せてくれた潤哉がそう言った。
「そうだね。ありがと。」
・・・友達って本当にありがたい。もしかしたら、ううん、もしかしなくても、私にとって一番必要な人は、ああいう気のおけない友達と呼ぶ人たちなのかもしれない。
それからまた時間が流れた。志生からは何も連絡はなかった。知紗子さんの病状が気になったけど、彼女の病院からほぼ定期的にくる院長宛ての報告書には“小康状態”という文字が何度か綴られていた。
知紗子さんは・・、一生懸命志生と少しでも長く一緒にいる為に頑張っている。何よりも志生の為に。確かめなくてもそんなのは不必要だった。どうか、どうか、彼女の命の灯が消えないように。私は小さく祈った。独りの方が素直に祈れると思った。
街のあちこちの銀杏が金色に輝き始めた頃、私はデパートで冬のコートを探していた。今自分が持っているコートの色がモノトーン系ばかりなので、少し暖かい色のものが欲しくなったのだ。行ったのが志生とネクタイを買ったところだったので、ちょっとした拍子に私は志生と歩いたことを思い出した。
私が買ったネクタイをまだ志生は持ってるんだろうか。あの頃はまだ暑かった。冬のコートのことなど全く視野になかった。・・・今年の冬はきっと寒い。凍える寒さになる。そんな気がした。
平日の昼間なのでどこのフロアも空いていた。ちょっと目に止まったものを見て足を停めるとすぐ店員が寄ってきた。
「今日はどのようなものをお探しですか?」
「いえ、ちょっと。」
適当に濁す。うっとうしくて仕方ない。さりとて相手もそれが仕事だから余程しつこくなければきっぱり言う訳にもいかない。
私がコートの売り場で何気なく見て回っていると、少し離れたところで立っていた店員が“暇つぶしがやってきた”とばかりにこっちへ歩き出した。“ゲッ!こっちくる。”と思った時大声が飛びこんできた。
「だから無いなら無いって言えばいいことでしょう!?」
ビックリしてその方向を見た。そしてまたビックリした。
「無いもの売れなんて言ってないのよ、でも他のものじゃ嫌なのよ、わかった?」
「申し訳ございません!」
若い女性店員を怒鳴りつけていたのは、あの人の奥さんだった。・・・横浜以来。でもあの日見たような服装はしていない(当たり前か。まだ昼間だし)。以前会った時と同じような品のいい服装、サーモンピンクの薄手のセーターにオフホワイトとベージュの中間のような色のパンツ。茶色のパンプス。一見カジュアルっぽいのだが、彼女が来てるとどれも高級な品に見えた。セーターだけで10万位するのではないか。もしかしたら3万位かもしれない。でも彼女が身につけると10万円の物に見える。店員もお金のある自尊心の強い主婦が来たと思ったのだろう。だから彼女の目的のものがなかったら他のものを代用させてでも売りたかったのだ・・二人の様子を眺めながらそんな事を邪推した。
「お客様、どうなさいました?何か失礼が。」
マネージャーらしき中年の男性店員が飛んできた。彼女はうんざりした顔をして、
「ああ馬鹿らし。」
と言ってその場から立ち去るべく歩き出した。その後ろを男性店員が困った顔で「あの・・あの・・」と追いかけてくる。そして私の前を通り過ぎようとした時、彼女は私の方を見た。そして「!」という顔をして停まった。彼女が急に停まったので、男性店員は前につんのめりそうになった。
「・・あなたは。」
「お久しぶりですね。」
私もまっすぐ彼女の顔を見た。私が追い詰め、私の為に死んでいったあの人の奥さんをまっすぐ見た。