第97章―不似合な月―
1ヶ月が過ぎた。
私はひたすら与えられたノルマをこなす如く仕事をしていった。他の事は何もしなかった。休みの日はただ寝て過ごした。どこにも出かけなかった。誰にも会わなかった。一度潤哉からメールがきて「あれからどうなった?」と心配してくれていた。でも私は適当なことを言ってごまかした。
ただ時間が過ぎていった。ただ時間が過ぎるのを私は待っていた。時間が経つのを待っていた。それしかなかった。
誰にも癒されない。何にも慰められない。そんなのは無理だったし、あえてそれを私は求めなかった。ただ時間が静かに過ぎてゆくのを眺めていた。
富田さんの病状は落ち着いてるようだった。院長宛てに来た、富田さんの主治医からの報告書には「食事も少量ながら摂取でき、笑顔も見られ、疾患への前向きな姿勢がある」とあった。癌の進行状況に関しては、「抗がん剤の効果でやや進行が緩やかになっている」と書いてあった。
それを富田さんがいた病棟の看護婦に聞いた時、正直私は複雑な気持ちになった。そして複雑な気持ちになった自分に嫌悪感を持った。嫌な、嫌な私。富田さんと志生の幸せを望んでいるはずなのに、胸に広がる黒いものを抑えられない。病んでいる。本当に私の心は病んでいるとしか言いようがないな、と思った。
その土曜日、私は休みだった。ここずっと外出もしなかったのだが、久しぶりに目覚めがいい朝を迎えたので、久しぶりに外へ出かける気になった。サボコも「それがいいよ。ひとりもいいもんだよ」と言ってくれた。
車に乗っても行くあてがなかった。ハンドルを持って私はしばらく考えてしまった。そして自分の気持ちに正直になることにした。・・・見に行こう。こっそりと。二人がどうしているか。
私はその癌専門病院に来るのは初めてだった。新しくて大きな白い建物。ベッド数700床といったところか。敷地内には広いというより広大と言った方が正しいほどの芝生が敷き詰められていた。
駐車場に車を停めてその巨大な建物を見た時、あまりの白さにキーンと音がしそうな感じがした。そしてこの建物の患者が、基本的にはみんな癌に侵されているのだと思うと、どんなに新しくて真っ白でも、どこかしら寒いイメージがした。
正面玄関に入ろうとした時、芝生の庭の方で見覚えある人影が見えた。ちょっと離れていて一瞬目を凝らしたが、間違いない。志生だった。志生と車いすの富田さんだった。私は病棟に行かなくて済んだ事をまず安堵した。これほどの施設になると、やたらにはウロウロできない。しっかりとした面会がわからなければ直ちに不審者にされてしまう。セキュリティのレベルが私の勤める病院とは明らかに違う。正直ここまできても、二人がどうしているか確認できない可能性の方が高いと思っていたので、私は運がいいと思った。
何度も志生に電話しようと思った。富田さんはどうしているか。病状はどうなのか。二人の関係はどうなったのか。結論で言えば私は志生に連絡を取らなかった。いや取れなかったというのが正しい。志生の声を聞く勇気も、もちろん内容を聞く勇気もなかった。私は自分のダメージの大きささえ自覚しようとしなかった。そうして時間が経つのを待っただけだった。
志生と富田さんは誰から見ても恋人同士か夫婦に見えた。志生が芝生に座り片方の手を伸ばして、車いすに座っている富田さんの手と繋がれていた。志生の顔が笑っているのが見えた。富田さんは私から見ると背中だったので、表情はわからなかったが、志生の顔を見ていれば同じように笑顔でいるのが容易に想像できた。
そこは二人だけの空間に見えた。誰も近付けない、入り込めないものがあった。・・・もしかしたら傷つくかもしれない。二人がいる所を見たら私は。そう思っていた。でも実際目にしてみるとそんなことなかった。あまりに二人が自然に見えた。志生が、志生の顔が、私といた時よりも落ち着いた笑顔をしている。ここにいるのが当たり前のように。
やはりあの二人は一緒にいるべきだったんだ。たまたま運が悪く歯車が狂ったけど、たまたまそこへ私という女が出てきてしまったけど、結局は落ち着くべきところに落ち着いただけなんだ。私はごく普通にそう思った。この1ヶ月、ずっと最低限の外出以外家に閉じこもっていたけれど、その時より今の方が心が楽になっていくのが分かる。志生はちゃんと帰るべきところに帰ったのだ。戻るべきところに戻ったのだ。ほんの少し、私、暁星萌という女に寄り道してみただけなのだ。
二人は多分二人にしか聞こえない小さな声で、二人だけにしか知らなくていい小さな話をしていた。少なくともそんな風に見えた。恋人が恋人と語る時、それは他の人に理解できなくても、愛する人にだけ伝わればいい言葉で語られる。それは時には言葉も要らない。声として空気を振動させなくてもちゃんと語られる。目を合わすことさえ要らない。心で語られるのだ。
私から見た志生と富田さん・・知紗子さんは、本当に私の理想の恋人同士だった。私があの人といた時何度も夢見た理想。志生と積み上げたかった理想。
本当は知紗子さんの顔も見たかったのだが、二人の様子からこれ以上何も確かめる必要がないと思ったので、私は駐車場に向かって歩き出した。よかった。本当によかった。間違ってなかった。私と志生が別れたのは間違いじゃなかったんだ。そうかみしめた。
車が見えてきた時、後ろから声が聞こえた。
「萌。萌だろ。」
振り向くと志生が走ってきた。その瞬間、言いようのない切なさがこみあげてきた。この前まで恋人だった人。今は恋人と呼べない人。
「・・久しぶり。」
顔が見られない。俯いて挨拶する情けなさ。意味のわからない涙。
「・・俺たちが心配で来てくれたんだろ?」
俺たち。さっきまで二人を祝福していたのに、志生からそれを聞くのは正直痛かった。言葉のナイフは本当に底なしに突き刺さる。
「・・ちょっと通り道だったから。」
やっぱり顔があげられない。
「ありがとう。・・知紗さん、今日は落ち着いてる。日によって症状に波があるんだ。」
気の回らない志生がよかれと思って知紗子さんの病状を話し出した。それはもう今は私の神経を逆なでするだけだった。
「いいの、落ち着いてるなら。じゃあ。」
志生の言葉を遮り車のドアを開ける。その様子を志生が見て気付く。
「ちょ、ちょっと待って。俺何か悪かった?」
「ううん、そんなことない。急ぐだけ。通り道って言ったでしょ?安心したし、帰る。彼女の所に行ってあげて。」
「さっき看護婦さんが呼びに来て行っちゃったよ。だから萌の方に来たんじゃないか。」
知紗子さんが席を外したから私の方へ来たのか。じゃあ彼女がいたなら、たとえ私に気がついてもこうやって声をかけることなかったんだな。
思った途端、自分の人間としてのレベルの低さにウンザリする。二人の幸せを祈ってるなんて綺麗ごと言ったって、こうやって本人を間近にすれば本性が出てしまう。
「いいよ、もう私とは関係ないから。ゴメン、さよなら。」
こんなこと言いたくない。でもいい顔も出来ない。そんなに人間出来てない。私は無理やりドアを開けて車に乗り込んだ。
「萌、萌。」
コンコンと志生が窓を叩く。そこにいられたら発進できない。仕方なく窓を開ける。
「・・俺、会社辞めたんだ。」
「!!」
「萌がくれた時間を大切にしようと思った。君がいなかったら、俺と知紗さんはこんな風にわかり合えなかった。永久にお互いを理解できないままになるところだった。」
「・・・。」
「会社にも、高峰さんにも、もちろんうちの親にも正直に話をした。お袋は泣いたけどね。君に申し訳ないって。」
お義母さん・・・。
「でも後悔してない。彼女とどれくらい一緒に過ごせるかわからないけど・・・、毎日充実してる。彼女の命を大切に祈るだけの日々だ。これは君がくれたものだ。君が教えてくれたものだ。彼女もそう言ってる。」
「・・・。」
違う。違うのよ、志生。私はそんなに立派な人間じゃないの。今だってあなたたちを見て、冷静さも失ってしまうくらいだもの。
「・・感謝してる。本当にありがとう、萌。」
志生はそう言うだけ言うと私の車から離れた。私は一言も返事できなかったが、ここで何を言っても自分の本心じゃない気がした。うわべなことを言うくらいなら、何も言わない方がいい。そして車をゆっくりと発進させた。
ルームミラーから志生が見えた。志生もずっと立ちつくして私の車を見送っていた。
後悔してると言ってなかった。私はそんな言葉を望んでいたのか?・・違う。それとも違う。
ただ、悲しかった。志生がもう私のことを見ていないのが辛かった。自分で蒔いた種だからわかりきっていたことだけど、やっぱり辛い。切ない。淋しい。
泣きながら運転する向こうに置き去りにされたような月が見えた。真昼の月。いるはずない不似合な球体。それはまさに忘れ去られた置物のように行き場がなかった。そう、今の私と同じように。